2019年06月23日

『ザ・ファブル』

タイトルの「ファブル」というのは、どういう意味かと不思議に思った。映画ではタイトルにThe Fableとでる。Theがついていると、これは英語。となると、これは「フェイブル」と発音するのがふつうというか、その発音しかない。これを「ファブル」などと気色の悪い読み方をするのは、4Aprilを「エイプリル」ではなく、フランス語のように「アプリル」と発音するようなものだが、それでいいのだろうか。むしろフランス語を意識しているのだろうか。もし英語なら、Fableをファブルと読むのは、ただのバカである。しかしフランス語なども意識して、あえてファブルと読むのは、くせ者かもしれない。

まあ、英語とすると、このFableは、バカペディアに書いてあったように「寓話」という意味ではないだろう。いや英語の「フェイブル」は「寓話」という意味が一般的なのだが、「伝説、神話」というような意味もある。伝説というとLegendレジェンドのほうが一般的だが、Fableにも、その意味がある。まあ映画では、伝説・神話になっているような殺し屋という意味で「ファブル」が使われている。もっとも原作の漫画では、殺し屋組織全体が「ファブル」と呼ばれているようで、それがどういう意味かよくわかない。くせ者なのか、バカなのか、つかみどころのないところがある。

ここで寓話ではなく伝説だということにこだわったのは、この映画が、ふまえているのは、もう一つの伝説的映画だという気がしたからである。岡田准一扮するファブルこと佐藤明(偽名)は、父親代わりのボス(佐藤浩市)にプロの殺し屋になるために育てられ訓練された超一流の殺し屋なのだが、天才だが、ただのバカという二面性があって、そこがキャラクター的に興味深いというか魅力的なところがある。もっと具体的にいうと、この天才的殺し屋は、みかけは大人だが、中身は子供であって、一年間、大阪に一般人として潜伏することによって、天才的殺し屋から凡人の殺し屋になるというか殺し屋から足を洗うと同時に、それはまた子供から大人への成長過程ともなっている。また彼の成長過程のなかで、薄幸の美女との出会いが大きな影響をあたえることになる。そう、みかけはおっさんだが、中身は子供。父親がわりのボスがいて。この映画では冷酷な殺し屋だが、同時に、慈愛に満ちた父親だが、また父親がわりであっても、なにもしらない子供同然の疑似息子を搾取するボスというのがいて……。

そう、この『ザ・ファブル』のもとにあるのは、伝説の映画『レオン』だろう。ジャン・レノ演ずる殺し屋は、みかけは、くそおやじだが、中身は、無垢な子供で、そのぶんボスに騙され搾取されている。彼が植木の植物を育てていることと、岡田准一がオウムを鳥かごに飼っていることもまた、レオンを暗示させるものとなっている。レオンと少女との出会いとふれあい。またプロの殺し屋であったレオンにとって贖罪は、みずからを犠牲にして少女を救うことであり、当然、それは悲劇的な結末を生むことになるが、もしプロの殺し屋でありながら、最後まで死なないという物語にするのなら、実際には、笑いによって死を限りなく遠ざけるということになろうか。ただ、たとえそうでも、主人公のレオン感は消せないように思われる。『ザ・ファブル』つまり『ザ・伝説映画』すなわち『レオン』の喜劇ヴァージョンなのである。

なお主人公ファブル/岡田准一の、レオン以外のイメージは、野生動物である。枝豆を皮ごと食べる。スイカも皮ごと丸かじりする。そして猫舌で、熱した食材は食べられないというのは、はっきりいって、動物。火を入れたものを食べることができるのは人間だけなので。また映画のなかで岡田准一は、日常的には服を着ない。素っ裸である。動物と同じ、したがって主人公は、人間に化けている動物といもいえる。武器が使え、言葉も喋ることができるが、中身は動物という設定というかイメージが濃厚である。となると人間の言葉をしゃべる動物が登場するのは「寓話」、もしくは「動物寓話」。そこからタイトル、個人名、団体名が生まれたのかもしれない(原作は読んでいないので、勝手な推測だが)。ただし、その場合でも「ファブル」ではなく「フェイブル」。

つっこみどころは、「ファブル」からはじまって、やまのようにあるが、同時に、それはただのバカなのか、くせ者なのかわからないところがこの映画の魅力だろう。サヴァン症候群の話が出てくるが、天才的なバカの物語が、全編にわたって炸裂する。それはつっこまれやすさが、つっこまれないほど一貫しているというべきか。猫舌の例をとってみたい。極度の猫舌という設定なら、最後に出てくる手羽先のから揚げも、スーパーで買ってくるとか、名古屋のお土産で買ってくるのなら、まだしも、居酒屋で出されるのなら、店内で揚げていて熱いはずなのに、どうして平気なのか。鮎の塩焼きは熱くて食べられなくて、居酒屋でのサンマの塩焼きは頭から食べられるというのは、一貫性がない。バカじゃないかとつっこみたくなるが、しかし同時に、そこがくせ者の配慮かもしれないと思えてきて、動けなくなる。すべて「ファブル」からはじまっている。「フェイブル」だろう、この偏差値低い漫画・映画が、と、つっこみたくなって、ひょっとしたらここに配慮があるのではと思い始め、つっこめなくなる。

