これで4度目の『スター誕生』映画らしいのだが、最初の作品、戦前のカラー映画は、テレビか何かで見たことがある。内容は、今回の映画をみるまでほとんど忘れていたが、ただ、スターがどこで誕生したのか、よくわからない映画だと思ったことは、今回の映画をみて思い出した。実際、同じことは、今回もいえるのであって、スターが誕生するのはどこか、はっきりしない。強いて言えば、最後の場面で、彼女がスタートして誕生したというのではあるのなら、むしろこれはスター再誕生であり、また、それにとともに、ずいぶん厳しい世界観だと思った。このことは『スター誕生』物に受け継がれている。映画の最後は涙を流しているレディ・ガガの深刻な表情を真正面からとらえたカットであって、そこにスター誕生から連想させるような華やかさはない。バラ色の人生とはかけはなれている。不思議な映画である。最終的にはむしろ悲劇の結末に近い。いや、悲劇そのものである。
日本のネトウヨとか保守的男性には、評判が悪そうな映画である。ひとつは現代に生きる女性としてフェミニズム的主張を明確にしている。レディ・ガガのバイト先のマネージャーの人格を無視した横柄な態度に耐えつつも、働く必要がなくなるとき、女性蔑視、弱い立場の者への侮蔑的態度に怒りを爆破させる怒るレディ・ガガは、保守的くそおやじにはカチンとくるだろう。彼女はまた、自分のことを娼婦呼ばわりした男をぶん殴るのだが、それは娼婦に間違われたというよりも、娼婦であれ誰であれ、女性に対する侮蔑的言動に対して怒りを爆発させたとみることができる。これもネトウヨには面白くないだろう。そう思うとうれしくなる。
またこれは予期しなかったことだが、ジャクソン・メイン/ブラッドリー・クーパーが立ち寄ったバーが、ゲイ・バーというか、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスをするところで、そのパフォーマンスのひとつに、アリー/レディ・ガガのパフォーマンスがある。彼女がドラッグ・クイーンのパフォーマンスの合間に、女性歌手として飛び入りで歌うのではない。彼女はドラッグ・クイーンに扮して、バラ色の人生を歌うのだ。実際、レディガガのメイクから顔立ちそのものが、ドラッグ・クイーンに近い。いやそれだけではない。レディ・ガガ自身が、ル・ポール(私には懐かしい名前だが、彼女はいまも活躍していた)のテレビ番組『ドラッグ・レース』に、ドラッグ・クイーンの扮装でサプライズ出演し話題になった過去がある。そうなると、けっこう興奮した。ジャクソン/ブラッドリー・クーパーは最初、アリーのことを男性と思うが、やがて女性だと発見するというひねりがあるのかなと、またほかのドラッグ・クイーンたちは、物語にどうかかわってくるのかと、期待に胸膨らませたが、ジャクソンは、そのパフォーマンスをしているアリーが女だとすぐにわかったようだしドラッグ・クイーンたちも、アリーのバイト先程度の扱いしかうけていない。とはいえドラッグ・クイーンたちは最後までアリーを応援しつづけるわけであり、アリー/レディ・ガガとクイーンたちとの連帯は明確に示される。これもネトウヨ、保守的くそおやじには面白くないだろう。ざまあみろと言ってやりたい。まあ、そういう連中はこの映画は観ないと思うのだが。
ドラッグ・クイーンのパフォーマンスがあるバーで未来のスターと出会うという設定は、前作のバーバラ・ストライサンド、クリス・クリストファーソンの『スター誕生』(フランク・ピアソン監督1976)を踏まえているようだし、スター役に女性アーティストをもってくるなど、前作の影響が色濃いのだが、ただ、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスはない。とはいえ今回の映画を見て、あらためて感じたのだが、映画はなるほど男女の愛の物語、あるいは夫婦愛の物語で、ドラッグ・クイーンが代表するようなゲイ・カルチャーあるいはゲイの話ではない。死とその余波の物語は、レズビアン、ゲイに関係する物語の雰囲気というかエモーション(あるいはアフェクトでもいいのだが)を強く喚起する。表向きは、この映画(ひょっとしたら過去の3作も)、ゲイ映画ではないが、男女の愛を通して語られる物語は、レズビアン・ゲイの悲劇をヘテロ関係で隠ぺいするアレゴリーではないかという気がしてきた。
ドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、映像化されるときには、化粧からはじまる(実際、今回の映画も彼女たちの楽屋裏での準備風景が映し出される)。そしていよいよドラッグ・クイーン誕生というかたちで、パフォーマンスが始まる。今回のアリー/レディ・ガガの物語も、スター誕生をドラッグ・クイーン誕生の物語の変形版あるいは別ヴァージョンとして提示したということが言えないわけではない。やや無理があるとしても。ただ、化粧からはじまるドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、同時に、化粧を落として素に戻るというか巣に変えるパフォーマンスもある。派手な化粧とメイク、そしてまがまがしき、いかがわしき虚飾に満ちた女性性の権化のようなドラッグ・クイーンだが、同時に、装飾から自然に、化粧からすっぴんへというパフォーマンスもあるように思う(たとえば映画にもなって有名になったゲイ・ミュージカル『ヘドヴィグ・アンド・アングリー・インチ』(2001年(日本公開2002年)の映画版のほうを念頭に置いている。日本版の舞台も人気があったが残念ながら見ていない)の最後は、主人公が、ドラッグ・クイーンであることを辞めて、素にもどっての街中を彷徨する――悲恋物語の結末である。今回の『アリー』にあるのもそれではないか。逆転するドラッグ・クイーンのパフォーマンス、あるいは素顔に戻るドラッグ・クイーンのパフォーマンスが物語を枠どっているのではないだろうか。
【ネタバレ含む Warnig: Spoilers】「スター誕生」物語は、予測可能であるとか、よくある話だというコメントもあるが、恥を知れと言ってやりたい。けっこう複雑というか一筋縄ではいかない物語になっている。今作も、これまでの「スター誕生」物を踏まえているということはあるので、物語の展開は予想できる。しかし、一筋縄ではいかないというのは、最初に書いたように、どこでスターが誕生するのかわからないからである。グラミー賞新人賞を、メジャーデビューしてからすぐに獲得するというところでスター誕生になるのかと思うと、このスター誕生の瞬間は、すぐに夫メイソンの行為で帳消しにされるのである。これは前3作と基本的には同じ。となるとスター誕生は、映画の最後になる。しかしこのときの彼女は、アメリカン・ドリームを実現するドリーム・ガールではない。若くものない。新人でもない。未亡人である。夫を追悼している。スター誕生というよりも、夫の死を乗り越えてまた活動しはじめるというスター再誕生Reborn物語である。この最後をスター誕生というのは、予想外のことであり、またちょっと苦しい。ここに大きな意味があるとすれば、「スター」たるもの、屍を乗り越えるOver the dead body、あるいはもはやイノセントではなく、闇を抱え、闇と向き合い、闇に負けない、そういう存在なのだという世界観なのかもしれない。いいかえるとBornは失敗する。真のBornはRebornだという世界観なのであろう。
さらにいえばジュディ・ガーランド主演の『スター誕生』(1954)のときもいわれたことだが、これはジュディ・ガーランドの4年ぶりの映画復帰作であり、まさにスター再誕生である、と。Rebornの影は、また今作でも当然ある。レディ・ガガは引退するはずじゃなかったのか。この映画はレディ・ガガの復帰さく、まさにスター再誕生物語である。
