『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』(Life Itself2018年ダン・フォーゲルマン監督)出演はオスカー・アイザックとオリヴィア・ワイルドら。
ウィキペディアには「ある事故を通して世代も国籍も異なる2つの家族の運命が交差し、過酷な試練にさらされる人々の物語をボブ・ディランの曲に乗せて描いている」という簡単な紹介があるのだが、今回、この映画をみて、新春早々、最大の謎に直面した。なんとかしてほしい。
この映画、アメリカでは批評家たちから酷評されて2018年最悪(ワースト)の映画と言われている。しかし一般観客のひとりとして言わせてもらえれば、まあ、好き嫌いはあるだろうし、当然、評価もわかれるだろうが、ワーストでは絶対にない。なぜワーストなのか、ほんとうに理由を知りたい。
というのもたとえばIMdBの一般観客レヴューでは、批評家のいうことを信ずるな、この映画は感動的な映画だという映画評が最近は多くなっている。
日本のサイト、KINENOTE(キネマ旬報映画データベース)の『ライフ・イットセルフ』の観客評は、平均評点77.0点(レビューの数13(1月2日時点))とあって、ワーストの点数ではない。実は77点というのは低いと思うのは、レヴューには100点満点をつけている人もけっこういて、そこから考えると、極端に低い点数をつけたレヴューアーが足を引っ張っているとしか思えない。
まあアメリカの映画評論家というのは、全部とはいわないが、99,9パーセントがクズみたいなものだから、あまり期待しても意味がないのだが、しかし彼らにも良識のかけらはあるだろうから、ワースト評価はなにか理由があってのことかもしれない。
もちろん、違和感のあるところはないわけではないが、それがワースト評価につながるとはどうしも思えない。
たとえば最初のほうでオリヴィエ・ワイルド扮する大学生が「信頼できない語り手」をテーマとするような卒論を書くと言っている。その卒論は、語り手によって真実や人生が誤って伝えられるというテーゼから出発するのである。しかしそれは「事実は存在しない、あるのは解釈だけだ」というような考え方につながるかというとそうでもない。真実をどのように伝えるかという話にもならない。実は人生そのものが信頼できない語り手であるという方向にすすむ。しかし、それは語り手が人生を誤ったり都合の良いように伝えるという話ではなく、人生何が起こるかわからない、あてにならないということにシフトする。実際、これが映画のテーマでもあるのだが、このずれと言うかずらしは問題かもしれないが、だからといってこれがワーストの理由になろうはずもない。
あるいは冒頭のサミュエル・ジャクソンの、その機能と意味が不明な語りとか、農園主のアントニオ・バンデラスと作業員が対面して語るときの単調な切り替えしショットの連続というのは、意図的で攻めた撮り方をしているともいえるのだが、それがワーストの理由となろうはずもない。スペイン人が、いくらまじめ人間とはいえ、エイプリルフールを知らないとは考えられないが、それがワーストの理由となろうはずもない。
ひとつ考えられるのは、とはいえありえないとは思うのだが、映画の最初のほうは(第1章とされている。なぜ章立てになっているかは、最後でわかる)、サミュエル・ジャクソンの「信頼できない語り手」としてナレーションがけっこううっとうしく、しかも出来事も病んだオスカー・アイザックの妄想か現実が判然としないし(というかその病んだ心象風景がそのまま映像化されているのだが)――彼が書いている小説という暗示もある――、カウンセラーとのやりとりも最初のゲイの男性は誰だったのかという疑問も残る(まあ試行錯誤の小説の書き出しということなのだろうが)。そのため映画評論家が、これは青臭い映画素人のつくった、ひねった、だが、いかにも青臭い映画だと判断し(ただし、青臭さが新鮮かつ斬新だとは、この古臭い映画評論家は考えなかったのだろう)、あとは試写室で眠ってしまい、酷評したところ、他の評論家も、たとえそこまでひどいとは思わないにしても、下手に褒めたりしたらバカと思われるかもしれないので(「裸の王様」パターン)、右に倣えの酷評オンパレードになったのだろうか。しかし、映画をみた観客のなかで、評論家や、評論家もどきの見解に惑わされない観客が、こう語ることになる。評論家は馬鹿だ。評論家を信ずるな、映画を自分でみて判断してほしい、すばらしい映画なのだか、と。
ただし、おそらくそうではなく、もっと深い理由あるいはもっと明白な理由があるのだろう。ことわっておきたいが、私の見る限り、PCに違反するような内容のところはなかった。ジェンダー的にも、人種的にも、民族的にも。また悲劇性とかいたましさというのであれば、それこそサミュエル・ジャクソンと、この映画に出演しているアネット・ベニングが共演している『愛する人』(ロドリゴ・ガルシア監督)のほうが、ずっと痛ましいといえるかもしれない。ちなみに両作品は、人生の悲劇と幸福との共存、信頼のおけなさ=予測のつきがたさにおいて、似ているところがある。そして、プレディクタブルだからひどいという評価がよくある中、この映画ではアンプレディクタブルだからひどいという評価もあって、言いがかりはなんとでもつけられるのだと実感した次第。
もちろん、なにもわからないのだが、真相は、映画の内容や作り方にではなく、たとえば監督がトランプ支持で、映画界から総スカンを食らっているというようなことではないのかと思う。ふつうにみて素晴らしい、よくできた映画で、印象的な場面も、人によっては涙してもおかしくない場面があるのに、ワースト言うのは想像を絶した評価である。この評価がくつがえることを願うと同時に、なぜ酷評されたのか、誰か、その闇の原因にも光を当ててほしいのだが。
追記1 後忘れずに書いておけば、最後は、少女の語りのなかに、すべてが収斂していくのであって、映画と少女、まさに王道映画でもある。
追記2 最近では英語の発音をカタカナで表記する(とりわけ初学者むけに)という習慣がなくなってしまったのか、itselfを日本の映画会社は驚くことに「イットセルフ」と表記している。ところが一昔前まではitselfは伝統的に「イッツセルフ」と表記していた。カタカナ表記だから、どちらも原音とは違うというなかれ。Itselfの発音をカタカナ表記すれば「イッツェルフ」であって、「イッツセルフ」は次善の策だが、ぜったいに「イットセルフ」ではない。もっと原音に近づけるならselfのlはダーク・エルなので極端に表記すれば「イッツェォフ」(フはF音)となるだろう。「イットセルフ」などという面妖な表記は原音からは倍以上離れているのであって、この表記を考えた日本の映画会社の発案者・責任者、まちがいなく絶対にワーストである。
2020年01月02日
『ライフ・イットセルフ』
posted by ohashi at 23:18| 映画
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