Tomato Tomato 2
良い翻訳の基準はいろいろあると思うが、正しい翻訳あるいは適切な翻訳というのはどういうものなのだろうか。私がたまたま目にした、そして私自身、そうした経験がある、ひとつの事例がここにある【私自身の経験は後日】。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』丘澤静也訳(岩波書店2013)である。この翻訳は良い翻訳だと思うので、誰にも推奨できるし、私自身、ヴィトゲンシュタインタインの『哲学探究』が言及されたり引用されたりする翻訳をするときには、もっぱらこの版を参照する。また従来第二部とされてきたもの、あの「犬が怒るところは想像できても、どうして犬が希望をもつところは想像できないのか」という考察で始まる部分(ちなみにヴィトゲンシュタインの動物に関する言及はいつも物議を醸しだすのだが)も、排除することなく翻訳されていてありがたい。現時点における翻訳の決定版だと自信をもっていうことができる。460ページで3400円[税抜]というのもありがたい。
訳者あとがきには、この翻訳を野家啓一氏にみてもらったとある。野家啓一氏は、この翻訳の冒頭に「『哲学探究』への道案内」pp.vii―xxivという優れた解説を寄せられている。どういう経緯で、野家氏が「道案内」を書き、翻訳をチェックすることになったのか、何も知らないし、また興味もない。ただ問題というか、驚くべきことは、その野家啓一氏が、丘澤静也氏に渡したのが「A4で34枚の校閲メモ」だとあとがきに書かれていることだ(p.466)。
34枚というのがどれくらいの分量なのかわからないのだが、たとえば1枚に収まるものを34枚に水増ししたということはふつう考えられないので、あまり多すぎないように34枚に収めたということが真相だろう。とすれば、これは分量的に多い方だと判断できる。
問題は、丘澤氏の翻訳、たぶん最終稿ではなかったとしても、かりに下書き、草稿程度の翻訳文を対象とした校閲であっても、翻訳者として定評のある丘澤氏が、そんなにたくさんの校閲メモをもらうような翻訳をしたとはとても考えられないことだ。
もちろんいくらドイツ語翻訳者として優れていても、その翻訳は定評があっても、ヴィトゲンシュタインの哲学分野の著作の翻訳は専門家からみたら不備があるということは考えられないでもない。しかし丘澤氏は、すでにヴィトゲンシュタインの文章を翻訳されているし、それ以外にも哲学書、思想書の翻訳もあって、ずぶの素人の翻訳者とはまちがってもいえない。なるほどドイツ語を学習し始めたばかりの学生だったら、34ページにも及ぶ校閲メモをもらうような翻訳しかできなくても当然なのだが、ベテランの丘澤氏が、たとえ誤訳ではなくとも不適切な訳語や訳文を使って翻訳したとは、どうしても考えられないのである。
もちろん、どんな翻訳者も完璧ではない。また翻訳者は自分が誤訳しているとか、不適切な翻訳をしていると考えて翻訳しているわけではないから、他者によって不備を指摘してもらう必要がある。私も昨年の10月にジュディス・バトラーの『分かれ道』というけっこう大部の翻訳を共訳で出版したが、共訳者の岸まどかさんは、信頼できるとても頭のいい人で、私の分担部分に対しても、もし校閲メモとして文書化したら、それこそ34ページどころか100ページに及んでもおかしくない分量の指摘をいただいた。誤訳の指摘もあるし、私がニュアンスをとりそこねている部分とか、その他、不適切な訳語や不統一のところなどに対して多くの指摘をいただいた。若手の共訳者から、そんなふうにダメ出しをされて恥ずかしくないのかと言われれば、それは恥ずかしいのだが、誰もが自分の翻訳の不備はわからない。だから他者の眼がどうしても必要で、またありがたい。私の場合、共訳者や編集者からの指摘がなければ、これまでも翻訳を出版できなかったことは事実である。
