2019年12月03日

『失くした体』

NETFLIX配信の映画を映画館で見ている人間です。ステマではありません。NETFLIX配信のアニメも映画館で見ています。ステマではありません。近くの映画館で上映中だったので。夜の回であまり人は入っていなかったものの、これは絶対に見るべき、ある意味、感動的な映画。

Wikipediaでの記述

『失くした体』(J'ai perdu mon corps)は、ジェレミー・クラパン(フランス語版)監督による2019年のフランスのアニメ映画である。第72回カンヌ国際映画祭の国際批評家週間でワールド・プレミアが行われ、アニメ映画としては同部門では史上初めてネスプレッソ大賞を獲得した。フランス、トルコ、ベネルクス、中国を除く世界各国で、2019年11月29日よりNetflixで配信予定である。

ネット上の別の紹介記事(Movie Walker)

『アメリ』の脚本を手掛けたギョーム・ローランの小説を、これまでおもに短編を発表してきたジェレミー・クラパン監督が映像化したNetflixオリジナルの長編アニメーション映画。医療研究施設で切断された手が逃げ出し、身体の持ち主を捜してパリの街をさまよう。第72回カンヌ国際映画祭で批評家週間大賞を受賞し、第43回アヌシー国際アニメーション映画祭ではグランプリと観客賞をW受賞した。

スクリーンでフランス語のタイトルをみたとき、フランス語の知識など皆無の私でもわかったのは、「私は私の体を失った」というタイトルなら「私」とは誰だ。あるいはこのタイトルの一文の主語/主体は誰だと思った。Wikipedia英語版では、この作品はI Lost MY Bodyと訳されている。私の疑念は、フランス語のmon corpsには、たとえば身体の、小さな一部も含まれるのかということだが、私の力では解決できない。

「私は体を失った」というと、このアニメの青年が事故で左手首を失ったというふうに思うのだが、そのとき、自分の手首を体とはいわずに、そのまま手首というだろう。ということは、この「私」とは、「手首」のほうであって、事故で切り離された手首が、もともとくっついていた身体のほうをなつかしむというか、もとにもどりたい、くっつきたい、会いたいという思いがこめられているのかと思った。

もちろん手首に意識があるわけはないのだが、手首が、くっついていた体を探す過程で、この手首の持ち主(?)だった人物が誰だったのか、どうしてこうなったのかが、フラッシュバックによる断片的映像によっても徐々に説明される。それはアニメの語りの部分であるとともに、その手首に意識が記憶があるかのようにみえる。そして過去の出来事を断片的に思い出しつつ、失くした身体のいる場所へと記憶をたどりながら進むのである。

切られた手首が、もとの体(それも生きているか死んでいるわからない、どちらかといえば死んでいるだろうと予想できる)に向かって旅をするという、グロい話の映画は、そんなに見たい映画ではないかもしれない。しかし、これがすごく面白い。手首の冒険が、単純に面白い。実際、もし切られたた手首が、もといたところにむかって移動するとしたらどうするのか、そのシミュレーションとしても興味はつきない。なるほど、そう出るのか、そう移動するのか、この手首に応援したくなる。なんというシュールな。

ただ、この手首が何であるのか、そのアレゴリーについては考えたくなる。もちろん、もし片手首が意志をもってパリの市街を人目につかずに動き回ったらどうなるのか、そもそも動き回ることができるのか、それをめぐる映像的表現と解決法をみることには、無償の喜びがある。またアニメとして、ディズニーアニメが、ディスに―アニメの精度と洗練度を高めようとしているのに対し、こちらは、フランスのコミックとも日本のコミックともいえるような世界に動きをつけた趣がある。漫画が動く。あるいはパラパラ漫画のような独特の味わいがある動画ともいえよう。洗練されているが、洗練された素朴さもあるということである。これを当然のこととして、ではこの切られた手首は何であったのかと、どうしても考えたくなる。

