2020年01月17日

『西洋演劇論アンソロジー』

山下純照・西洋比較演劇研究会編
月曜社2019

昨年の9月に刊行された本だが、推薦すべき本だが、ある意味地味な本かもしれないので、2020年になっても推薦することにした。現時点(2020年1月16日)で、たまたまみたAMAZONのサイトでもレヴューがないのは、なんとも残念なので(なお、私は個人的にはAMAZONにレヴューを載せる趣味はないので)。

ギリシア演劇から20世紀のパフォーマンス・スタディーズまで、西洋演劇の歴史をかたちづくる70人の思想家、劇作家、演出家たちの演劇論のエッセンスを、解説と原典訳でコレクション!


と帯にあるが、まさに、この通りで、日本語で類書がないこともあって、貴重なことこのうえのない演劇関連書として長く使われるべき基本的参考図書であろう。

原典から翻訳された演劇論の抜粋が貴重なのだが、抜粋の前に解説文(抜粋よりも分量があることも多い)がつけられ、これが思想家、哲学者、劇作家ならびに抜粋文の解説が、要を得ていて、どれを読んでも教えられることが多い――内容のレベルは、まちがいなく高い。また各抜粋に多くの参考文献リストも付され、それがまた貴重な情報源として、ある意味、索引などを除いて560ページの本の価値を高めている。ほぼ600頁の本が3600円(税抜)というのも、お値打ちといえばいえる。

英文学研究者として、私が最も影響をうけた演劇論は、ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』とヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』だが、この二冊からの抜粋は収録されていない。1980年代半ばまでの演劇論と断ってあるが、その範囲に入るものの、版権などの問題もあったかもしれないが、しかし、本文中に明示されていない編集方針があるのかもしれない。たとえばスタイナーは著名な批評家あるいは思想家といってもいいのだが、演劇製作とは無縁の場にいたかとか(スタイナーには『アンティゴネー』に関する著作もあるのだが)、あるいはヤン・コットの本はシェイクスピア論に特化されていると思われたのかもしれない(抜粋なら、演劇一般論として読めるところが数多くあるし、またスタニスラフスキー・システムがいかにくだらないかを説得力あるかたちで教えてくれたのもヤン・コットで、スタニラフスキー・システムをありがたがっている人たちをみると、私の顔にはジョーカーのように笑みが浮かぶ)。

あるいは私の専門のシェイクスピア時代に特化するなら、ガリーニの悲喜劇論は、演劇史上においても、演劇論史においても重要なのだが、西洋ルネサンス演劇論アンソロジーではないので、選択されなくてもしかたがないかもしれない。というわけで誰だって、これがない、あれがないと偉そうなことは言えるのだが、むしろ、限られたスペースにこれだけのことを選択した、あるいは削る決断をしたことを無条件に讃えるべきだと思う。偉業といってもいい。

実は、この本は月曜社から私のもとに送られきた。献本である。とはいえ、月曜社と私との関係は最悪なので、まずふうつに月曜社から本が送られてくることはぜったいにない。関係悪化の原因は、ひとえに私にあり、責められるべきは私であるため、出版社には全く問題はない。

【以下の記述は私の記憶違いによるものであり、全面的に訂正するが、こういう愚か者がいたという記録として残してい置く。詳しいことは202年1月28日の記事を参照 2020年1月29日記す。】

ならば執筆者に知り合いがいて、その人からの献本かもしれないと思ったが、残念ながら執筆者方々のお名前は知っているが、個人的な付き合いのある方はひとりもいないので、特定の誰から贈られたわけではない。

となると、理由は? たぶん、それはライオネル・エイベルの『メタシアター』の翻訳(高橋康也・大橋洋一訳)の抜粋が、このアンソロジーに収録されているからだろうと思う。エイベルのこの本からの抜粋を載せるのは、私、大橋が、自分でいうのもなんだが、優れた選択だと思うし、収録されたのは名誉なことだと思う。

