2020年01月14日

『マザーレス・ブルックリン』

映画のタイトルは原題のままだが、これは主人公のライオネル/エドワード・ノートンのことを彼を施設から引き取ったフランク・ミナ/ブルース・ウィリスが付けたあだ名で、マザーレスは孤児だから。とはいえもちろん母亡き、あるいは父亡き、根無し草的な存在としてのニューヨーク・ブルックリン地区のことを掛けてもいるのだろう。

ハードボイルド・ノワール映画の雰囲気を、主人公のナレーション、全編ジャズ音楽を使うなどして濃厚に漂わせているところは、原作はジョナサン・レサムの同名の小説(未読)の雰囲気を引き継いでいるのかもしれないが、1999年という原作の設定を、1957年に変えたことで、ノワール性は強まったが、犯罪そのものの性質は原作と異なるのではないかと思う。おそらく原作との共通点は、オフビートな探偵ということだろうか(レサム自身、Offbeatな作家と言われているのは確か)。ひょっとしたらそれ以外に共通点がないのかもしれない。

私の母親はチック症というのがどういうものか知っていたが、私はテレビでビートたけしを見てはじめて知った(21世紀にはビートたけしのチック症は消滅したように思うのだが)。この映画でエドワード・ノートン演ずる「マザーレス・ブルックリン」ことライオネルは、これまた私が知らなかった「トゥレット症候群」(Tourette syndrome)を患っている。これはチック症が身体的にあらわれるのではなく、言語・音声であらわれるものということだが、個人的に私は、それを実際に目撃したことはない。

Wikipediaの記述を引用すると:

トゥレット障害(トゥレットしょうがい、英語: Tourette syndrome)またはトゥレット症候群とは、チックという一群の神経精神疾患のうち、音声や行動の症状を主体とし慢性の経過をたどるものを指す。小児期に発症し、軽快・増悪を繰り返しながら慢性に経過する。トゥレット症候群の約半数は18歳までにチックが消失、または予後は良いとされている。
チックの症状のひとつに汚言症があり、意図せずに卑猥なまたは冒涜的な言葉を発する事から社会的に受け入れられず二次的に自己評価が低下したり抑うつ的になったりすることがある。ただし、この症状が発症することは稀で子供や軽症例では殆ど見られない。


ここで触れられている汚言症というのが、映画のなかで主人公が患っているもの。Wikipediaの記述によると:

汚言症(おげんしょう、英:Coprolalia)とは、卑猥語や罵倒語(汚言、醜語、糞語、猥言、猥語)を不随意的に発する症状。猥褻語多用癖。複雑音声チックの一種であり、チック症の身体症状と同じく、突発的かつ急なリズムで繰り返される。その内容は人によって個人差がある。
トゥレット症候群の重篤な多発性チックの症状として最も特徴的と考えられていたが、今日では決定的な診断基準ではない。むしろトゥレット症候群の中でも少数派だがあまりにも特徴的なので目に付きやすいという側面の方が強い。また、僅かながら他の疾患にもみられる。


さらに音声チックの一種とあるので、音声チックをWikipediaで

音声チック
咳払い、短い叫び声、汚言症(罵りや卑猥な内容)、うなり声、ため息をつくなど
一見チックに意味があるようにみえることがあり、これが更なる誤解を生むことがある。またチックはある程度抑制することができる場合
もある。そのため、例えば学校等の公共の場ではチックを我慢し、家などに帰ると安心し、抑えていたチックを起こす場合もある。以下略。

とあって、これには見ていて戸惑いを隠せなかった。実際に日常的に遭遇する症候群ではなかったので、最初、何が起こっているのいぶかった。しかもライオネル/エドワード・ノートンは、しゃっくりをするように、「if」ということばを突発的に出すため、一体何が「もし」なのかと最初のうちはほんとうに不思議でしかたなかったが、しゃっくりのようなもの、それにifという音がついているだけで、意味がないということがわかるまでに時
間がかかった。

この設定は、うっとうしいことこのうえないので、こんなに突然、汚い言葉を吐いたり、「いふ」と発作的に叫んだるする人間に探偵ができるのか、まともな捜査ができるのか、そもそも、みていてうっとうしいし、そうした症状の人間に対する差別的な感情をいだかせてしまうのではないかと心配になるし(全米トゥレット症候群協会は、この映画を好意的にとらえているようなのだが (Edward Norton met and consulted many members of the Tourette's Association of America to prepare for the role. The film has received approval from the organization as well.IMDb))、当然、この設定は、たとえ原作にあっても、映画でははずしたほうがよかったのではないかという感想も生まれてきておかしくない。

まあ、最終的には慣れてくるし、また汚言症というのは、コミュニケーション的みれば、ディスコミュニケーションどころか真のコミュニケーションの達成なので、うっとうしいが、すがすがしさもある。精神分析では、言い間違いとかジョークというものを、ふつうなら抑圧されて口にされることのない本音が噴出する機会と考える(冗談とか言い間違いという口実のもとに本音がいえる)。したがって言い間違いは、本音が言えたといことで真のコミュニケーションが達成されたものともいえる。汚言症となると、これはもっと顕著で本音が言い間違いとかジョークというかたちで加工されることのない、抑圧なきストレートな噴出となる。強いて言えば、病気だからという口実のもとに本音がいえるのだが。

この音声チック、汚言症が、映画全体の主題ともなっているとみることができる。

たとえばこの映画での黒幕といっても公的な人物なのだが、アレック・ボールドウィン扮するモーゼズ・ランドルフは、ロバート・モーゼスをモデルにしている(実在したロバート・モーゼスの兄はポールだったが、映画でもウィレム・デフォー扮する、モーゼス・ランドルフの兄の名前はポール)。フランク・モーゼスとは誰か。またもWikipediaをみると、