だから丘澤静也氏も同じだと言うつもりは毛頭ない。野家氏の指摘は、それは語訳の指摘もあったかもしれないが、基本的に丘澤氏が誤訳するとは思えないこと、あってもごく少数であると思われるから、なにか不適切なところがあったのだろう。とはいえヴィトゲンシュタインの文章である。ドイツ語で読んだわけではないが、日本語と英語で読む限りのヴィトゲンシュタインは平易な文章で思考している。いわゆる英国の日常言語学派ならではの発想と表現というべきものだろうが、専門用語やジャーゴンを使うことのない思考なり文章に対して、適切な訳語、専門家的な訳語などあろうはずもない。だから何がそんなに問題だったのか不思議なのである。
しかし、さらに驚くべきは、丘澤静也氏が、野家啓一氏の指摘・提案に従わなかったことである。訳者あとがきにこう書いてある――「野家さんからA4で34枚の校閲メモをもらいながら、原稿の手直しは私の判断でやった。つまり、野家さんの指摘・提案どおり直した個所もあるが、それ以外に、つぎのような3種類の箇所がある。(1)本来なら、野家さんの指摘・提案に連動させて手直しすべきところなのに、手直ししなかった箇所。(2)逆に、手直しすべきではないところなのに、指摘・提案に連動させて手直ししてしまった箇所。(3)指摘・提案にもかかわらず、手直ししなかった箇所。というわけで、この『哲学探究』の翻訳で具合が悪いところは、私のせいである」(p.466)。
上記の(2)はよくあることである。指摘された問題について、自分でも発見して、さらに手直しすることはある。これは珍しくない。(1)の場合、さらに連動して手直ししてもよかったところを放置、また(3)では、提案・指摘そのものを無視ということである。これでお二人の関係が険悪なものにならなかったら、むしろお二人の寛容さにはほんとうに頭が下がる。というのも丘澤氏の訳者あとがきの、いま引用した部分は、怒っているのだと思うからである――丘澤氏の人柄を知っているわけではなく、怒ることのない温厚な性格の方だとしても、この文章は怒っていると思われるのだ。たぶん、指摘が多すぎるし、それは、定着した訳語なり翻訳をしないことへの、専門家の上から目線での指摘であったり、翻訳者の創造性を素人っぽい訳と認めなかったりと……、いや、これ以上、勝手な推測を書いていたら、丘澤氏から、ほんとうに怒りをかうかもしれないのでやめるが、たとえ、たんなる翻訳者のプライドの問題だったとしても、私は個人的には丘澤氏の、この姿勢というか潔さには拍手喝采を送りたいし、私もたぶん同じことをすると思う。
というのも、この丘澤静也訳『哲学探究』は、そういうわけで、提案・指摘を忠実にすべて反映していないのだが、読んでみて、なにか違和感を感ずるところはない。すぐれたりっぱな翻訳である。そう思うのは私だけではないと思う。となると、この翻訳を、哲学の専門家なりヴィトゲンシュタインの専門家が手に取って、この翻訳はだめですね、おかしなところがいっぱいあると、30枚くらいの校閲メモを翻訳者か出版社に渡したとしたら、私たちは、その専門家なるものがいったいどういう頭の構造をしているのかといぶかるのではないだろうか。私は専門家というのは誰でありバカで半分発狂していると思うのだが、同時に、その狂気にも論理があって、その正解・不正解、適切・不適切の判断基準なり根拠は知りたいと思う。
とはいえ34枚の校閲メモをよこしてきたという野家啓一氏は、そんな変な人ではないどころか優れた哲学者であり専門家であって、変人扱いなどできる人では決していない。野家氏には、一度、私の翻訳を新聞(一般紙)で書評していただいたことがあったのだが、限られた字数の新聞の書評なので誰が書評しても、たいしたことは言えないどころか、書評者の勝手な思い込みが書かれて終わるような場合が多いのだが、野家氏の書評は、ほんとうに的確に本の内容を短くまとめその長所も的確に指摘されていて、この人は、私よりもまちがいなく頭がいいと認めざるを得なかった。その野家氏の校閲メモは、専門家の硬直化した思考なり判断なりの提示と片づけられないものがある。そして専門家の前では、なぜ、どんなにベテランの優れた翻訳者でも、外国語の初学者なみの能力しかない者にうつるのか、そして翻訳者にとってみれば、なぜこんなにずぶの素人扱いされなければいけないのか。そのメカニズムは、ほんとうに謎であり、また知りたいものである。
これについて私は答えをもっていないが、さらに考えてみたいとは思っている。
