原題のSorry we have missed you.というのはどんな意味なのかと思っていたら、宅配便の不在票に最初からかかれている言葉だとわかった。「本日、残念ながら、私たちは、あなたにお会いできませんでした」という意味だと映画の途中でわかった。たぶん、これは決まり文句なのだろうから、それ以外の意味は考えられない、あるいは考えてはいけないのかもしれないが、「私たちは、あなたがいなくてさびしい、あなたにあいたい」という意味にもなろう。おそらく、この不在票の決まり文句と、もうひとつの意味、そして宅配便、それだけで、この映画が語り尽くせるのかもしれない。
ケン・ローチ監督の作品は、いつも深い感銘を受けるのだが、この作品は、これまでのベストのひとつといっても過言ではない。あそこで終わるとは思わなかった、まさにカタルシスなしの映画に、私は打ちのめされた。怒りと悲しみ、絶望と閉塞感が、頭のなかに渦巻いて、自分の生き様の不定形性に圧倒された。つまり、ぼーとして生きてきた自分を痛感した。今が非常事態で、警報が鳴っているのにまったく気づかなかった。
比較的最近、日本でも、フードデリバリーの大手Uber Eatsと配達員とのトラブルがあって、労働組合「ウーバーイーツユニオン」を発足したというニュースがあったが、同社の配達員は、雇用契約ではなく業務委託契約で勤務しているため労働法が適用されないという。この映画でも主人公は配達会社の社員になるのではなく、個人事業主として業務委託契約をする。個人事業主と、自営業あるいはフリーランスとどう違うのは、私には定かでないが、個人事業主というと、なにか聞こえがいいが、要は、社員ではないから、会社が社員を守ったり、その要求に耳を貸すことはない。固定給もないし、社員でないから労働者としての基本的権利なり人権など完全に無視される。保険も年金も関係がない。会社が面倒見てくれない。ようは、そういうかたちで安い賃金で労働者をやとって企業収益をあげる。
Uber Eatsの配達員も、この映画の配達員も、いや労働者の多くが、ただただ搾取されて、同じであることがわかった。労働者の人権も権利も福祉もなく、ただただ搾取されるだけの貧困層になっている。ケン・ローチ監督の映画に登場する労働者階層の人びとは、みな立派な人たちである。実際、それは誇張でもなんでもなく、真実の反映であろう。ところが、こうした階層の人々がほんとうに没落してゆく。なんらかの解決案を示そうとする人たちもいない。いや、示すことができない。
『パラサイト』の感想のときに、それを『万引き家族』と『ジョーカー』に肩を並べる作品であると述べたが、この『家族を想う時』も、この三作品にさらにくわわる四番目の映画となるだろう。それはまた『パラサイト』と同じ、父親が迷って消える話である。父親をふたたび帰還させることができるのはいつなのだろうか。『パラサイト』も『家族も』安易な希望は拒否している。別に父親だから、男性だから、家族や社会をささえるべきだとうことはないので、ジェンダーを特定しないが、社会の柱、あるいは家族の柱となる人間が、いまは没落し排除されていない状態である。
Sorry we have missed you.
追記
この映画のなかで主人公が宅配業務をつづけるとき、娘といっしょに配達する場面がある。元気な娘が父親を先導して建物の廊下を走る場面は活力にあふれ、見ていても幸せな気分にさせられる。
もちろん、このとき不在票に娘が書いたコメントが後から客からのクレームを呼ぶことになるのだが、さらに娘といっしょに配達したことに対して会社側から注意される。
ただし会社の社員ではなく、個人事業主として会社と契約をむすんでいるのであって,車も会社のものではなく、自分のものなので家族を乗せても問題ないはずである。
事実、そうなのだ。ずいぶん昔のことになるが、私がイギリスに住んでいたころ、日本から到着してまもなくのころでもあったのだが、日本からの荷物をフラットが入っている建物の玄関で受け取った。重い荷物であることはわかっていたから、運送業者に運んでもらおうと思っていた。と、そこで玄関のドアを開けたら、宅配業者の男性と、たぶんその男性の息子だと思われる小さな男の子が、そこにいた。私は運送業者が子供といっしょに荷物を配送するさまを想像もできなかったので、驚いた。また私は背が高いほうではなく、日本人男性の平均身長よりも背が低いのだが、その私よりも、そのイギリス人の男性は細く小柄で、そんな男性の息子の前で、荷物を階上まで運んでくれとも言えず玄関で受け取るにとどめたのだが、それはともかく、子供と一緒に荷物を持ってくることには日本ではないことなので驚いた。
そしてこの映画をみて、もうあれから何年たったのだろうか、はじめて私はあのときどうすればよかったのわかった。あのとき私は、その子供にチップをあげればよかったのだ。もちろんそのとき財布をもって玄関を開けたわけではないので、すぐにチップを渡せる態勢になかったし、日本にそういう習慣がなかったので、そのときはなんとも思わなかったのだが、とにかく、子供にチップをあげるべきだったと、この映画をみて後悔することになった。
で、勝手な推測だが、運送業者や宅配業者が子供と一緒に宅配する(子供へのチップめあてもあるだろうが)のは英国の伝統のようなものと化していたのだ。それが労働者から搾取するしかない企業側から文句をいわれ家族の交流が阻害される。個人事業主としての契約にもかかわらず。映画のなかで妻である女性が、運送業者の上司に「私たち家族を馬鹿にしないで」と怒鳴っていたが、あれは英語を直訳すると「私たち家族をめちゃくちゃにしないで」というような意味だった。この格差社会において破壊される家族。それがこの映画のテーマだった。『パラサイト』と同じなのだが。