仕掛けられた爆月物をいち早く見つけ、多くの群集を退避するように誘導したからこそ死傷者が最小限にくいとめた、まさに英雄的人物が、一夜にして(正確には3日後くらいだが)犯人扱いされ(第一容疑者扱いされ)、あやうくめ逮捕されそうになって、映画でサム・ロックウェル扮する、やさぐれ敏腕弁護士に助けられるという話だが、リチャード・ジュエルが最後に無罪を勝ち取ることは最初からわかっているから意外性はないというコメント(べつにけなしているコメントではない)もあったが、それはそうだが、この人物、いくら無実であっても、あるいは絶対に爆弾テロリストではないとわかるのだが、しかし、その趣味とか、境遇とかで、弁護するのは、相当たいへんだと思うし、もし目をつけられたら、無実でも犯人に仕立て上げられそうな人物である(かくいう私も一時期、ジュエルと同様に、母親と暮らしている独身のデブだったことがあって、ほんと、ひとごとではなかった)。
それに爆弾テロリスト、凶悪犯扱いしているFBI捜査陣に対して、みずから警官にあこがれているリチャードは、あろうことか協力してしまうのである。予告編にもあった電話で爆発予告した犯人と同じ文言を言って録音されそうになる場面など、驚きあきれるしかない。しかしポイントは、どんなに疑われても警察やFBI権力を正義のエージェントとして信じている実直さであって、そのような庶民を情け容赦なく悪人に仕立て上げる権力のメディアの悪意がきわだつことになる。
おそらく事件は、たんに現場にいたFBIの捜査官の怒りと焦りと功名心による見込み捜査、そしてメディアへの意図的な情報漏えいというのではなく(実際、映画のなかのFBIのショー捜査官は架空の人物)、テロ事件の犯人をあげるための国の威信をかけての捜査で、冤罪覚悟の見込み捜査ではなかったかと思う。メディアへの情報漏えいも、女性記者の色仕掛けにあったからではなく、最初から承知のうえでの意図的なものであっただろうし、メディアもそれをスクープとして垂れ流しただけであろう。
映画のなかで犯人をでっちあげようとしたFBI捜査官と英雄を犯人扱いした女性記者がどうなったのか、なにも示されていないことへの不満を述べるコメントがあったが、今述べたようにFBI捜査官は架空の人物なので、その後、どうなったかどうかも関係ない。たとえジュエルが捜査対象からはずされ実質無罪であることが確定しても、それでもワルだと決めつけているこの捜査官の推定有罪姿勢は、ある意味、FBI捜査官の姿勢のメタファーでもあるのだろう。
いっぽう女性記者のその後も、描かれていない。リチャード・ジュエルの母親のスピーチを聞いて涙ぐんでいた女性記者キャシー・スクラッグス。彼女が、その後、ジュエル母子になにか手を差し伸べるようなことをするのではないかとも思ったが、そうなると彼女を演じているオリヴィア・ワイルド、すごいもうけ役をもらったことにはならないかと思ったが、そうではなく、涙ぐんだあとの彼女は、それで映画からは消えた(オリヴィア・ワイルドの近作は、このブログでも取り上げている『ライフ・イットセルフ』)
彼女が色仕掛けでFBI捜査官から情報をもらったところがあるということで物議をかもしだしたようだ。現時点で亡くなっている彼女からの反論なり弁解なりができないので、一方的な決めつけという非難もあるようだが、本来明かしてはならない捜査情報なので、不正な手段で情報をとったか、あるいは情報・印象操作しようとしたFBIと共謀関係にあることはまちがいなく、色仕掛けは、そのメタファーでもあろうが、同時に、FBIの陰謀から注意をそらしているともいえないことはない。そうした女性の色仕掛けという、紋切り型の女性差別的なイメージによって女性ジャーナリストを誹謗中傷しつつ、映画は別の可能性を隠蔽したかもしれない――隠蔽されたのは、FBIが組織ぐるみで情報漏えいしたのではないかという可能性だが。
実際の女性記者は、最初、英雄を犯人へ転落させるスクープをものにしたことで、ある意味「英雄」(「ヒーロー」という英語は女性にも使うようだが)視された。しかし結局、冤罪の片棒を担いだということで非難されたのであろうと想像はつく。彼女もまた現実のジュエルと同じく、英雄から悪役へと転落した。詳しいことは何もわからないが、ただ、おそらくそこから立なおれなかったのではないかと思う。彼女は薬物過剰摂取ですでに死んでいる。