そして抜粋の最後に「……より許可を得て抜粋・転載」とある。

誰が許可したのだ? 誤解のないように言っておけば、もし私に許可を求められたら、絶対に許可するので、ここに掲載されていることは問題ないのだが、「より許可を得て」と明記してある以上、誰が許可したのかと気になるのだ。

じつは「……より許可を」という「……」の部分には書名や出版社、出版年があるので、「より許可を得て抜粋・転載」というのは、「【記載されていないが許可する人名あるいは団体】より許可を得て、【書名情報】より抜粋・転載」という意味だととれる。

では、どこから許可を得たのかというと、この本は、私と高橋康也先生との共訳であり、もし筆頭共訳者の高橋先生に許可願いがあり、高橋先生が私に相談なく、あるいは事後承諾というかたちで許可された、またそのとき私に連絡する必要はないと考えたか、連絡し忘れたということが考えられるが、その場合、どんな場合でも(高橋先生が私を無視して許可されたとしても)私としては問題はない――そもそも私としても喜んで許可するのだから。

問題は、高橋康也先生は、もう亡くなられていて、残る共訳者は私しかいないということである。亡くなられた高橋先生が許可されることはない。となると誰が許可したのか。

常識的に考えると許可するのは、共訳者のふたりのうち、生存している人間、つまり私である。高橋先生の著作権をもっているかもしれない遺族の方が許可したとも考えられるが、その時は、私にも連絡があるはずである(もし遺族の方に許可願いがあり、その遺族の方が私に連絡しなかったら、これは許し難いことであるが、まずまちがいなく遺族の方にも連絡はいっていないと思う)。もし私に許可願いがきていたら、私から高橋先生のご遺族に連絡をして掲載を許可していいかを確認する。だが私に許可願いはきてない。

こうしたときの業界の常識あるいは慣習、あるいは法的手続きについて全くなにも知らないのだが、この翻訳は、出版社が版権をもっていて、翻訳は出版社が許可すれば、それでいいのかもしれない。とはいえその場合にも、出版社から連絡くらいあってもしかるべきではないか。とはいえ、これはもとの出版社の責任であって、そこが責任あるいは責めを負うものかもしれないので、略式、あるいは形式的・儀礼的でもいいので、手続きをせよと、言いたい。もし出版社が許可したとすればの場合だが。また、繰り返すが、私としては許可するので、掲載されたことについて文句をいうつもりはまったくない。

あるいはこのアンソロジーの責任者(編者かどうかはわからないし、それはアンソロジーの出版社かもしれない)が、たぶん作業の多さから許可願いをするときに見落としなどがあったのかということだろうか。

アンソロジーの編者、アンソロジーの出版社が許可願いをしたか、しなかったか。また『メタシアター』翻訳の出版社が許可したことを翻訳者(私)に報告しなかったのか。いずれにしても、私は、無名の人間だか、連絡がとれないほど無名な人間でもない。Wikipediaに載ってもいるのだし。大学のメールアドレスはいまも維持しているので。

くりかえすが、このアンソロジーに抜粋が掲載されたことは、名誉なことであり、喜ばしいことだが、許可に関してなんら申請あるいは報告がなかったことは、不愉快なことであり、きわめて残念である。
ここでは、たとえ正当な手続きを踏まれたとはいえ、翻訳者である私が蚊帳の外に置かれているのは、不愉快で残念だと書いてあるが、実際には、私にも掲載許可の問い合わせがあり、掲載許可を出していた。蚊帳の外などに置かれていなかったということであり、すべては私の愚かな被害妄想であり、こういう愚か者であることの記録として、また反省の材料として、この記事を残すことにした。不愉快な思い、残念な思いをされたのは、ほんとうは私ではなくこのアンソロジーの編者である山下純照先生であり、また西洋比較演劇研究会編の皆様、そして月曜社であり、ご迷惑をおかけしたことお詫び申し上げます。2020年1月29日 記す。

posted by ohashi at 01:10| 推薦図書 | 更新情報をチェックする