これまで何度もBeingの欲望とHavingの欲望について語ってきた。
男女の恋愛模様あるいは同性愛と異性愛の関係などに、この二つの欲望が関係していることを執拗に語ってきたが、ここではその究極型を考えてみる。
これも以前、『舞子はん』という映画のなかで、どちらが舞子はんにもてるかを競い合う男性二人が、最後には舞子の姿で舞台にたって踊るという予想外の展開をするのだが、これは所有の欲望と同一化の欲望との混淆が起こっていると考えた。本来ならこれはあってはならないことである。しかし同時に、自分の愛するもの、自分が所有したいものと一体化したいという欲望はふつうに存在することである。たとえどんなに異様にみえても。
たとえば男性である私が、女性を愛するとしよう。女性をパートナーとして所有しようとする。ここまではいい。Havingの欲望がはたらいている。しかし、男性である私が、女性を愛するあまり、女性と一体化(同一化)しようとしたらどうなるのか。私は女性を愛するあまり女性用の下着を身に着け、さらに女性の化粧をして、さらに女装までして、最後には女性的な話し方や立ち居振る舞いまで身に着けて、完全に女性化するとしよう。これは所有の欲望から離れて同一化の欲望の暴走を許してしまったかのようであり、この場合、私は、一般的基準では、変態である。
しかしたとえば私が中国という国と文化が好きで、中国人のような物の見方、考え方、立ち居振る舞い、また中国語の言語運用能力を身につけ中国人になろうとすることは、つまり愛する外国の、その外国人になろうとすることは、そんなに変態的なことではないだろう。むしろふつうのことではないか。
ただし愛を所有の欲望で語ることには抵抗もある。もしあなたが女性を拉致して性奴隷にするような犯罪者ではないかぎり、またもしあなたが男性の顔をヒールのかかとで踏みつけて喜んでいる女王様タイプの女性ではないかぎり、そのような所有だけが愛のかたちとは思いたくない。
むしろそれは支配・隷属化である。
あるいは外国人になりたい欲望というのは(崇拝したいという欲望でもいいが)、外国文化を所有というよりも外国文化に所有されている感じがする(崇拝は、対象を所有ではなく、対象に所有されることである)。同一化と所有は組み合わせることができる。所有が主体の同一化は隷属化であり、主体が所有されるといえる同一化もある。Possessedは、憑りつかれているという意味である。
では神は、人間をどのように所有するのだろうか。
全能の神だから万人を所有する。万人が神の奴隷になる? もし神が愛する神ならば、神の愛し方は人間の隷属なのか。詩人のブレイクは、私たちが神と思っているものは、たいていは悪魔だと語っていたらしい。たしかに人間を支配し服従させる神は、独裁者、悪魔に近いというか、悪魔そのものである。それは愛する者を拉致監禁する犯罪者と同じである。となると神の所有の仕方は、極限の所有、つまり同一化である。神は、私たちのことをすみずみまで所有する、とはいえ命令したり支配したりするのではない。それは私たち自身になることである。そう神は万人の所有を実現できるが、それは万人になるということである。私たち一人一人が神なのである。
鏡を見れば、自分の顔がイエス・キリストにみえてくる。周りの人間の顔がイエス・キリストにみえてくる(これはジェンダーを問わない)。また神と人の子であるイエスは、人間の顔をもっているから、私たちにも見やすいものとなっている。イエスの顔は神と人間のまさにインターフェイスである。
神は私たちの眼をとおして世界をみているし、私たちの耳を通して世界の音を聞いているし、私たちの声を通して語っている。逆ではない。私たちは神の眼で世界をみているのではない。もし私たちが神の「上から目線」でみているとすれば、私たちは悪魔に憑依されていることになる。神はすべての人間と同一化する。神は下から見ている。下からの目線のほうが、すばらしく、意味があり、また美しいのである。
私たち一人一人が神である。全能の神ではない。全能の神となって世界を支配する? それは悪魔である。私たち一人一人が同じ神の名前をもっている。猫も同じである。猫も自分の三番目の名前が、すべての猫が共通してもっている神の名前であることを知っている。
そしてそれはこの映画『キャッツ』のなかでは、イエス・キリスト/ジーザス・クライストと同じイニシャルの名前のことではないだろうか。そう、ジェリクル・キャッツ。