別の例。たとえば岡田准一が世話になる山本美月が映画ではマドンナ役なのだが、岡田の妹役の木村文乃が、ゲームで、山本の顔をいじり、むりやり変顔にさせる場面がある。その場面をみながら、山本はずいぶん美人だ、と、あらためて思った。これは、変顔と普段の顔とのギャップによって、彼女がきれいにみえたというのではない。あるいは同じことだが、彼女の変顔が引き立て役となって、普段の彼女の顔の美しさを際立たせたということではない。くしゃくしゃにされ、ある意味、苦悶にゆがむ顔そのものを、みていて美しいと感じたのだが、これは私自身のSM的嗜好とはまったく関係なく、また倒錯趣味とも関係がない。変顔になっているときのほうが、普段の顔よりも美しいというと語弊があるが、変顔と普段の顔のどちらでもない、両者の混淆、両者が相互に出現あるいは点滅的に共存するところが、なんとも見慣れぬ面白さがあるがゆえに、感銘をうけたというところか。

言い換えれば、何かハイブリッド的なものの魅力とでもいえるようなものがあって、それが一見、無配慮あるいは失敗あるいは欠陥のようにみえたりもするのだが、それが、堂々とまではいかなくても、けっこう悪びれずに誇示されているために、簡単に批判して終わらせることができなくなるような、還元不能、説明不可能な、何かとして残存し続ける。そこにへんな魅力があるのである。

いや、これは何か、もやもやするものを魅力とかなんとかいいくるめようとしているのではないかと反論されそうだが、そうでないということで付け加えると、たとえばアクション・シーン。ネット上の反応にはこんなものがあった。

*快感すぎる人殺し映画。 (投稿日:622)

*銃でドンパチするシーンが多く、見た目は残酷な演出が多く見られたものの、

*あんだけの人数に拳銃持たせる力有るなら向井理って既に組長以上だろってwww

 実際あれだけの人数なら絶対ファブル殺されてる。設定ミス。【あれだけの人数を、本来のファブルなら簡単に殺せるのに、本来  のファブルではないから、時間がかかるという、映画の基本的設定というか物語を理解していないコメント】

*周りが岡田准一のアクションに付いていけないからか、中途半端なガンアクションにはイライラした【これも上記と同じ、本来のファブルではないから、ガンアクションが中途半端になる。それがこの映画の設定。】

映画の最初では天才的な殺し屋が、殺しまくる。しかし彼が凶悪なテロリストではないのは、殺される側が、闇社会の反社会的勢力だからで、警察の代行という面がある。そして最後の救出作戦は、ボスから一人でも殺したら殺すぞと言われている岡田准一が、ふつうならあっというまに全員皆殺しにできるところ、銃が使えない(まるでマクガイバーのように、ありあわせの機材で基本おもちゃの銃を作り、それを武器にして乗り込む)、一人も殺さないという、ありえないほどの困難を克服しての乱射・乱闘シーンが最後のクライマックスに待っている(たとえ乱闘になって、相手の銃を奪って射殺したかにみえて、急所をはずしているので、相手は死んでいない)。

そうなると面白そうだと思うかもしれないが、岡田准一、乗り込むときには、殺し屋としての習慣で、毛糸帽に目の部分をくりぬいただけの、マスクをつけて乗り込む。つまり顔がわからない。スタントマンを使わなくともアクションができるらしい岡田准一が、顔をみせないヒーローとして、アクションを繰り広げるというのは、正直言って驚く――まあ、目力で魅せるのかもしれないが。また一人も殺さないアクションシーンについては、本来なら、たとえ、一つ一つの事例でなくてもいいとしても、なにか映像で説明するかたちで提示するものだと思うのだが、ただただ暗闇のなかで、なにがなんだかわからないままに、展開していく。そういう意味からすれば、せっかくのアクションシーンが下手なのは残念だが、それも最初から織り込み済みだったかもしれないと思い、一瞬、見る者が考え込む。それがこの映画の特徴であり、また変な魅力となっている。ジャッカル富岡(宮川大輔)のギャグも、実は同じような一瞬置いての笑いとなっていることとも、これは関係するだろう。何事であれ、一瞬置かせることのあとでは、思いがけないことがおこる、あるいは思いがけない反応が起こる。そこをこの映画は知っているというべきか。

あと、この映画、スターを無駄に使っている。木村文乃は謎めいた女性の役だが、最後まで謎めいているというよりも、そんなに出番もなく、詳しいことがわからないまま終わるから、謎ではなく、性格を提示しそこなうというイメージが強い。もちろん役どころとしても、あまり活躍の場がない。藤森慎吾と飲み比べをするか、山本美月に変顔をさせるくらいである。柳楽優弥の演技のうまさには定評があるし、先月、私は、劇場(彩の国さいたま芸術劇場)に見に行ったくらいだから、その演技について称賛の言葉しかないのだが、この映画のなかで、ステレオタイプ的表層的演技でしかないということとは別としても、主人公にとって強力なライヴァルあるいは天敵になるはずが、まさか最後の救出作戦において主人公に救出される側になるとは。その肩透かしももまた、下手なのか、思慮を欠いているのかと思われて、案外、想定済みのことかもしれず、ここでもまた、一瞬置いた、良き、もやもや感が生ずるのである。

「フェイブル」なのか「ファブル」なのか、なぜ「ファブル」なのか、バカじゃないかと思いながら、一瞬置いて、もしかしたらなにか、たとえ深いものでなくても、配慮がというふうに思えてくる。このパタンの繰り返しであり、繰り返しが快感になる。そのへんを映画はねらっているのかもしれない。ジャッカル富岡のギャグはなにもおかしくないが、そうとは決められないかもしれないと一瞬置くことによって、最後には、面白いと思うようになる。それがこの映画の奇妙な魅力なのかもしれない。

posted by ohashi at 19:52| 映画 | 更新情報をチェックする