周防正行監督の作品は、予想どおりの映画であったが、同時に、予想をうわまわるゆるさで、面白いのだが、そのゆるさに苛立ちを感じるところもあった。
映画あるいは映画製作を扱うメタ映画の場合、お約束となるのは、映画の内容そのものが、当時の映画の内容じみてくるということである。
いくらサイレント映画の製作や興業を扱う内容だからといって、その映画自体が、サイレント映画のドタバタ喜劇になる必要はないのだが、こういう映画のつねとして、サイレント映画にまつわることを扱う映画そのものが、サイレント映画じみてくるのである。しかし、それで面白くなるかというと、そうでもない。おそらく誰もが感じるだろうが、最後のほうの自転車での追いかけっこは、自転車を降りて走ったほうがずっと早いと思わせるくらいに、ゆるゆるのドタバタ劇なのだが、これには反発を感ずる観客もいるだろう。また異論もあろう。というのも当時のサイレント映画におけるドタバタは、今では考えられなほど危険なもので、スタントマンのなかには怪我人や死者がたくさん出たし、まさにドタバタシーンは命がけであった(俳優がスタントマンなしでも演じていたこともよくあった)。それは当時のサイレント映画をみてみればわかる。ところが、この映画は何を勘違いしたのか、ゆるい追いかけっこを展開する。そして映画もクライマックスになろうかというとき、このゆるさは、苛立たしい。そのあたりに脚本のまずさがどうしても際立ってしまう。
ちなみにサイレント映画を私は子供の頃、毎日みていた。もちろん映画館ではサイレント映画は上映されていない。ではどこでかといと、それこそ光線式リモコンでチャンネルを動かしたテレビ(1月1日の記事参照)で、毎日、見ていたのだ。アメリカのサイレント映画中心だが、それをテレビで放送していた。映像と映像との間に文字が入るというサイレント映画そのままに、テレビ局でナレーションを付け、また音楽もつけていた。さながら茶の間がサイレント映画劇場と化したのだが、映画館ではなくテレビでサイレント映画をみていた私たちの中高年世代にとって、すくなくともサイレント映画のアクションシーンは、たとえどんなに動きがぎくしゃくしていてリアル感がないとしても、そのすごさには圧倒されまくっていた。もちろんそれを再現することは不可能だし、再現する必要もないが、まちがった再現法は避けてもらいたかった。
またサイレント映画の内容も起伏あり波乱万丈の展開ありで、決して単調なものではないのだが、解像度の悪さとぎくしゃくした動きなどから、どのサイレント映画をとってみても、同じにみえるような、画一性が際立つきらいがある――いまからみればの話だが。
この映画では登場人物を全員フラットにして、そこから映画ならびに映画の製作と受容そのものの魅力を立ち上げようとしたのかもしれない。たしかに成田をはじめ活弁師の語りの魅力についてこの映画はあらためて再認識させてくれるのだが、そうだとしても、ここでの映画の製作と受容の魅力と言うのは、活弁を除けば、ある意味、フラットで変化とか深みとか起伏にとむものではないし、サイレント映画がそもそも今の眼からみると、すでに指摘したようにフラットな印象しかあたえたないため、フラットによってフラットなものを救出しようとしてもむりがある。
さらにいうとこの映画でフラットな登場人物はみんな役立たずである。フラットにシンプルに役立たず。これは周防正行監督の喜劇作品の場合、興味深い喜劇的効果をうむし、シリアスドラマの場合には深みのある陰影を与えることにもなるのだが、全員役立たずの場合、そこにあるのは、いらだたしい単調さのみである。つまり人物の性格にみられる意外性というのが全くない。意外性などなくてもいいのだが、ただ、全体のバランスとして、ここでそれがないとつまらなくなる。
また映画では映画館のなかのようすがみえるし、それを私たち観客は映画館でみているという、二重三重の入れ子構造になっているのだが、映画の観客と映画館の観客との間にある種の緊張関係が生まれてもおかしくないのだが、二種類の観客との間に相互作用あるいは化学反応がおこったかどうか定かではない。
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ここまでは素朴な印象というか感想だが、この映画から教えてもらったことは多い。そもそもサイレント映画といいながら、サイレントではなかったことは、この映画のなかで字幕で示される稲垣浩監督の言葉からも、またこの映画そのものからもわかる――弁士がいて、楽隊がいて、言葉・朗誦と楽器に演奏による、およそ沈黙とは無縁の世界が映画館に立ち上げられていた。
つまりフィルムに定着された映像は、完成体というよりも、さらに加工される素材でしかなく、そこに言葉や音楽が容赦なく浴びせかけられた。映画とは、まさにそうした加工されたものを鑑賞するのであって、生の素材としてのフィルム映像は、おそらく今でも鑑賞の対象ではないのだ。もちろん活弁師はいなくなり、映画にはサウンドトラックによって音声や音楽が入るようになった。映画の自己完結性は高まったとはいえ、映画は紹介、レヴュー、評論、解釈と、さまざまな言説に囲繞され、その内容なり手法なり評価を確定されてきた、というか未完のまま送り出され、受け継がれることになった。現代においても映画の素材性はいささかなりとも減じていないのだ。
どんなアクシデント、失敗、事故でも弁士の手にかかれば、有意味なシークエンスなりシーンへと変貌を遂げる(この映画のエピソード参照)。弁士なくして、また弁士なきあとも言説なくして映画は完成あるいは完成体へと到達しない。
これはみかたによれば、オリジナルへの敬意を欠いた加工・変形である、いたずらであり落書きでもある。
また弁士時代には、弁士間の競争があり、弁士のナレーションは、つぎつぎと上書きされ、新たな解釈あるいは新たな情感が生み出された。それはよく言えばパリンプセスト(重ね書き)であり、悪く言えば落書き的よごしであるが、たとえどちらを主軸にするにせよ、映画はその誕生当初から独立し自己完結することなく、さまざまに利用されてきた。
いや、利用というと、利用されないオリジナルがあり、それに対する利用(それも一次だけでなく、二次、三次とつづくような)があるかのようだが、それはない。オリジナルそのものが利用であり、利用なくして存在し完結する映画はなかった。
もちろん映画館に住民を集め、上映中、空き家になった家から貴重品から家具調度までを盗むというのは最低の映画興行利用だが、そこまで悪辣なものでなくても、映画は常にいつも利用されてきた(いや映画館で没入している観客から財布を掏ることもよくおこなわれたにちがいない――映画と掏りとの関係は『カサブランカ』参照)。お金儲けの手段、あるいは強盗の手段、さらには人身売買からプロパガンダ的利用にいたるまで。こう考えると、映画製作や興業は、サイレント映画のドタバタであり尽きせぬ犯罪の連鎖にもみえてくる。ドタバタ喜劇映画は、映画そのものが抜け出せなくなる陥穽のアレゴリーであったかもしれない。
こんなふうに考えると、この映画『カツベン!』は、映画史のまさにアレゴリーそのものともなっているのではないかと思えてくる。ここにあるのは映画に対する愛とかリスペクトというよりも(いや、それはあるのだろうが)、同時に映画の黎明期を起点とした映画史の総体への冷徹なまなざしであるように思えてならない。