ロバート・モーゼス(1888年12月18日 – 1981年7月29日、英語: Robert Moses)はアメリカの都市建設者・政治家で、特に20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される。1981年7月29日、92歳の高齢でニューヨークに逝った……


ニューヨークの都市計画について関心がなくとも、またアメリカの社会文化史、建築史などについて知らなくとも、このロバート・モーゼスは、もう一人の宿敵の名前ともに日本でも記憶されている。すなわちジェーン・ジェイコブズ。

ジェイコブズの著作は『都市の原理』『アメリカ大都市の死と生』(ともに鹿島出版会)、『市場の倫理 統治の倫理』(ちくま学芸文庫)をはじめてして、いくつか翻訳されていて、日本の読者にもなじみがぶかい――図式的にいえばポストモダン都市論の旗手的存在でもあるのだが、その彼女が計画を凍結させた相手こそロバート・モーゼスだった。『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』(マット・ティルナー監督)というドキュメンタリー映画が2018年に日本でも公開されたが、ロバート・モーゼスとの対決がメインとなっていた。

『マザーレス・ブルックリン』でもモーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの都市計画には反対運動が起こっており、またそのモーゼス・フランクの人種差別的言動は、実際のロバート・モーゼスを踏まえているところもある。また映画のなかでモーゼスは、敗退しないが、しかし、実在のロバート・モーゼスの神通力も50年代がピークで、60年代に入ると、その影響力を着実に失っていくことから、映画は、敗北しそうになくても、実は敗北するしかないモーゼスの姿を暗示的に提示しているといえるかもしれない。

そういう意味では、まさに1950年代後半のニューヨークの状況と見事にシンクロしているところがあり、面白い。ノワール映画の結末としても、私などは、もうひとつのオフビートなノワール映画『ブレード・ランナー』を思い出した。結末はおなじではないか。また『ブレード・ランナー』のレプリカンとは、アフリカ系アメリカ人のアレゴリーともいえるので、両作品はシンクロしている。

そしてふたたびチック症に戻れば、モーゼス・フランクの強権的都市開発、再開発プロジェクトは、利権がらみで私腹を肥やしたいかというと、そうでもなく、たんに権力が欲しいという、権力亡者であると語られる。そうなると、ある意味、彼の強引なプロジェクト遂行は、ある意味、やむにやまれる権力衝動のようなもので、それはライオネル/エドワード・ノートンのチック症と選ぶところがないのではないかともいえる。ある意味、映画のなかの全員がチック症ではなかと、主題論的にまとめることもできないことはないのだが、モーゼス・フランク/アレック・ボールドウィンの権力の病理は、ロバート・モーゼスの伝記『パワー・ブローカー』のなかでも指摘されていることで、それを踏襲しているだけかもしれない。

しかし、主人公のチック症は、いまひとつの偉大な映画を思い浮かべないだろうか。私にとっては2019年最高の映画『ジョーカー』である。

あの映画のなかで最初にジョーカーが冒す殺人は、地下鉄の車内において、女性客に嫌がらせをする、クソ証券マンたちに対してであった。証券マン全員がクソではないが、彼らは、日本の裁判の有罪率と同じで99.9パーセント、殺されても当然のクソだと私は思っているのだが、そのクソ、エリート証券マンたちの怒りをかったのはジョーカーが笑っていることだった。ジョーカーの、いわゆるピエロの笑い顔というのは、意図的なものか、それこそ無意識のチック症のようなものかはっきりしないのだが、映画のなかでは、何を笑っているのだと問いただされて、ジョーカーは、これは病気で笑ってしまう、笑い病だから許してほしいというようなことをいうのだが、女性への嫌がらせ、さらには彼らのビジネスを、意図的に笑われたと思う証券マンたちは、ジョーカーを袋叩きにする。そしてそこでたまたま拳銃を所持していたジョーカーが射殺する。映画のなかでのジョーカー誕生へ向けての最初の一撃のシーンだった。

映画『ジョーカー』における笑いは、強烈で、奢れるもの、皇帝を王座からひきずりおろすほどの破壊力をもつ。しかも、この強烈な武器は、無償のもの、弱き者、貧民の最終兵器である。その強烈さは、いくら病気で意図的なものではないと弁明しても、許されないことである。『マザーレス・ブルックリン』のライオネルのチック症は、病気だからということで周囲から許されてしまうので、そこに人間関係の温かさも感じ取れるのだが、破壊性や攻撃性が乏しいということはいえるだろう。しかし、発作的にあらわれる抑制できない雄叫びは、あるいは「イフ」は、いまこそ求められるひとつの好機ではないだろうか。もう怒りや下品な言葉を抑える必要なはい。それを解放すべきではないか。これがこの映画に付与しているのではないか――1957年という、ある意味、現代から隔絶しているノスタルジックな過去物語を『ジョーカー』経由で私たちの、いまとここに接続することにある有意味性を。

追記 原作者Jonatahn Lethemは、「レセム」ではなく「リーセム」ではないかと思うのだが、これは映画会社に責任はない。早川書房の翻訳では、どれも「レセム」になっているし、早川書房の人名表記はつねに正確だと思うので、根拠のある発音表記かもしれない(作家本人がそういっているのかもしれない)。また万が一、早川書房の表記がまちがっていたとしても、すでに「レサム」というサーネイムというかファミリーネイムで登録されている以上、映画会社も、登録名を使うほかなかったかもしれないので。

posted by ohashi at 15:05| 映画 | 更新情報をチェックする