スコット・クーパー監督、ジェフ・ブリッジス主演の映画『クレイジー・ハート』(Crazy Heart、2009)は、これもよくある物語だと言われたりしたが、『スター誕生』と比較してみると、予測のつかない展開をし、また『スター誕生』の物語の特徴を間接的に照らし出しているようなところがある。ちなみにこの映画でアルコール依存症の元スター歌手を演じたジェフ・ブリッジスはアカデミー主演男優賞を獲得、「アル中」を演ずると賞がもらえるという長い伝統を守ったのだが、今回、ブラドリー・クーパーは、「アル中」を演じてアカデミー賞を獲得できるのだろうか。それはともかく『クレイジー・ハート』は、おちぶれてドサ回りで細々と暮らしているアルコール依存症のカントリー歌手が、子連れの女性記者と出会い、落ちぶれた自堕落な生活から救われ立ち直っていく話。ブリッジス演ずるカントリー歌手は酒をやめないものの、ギターの手入れを怠らず、作曲をやめず、アーティストとしての誇りと使命感、プロ意識を失うことはないのだが、いかんせんアルコール依存症から抜け出せない。そのため、女性から預かった幼い子供を迷子にしてしまうという大失態のあと愛する女性から絶縁されてしまう。
『クレイジー・ハート』は『スター誕生』の別ヴァージョンあるいはアダプテーションとしてみることができる。落ちぶれて、アルコール依存症になった元スター歌手。ブラッドリー・クーパーとジェフ・ブリジス。この歌手に見出されていまや師匠をしのぐ歌手となったアリーと、コリン・ファレル演ずる若いカントリー歌手。依存症の歌手を救う女性は、アリーであり、『クレイジー・ハート』では、女性記者(ただい歌手ではない)。どちらも女性をひどく気づつける大失態がある。そして依存症の男二人(ブラッドリー・クーパーとジェフ・ブリッジス)は、ともに厚生施設へ入る。そして依存症から脱する。ここまでは両映画の物語は同じ。『クレイジー・ハート』ではたとえ更生し依存症から脱しても、もはや女性との愛は回復しない。彼女はべつの男性と再婚するのである。いっぽう『アリー』では……。結局、女性との関係が回復できないことは両映画で同じだが、『クレイジー・ハート』のほうが現実的であり、『アリー』のほうは悲劇性が強くなる。おそらくこれは大失態の原因が、ちがうからだろう。『クレイジー・ハート』ではアルコールをやめるようにという女性からの助言を真摯に受け止めていない、ある意味、女性を軽んじているための失態で、女性からの信頼を失うことになるのだが、『アリー』では、酒の力を借りた、無意識のしかし明確は妬み羨望と悪意による攻撃であって、その罪悪はいくら更生しても消えるものではない。もはや選択肢は決められている。
物語上の必然性を考慮すると、『クレイジー・ハート』では、女性との縁が切れることになっても、依存症から構成した歌手は、ふたたび、スターとなって人気を回復する。まさに男性版スター再誕生である。いっぽう『アリー』のほうは、女性と別れても、復帰の道はないのであり、また少年のころの自殺願望もあって、男性が再誕生、復帰することはありえなくなっている。そして、その悲劇性の大きさが、『クレイジー・ハート』とは異なって強調されるところに、すでに述べたようなレズビアン・ゲイの悲劇性と通ずるような暗示性がこめられていると考える(考えすぎかもしれないとしても)。また『クレイジー・ハート』は元スターの再誕生版となることで、『スター誕生』の特異性、誇張された悲劇性を照らし出す。『クレイジー・ハート』を単体でみると、物語は予測可能かもしれないが、『スター誕生』を念頭におくと、『クレイジー・ハート』は先が読めない話となる。その展開が『スター誕生』の別ヴァージョンとなっているからである。また逆に、『スター誕生』の物語が本来特異な先の読めない物語であることも逆に判明していく。
あと付言すれば『クレイジー・ハート』の魅力は、ジェフ・ブリッジスの演技、あるいはそのカントリー・ソングだけではない。むしろ主役は風景だろう。そのなんともいえない光の広がりとつつまれ感、要は空気感は、映画をみていただくしかないが、かなり感動した。風景が、このいわゆる大人の恋の物語のエモーショナルな下支えとなっている。このことだけは付言どころか特筆しておきたい。