そもそもこの手首は口がきけない。そこで5本の指と手の本体と手首の動きをとおして、その意思なり感情なりを読み取らなければならない。ノンヴァーバル・コミュニケーションが生気する事例、それはまだ言葉を覚えていない赤ん坊や幼い子供とのコミュニケーションであり、また動物、ペットのコミュニケーションでもあるだろう。そう、この手首は、子供でもあり、動物・ペットでもある。そうなるとこの手首の冒険は、離れ離れになった親を求める子供の冒険旅(母をたずねて三千里の世界だ)、あるいは離れ離れになった飼い主を求めるペットの旅(少し前まで上映していた、あるいはまだ上映中か、飼い主と遠く離れてしまった犬がもといた家に戻るために繰り広げる冒険の旅路を描く『ベラのワンダフル・ホーム』A Dog's Way Home(2019)の世界である――この映画の原題をもじると、A Hand’s Way Home何の意味だから分からないからだめか。

しかし、映画では、この手首の持ち主が誰なのかわかってくる。それは孤児になった少年あるいは青年であるとわかる。実際のところ、フラッシュバックでこの少年の不幸な過去が断片的に明かされるとともに、彼の今への行程が、ピザ配達員から、木工職人へ弟子入りするまで、また弟子入りのきっかけになった司書の女性との恋が、描かれる。幸福な過去と交通事故によって両親を失ってからの苦難、そして. まさに手首を失うことになる第二の事故までが手首の冒険と交錯しながら描かれる。手首が、ようやく元の体を発見したとき、もちろんその少年は事故を生き延びていて片腕に包帯を巻いて生きている。眠っている少年に寄り添って、包帯を巻いた腕に、すりよって結合しようとする手首。もちろん、再結合はできないし、少年は寝返りをうって、手首が、もとの腕に触れることもない。

だが、せっかく戻って帰ってきたのに、もとの体と再結合できない手首は、それでも少年の生き方を見守っている。子供でもあり、ペットでもあるこの手首は、少年の両親でもある。そう物言えぬ子供とかペットとはちがって、子供と引き離されて死んでいく親は、たいてい子供にこう伝える――「いつでもそばにいる」「いつでも見守っている」「ずっと守ってあげる」と。

幸福な家族から一転して不幸な孤児となり、生きる力を失いかけていた少年/青年が、女性との出会いをとおして、またさらに悲惨な事故にあいながらも、それを乗り越えていく、苦い成長物語としても、やや地味ながら完結することもできたこの映画は、彼の生きざまを見守っている手首の存在によって格段に深みを増したように思う。

万人受けのことをいえば、私たちは誰もが愛しいものを失っている(親を、子供を、ペットを、愛する何かを)。しかし、失くしたものとの絆は決して消えることはない。それは大事にしていたお守りのように、たとえ失くしても、つねに元の持ち主を守っている。死んだ親は子供を常に見守っている。親よりも早く死んだ子供は親のことをずっと愛し気遣っている。たとえ死んでも、ペットは、つねに飼い主に寄り添っている。失ったものは常に帰ってくる。ほんとうの喪失はない。消えることのない、死者との絆が生きている私たちを支えているのである。

付記
1. ナウフェルNaoufel(フランス語読みしなければ、ナオウフェルかもしれないが)という片手を失くした主人公の名前だが、何系の名前なのだろうか。いまのところ調査不足で、どのような民族によるある名前なのかつかめていない。

2. 最後は、もし実際に目撃していないことを、音を通して推測して再現するちということになれば、ああいう終わり方になるしかないのだが、彼が成功したことのあかしとして、生きている姿を示すべきではないか。もしそうしなかったのが意図的ならば、彼は、ほんとうは失敗していたということを暗示したのかもしれないが、これは不明。

3. 唯一のミスというは、下から飛んでいる飛行機を見守るとき、その飛行機が背面飛行をしていないかぎり、赤いライトは右翼にみえる。青いライトが左翼にみえる。大型旅客機が背面飛行することはないので、このアニメで、下から見上げたときに、左翼に赤い光がみえるのは、あきらかに間違い・
 飛行機の右翼・左翼は、進行方向にむかって、上から見下ろしたときに右側の翼が右翼、左側の翼が左翼。左翼には赤い光を、右翼には青い光をつける。当然、地上から見上げれば右と左の光の色は逆になる。
posted by ohashi at 23:06| 映画 | 更新情報をチェックする