ネットなどの映画評では、警察権力とメディアという二つの権力による暴走あるいは暴力は1996年時点の過去のものとみなしているものもあったが、むしろ、この映画で描かれたような問題は、少しも改善されていない。
ある映画評では、この映画を高く評価して(その内容は説得力のある、りっぱなものだったが)最後に、年表を出してこうまとめていた。この年表はこの映画で扱われた事件の年表だけではなく、アトランタの事件のすぐ前に日本でも起きた「1994年6月27日、長野県で松本サリン事件で容疑者扱いされた河野義行氏について」も触れていた。実際、松本サリン事件では、あるい意味、このリチャード・ジュエル事件と共通するところがあり、鋭い対置だと思った。
ところが最後にこの年表は、カルロス・ゴーンのことを予告もなく出してくる
……
1996年10月26日、FBIがリチャード・ジュエルは捜査対象から外れたことを発表
しました。
2003年5月31日、元米陸軍兵士で爆弾に詳しいエリック・ルドルフが犯人として
逮捕されました。
カルロス・ゴーン容疑者は逃亡し、捜査協力せず、英雄ではありません。
カルロス・ゴーンが逃亡を計画し、逃亡を実行し、カルロス・ゴーンの弁護士である弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士は、初公判の前に「ノー・コメント」と言い残して、辞任しました。カルロス・ゴーンが、「弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士のことを、ウスノロで、間抜けの、アホ野郎」とでも言ってくれれば納得しますが、何も言わないなら、共犯ではないかと思います。日本には、弘中惇一郎弁護士と高野隆弁護士のような弁護士がいるから、日本では取り調べ中に弁護士を同席することすら権利として認めるわけにはいきません。
パンフレットは、よくできているので、映画を理解したい人にはお勧めできます。
これには唖然とした。カルロス・ゴーンを推定無罪ではなく推定有罪として人権無視の拘束をつづけた日本の検察の流した情報をうのみにしている、というか、検察の発表をうのみにしていいのだろうかと、この映画をみて思わないのだろうか。
ゴーンの話をもってくるのは、もうひとつのアナロジーとして、面白いとは思った。しかし「カルロス・ゴーン容疑者は逃亡し、捜査協力せず、英雄ではありません」と書いてあって、こいつは*****だと思った。ゴーンは、リチャード・ジュエルと同様、まぎれもなく日産を立て直した英雄だった(ジェイルは3日で英雄の座から転落させられたが、ゴーンは相当長い間英雄視されていた)。
捜査協力というのは、自分が当事者ではないとき、目撃者とかいうような場合、協力するのは市民の義務だが、警察当局が、自分を犯人に仕立て上げようとしているときには、何もしていないのなら、絶対に「捜査協力」してはいけない。「捜査協力」するとは、自分が犯人でごさいますと、警察なり検察の意向を忖度して、無実でも罪をかぶることでしかない。実際、冤罪事件での偽りの「自供」というのは、取り調べられる側が、警察に「捜査協力」して、警察が望むような自供をした結果にほかならない。この映画でも弁護士は、捜査協力をするなとアドヴァイスしている。捜査協力するとは、おまえはFBIに怒っていいないのか、と。
リチャード・ジュエルの場合も、カルロス・ゴーンの場合も、検察の情報をメディアも検証もせずに、垂れ流しているだけである。検察とメディアの共謀である可能性を少しは考えろよと言ってやりたい。完全に検察目線ではないか。完全に冤罪まっしぐらのクソ野郎ではないか。
さらにいうとカルロス・ゴーンは、リチャード・ジュエルと異なりテロ容疑・殺人容疑で逮捕されたわけではない。カルロス・ゴーンの罪がどのようなものであれ、推定有罪の原則にたって弁護士もつけられない非人道的な取り調べは、この映画でみるアメリカの取り調べよりも劣っている。
実際そうなのだ。アメリカの捜査当局や司法は、リチャード・ジュエルの事件のようなことがあっても、厳正かつ公平なものというイメージがあるが、これに対して日本の司法は国際的にみればクソであり、中国並みと思われている。私は、日本の司法についてそうは思わないが、国際的にはアジアの独裁国家のそれと同じという悪いイメージがついていることは確かであり、今回のゴーン逮捕・拘留、弁護士も付かない取り調べということで、悪いイメージをしっかり定着させた。
この映画では、リチャード・ジュエルがFBIの捜査官たちに言い放った言葉が胸に響くが、実は同じことをカルロス・ゴーンもレバノンで日本の検察にむけて発信したではないか。ゴーンは逃げて当然である。そしてかつて告発されたフジモリ大統領をチリに返さなかった日本の司法当局が、結局、何をいっても無駄である。というか、せっかくこの映画をほめていながら、完全に警察・検察目線で、告発され迫害される被害者の側に立っていないこの****コメンテイターは、冤罪製造マシーンそのものである。
もうひとつ、これもこの映画を褒めていて、最後に一言こう書いてある
あと余談として、今回の試写の主催がテレビ朝日だった。テレ朝関係者、特に報道部は、本作をちゃんと人材育成の教材にしてほしいもの。
とあるのだが、これは報道関係一般にむけて語っているのだろうか。そうともとれる。メディアと警察批判のこの映画の試写会をメディア主宰していることの違和感ということだろうか。たとえば『新聞記者』という映画があったが、その試写会を、内閣府や内閣調査室が主催して行なっていたら、たしかに違和感がある。内閣府の陰謀(それも実際に暴露されている陰謀)を批判する映画を内閣府が主催して試写会を開催することは、もしそんなことがあったらおかしい。
しかし、このコメントはメディア、報道関係者一般にむけてのものであるとも、テレ朝に向けたものでもあるともとれる。テレ朝の社長は安倍のお友達だから現場の報道関係者がどんなに頑張っても、上からの圧力でつぶされる可能性は高い。しかし、ではテレ朝以外のテレビ局は偏向報道ではないというのなら、あなた、自分の頭のなかをよく掃除したほうがいい。ただでさえ少ない理性の欠片をどうか失わないでほしい。
今現在、東出昌大と唐田えりの不倫バッシングが続いている。不倫は犯罪ではない。当事者間の問題で、姦通罪というようなものはない。不倫を刑事事件の犯罪者のごとく非難する日本の道徳ファシズムは、日本が、それこそタリバンに支配されたのではないかと疑わせる。
本人たちが認めていることをいいことに、決定的証拠のようなものはなくても、勝手な推測で言いたい放題である。結局、リチャード・ジュエルが犯人扱いされた1996年のアトランタあるいは米国の状況となんら変化がない。映画館を出れば、映画のなかと同じ光景がひろがっているのだ。
ちなみにテレビ朝日は、自局で東出出演のドラマを放送中でもあって、この件に関して、犯罪的な愚劣な不倫報道というメディア暴力に加担していない。もしそれをもって報道姿勢が偏っている、人材教育がなっていないと批判するなら、あなた自身の人材教育をした人間の顔がみたいものだ。唯一の救いは、こうした不倫報道に、批判も出てきていることである。映画『リチャード・ジュエル』が、不倫報道をふくめメディア暴力――もちろん検察のフェイク――への批判的視座をもたらしてくれたらすばらしいだろう。とはいえいま引用したコメンテイターのコメント見る限り、学習障害者はけっこいるのだとわかるのだが。
なお結末が最初からわかっている映画とはいえ、事実は小説/映画よりも奇なり。リチャード・ジュエルも、もともと心臓疾患があったのかもしれないし、日ごろの不摂生がたったのかもしれないが、40代の若さで死んでいるし、記者のキャシー・スクラッグも薬物過剰摂取で、真犯人が現れる前に、20世紀に死んでいる。誰も、長く英雄あるいは勝者にとどまらなかった。おそらく諸悪の根源たるFBIの関係者だけが責任を追及されることなく出世したのではないかと思われる。どこの国でも同じかもしれないが。