『アリー』あるいは、これまでの『スター誕生』に共通する世界観は、屍を乗り越えていくことOver the dead body。誕生には、必ず死を没落を排除を破滅が伴うということである。親が死んで、子供が生きるといえば、聞こえがいいのだが、むしろそこにあるのは凄惨な生存競争でもある。スターの誕生の裏には、多くのものが犠牲になる。犠牲なくして誕生はない。共存、共生――甘いこと言ってんじゃないわよと、チコちゃんの親戚に言われそうな、世界観、人生観がある。
同一化の欲望と所有の欲望で愛情関係を説明すると、夫婦の場合、ふつうは所有関係である。所有関係というと聞こえが悪いが、所有し、所有されるという相互関係である。ただし、そこに同一化の欲望はない。同一化の欲望は、仲間同士の間に生まれる。大学などのクラスメイトと結婚する例が、案外少ないこともこの間の事情を物語るものだろう。それはクラスメイトが同一化の欲望に結ばれた仲間であって、結婚という所有・被所有の関係の対象ではないからだ。またクラスメイトであったなら、誰とでも等距離で友好関係を築き上げたいから、親愛関係を特定の二人が築くことには抵抗があり、それは問題視される。そのため結婚相手は、その仲良し関係の仲間とはならないため、別のところに探すことになる。社内結婚が少ないのも、そうした理由による。しかし仲間ではない人間と結婚する場合、同じ考え方とか同じ趣味を共有していないので、共通の話題がないことになる。
では同一化の欲望と所有の欲望の両方に根差した夫婦関係が理想かというと、そこにも問題がある。夫婦で同じ趣味という程度のことなら問題がないかもしれないが、どちらも同じ仕事をしてプロということになると、そこにライバル関係が生まれる。同じ仕事でも圧倒的に経歴その他で差があるのなら問題ないが、両者の力量や評価や人気が拮抗してくると、ライヴァルとして敵対関係になる。ライヴァルとして競い合っているときは、楽しいかもしれないが、勝負がついてしまい、歴然と差がつくと、憎悪や妬みが生まれる。せっかく興味や嗜好や趣味が同じで親密な関係が築けたのに、まさに親密さの契機が敵対の契機と変わる。そしてこの関係は、相手を倒すまで、屈服させるまで、時には比喩的に殺すまでにいたる。
『アリー』の場合、シンガーソングライターでもある夫婦が、競い合って、一方が敗れたということではないといえるかもしれない。しかし、夫婦の関係のなかに、明らかに夫のほうの妻に対する対抗意識や妬みが生まれ、夫婦関係にひびが入ってくることは、誰の目にも明白である。また夫婦は同業者であり、片やフォーリング・スター、片やライジング・スターというのであれば、共存共生はできないことになる。二人がどんなに愛し合っていても、同時に、同じ空間を二人のスターが占めることができない、というかその場合、もう愛はないのではないか。『アリー』では、フランクと兄との関係が示唆的である。兄もまたミュージシャンだったのだが、いまではマネージメントに回っている。兄のほうが身を引いたのである。そして今度はフランクのほうが身を引く番となる。スターが誕生するときには、凡百のライヴァルを蹴落とすことになるが、それはいたしかたないだろう。実力と人気が重要なのだから。しかし、スターとなる弟子のほうは、子供のほうは、師匠を、親を、愛する者を、自分をいまあるスターの地位に押し上げてくれた者たちを、殺すしかないのである。弟子は師匠のことをいつまでも愛し続けているだろう。だが、弟子は師匠を殺さないかぎり、あるいは師匠はみずからを弟子に殺させるか、みずからを殺さないかぎり、弟子がスターになることはない。弟子と師匠の共演はあるだろうが、弟子と師匠がともにスターになることはい、いや、そこには愛する者通しの殺し合いしかない。この暗い運命を避ける道は、いまのところないのである。
だから『スター誕生』の物語は予測がつくかというと、そうでもない。なぜなら、今述べたような冷酷な摂理を、とことんつきつめるような物語はこれまでなかったのではないか。今回の『アリー』においても、意識的な悪意はなくても、無意識のレヴェルにおいて悪意があれば、それは容赦なくあぶりだされるのである。だから、そこまで徹底することが予測できないので、意外性にみちた展開となる。
と同時に今回の『アリー』では、着地どころが見えなくて、けっこうはらはらした。アリーのドラッグ・クイーンのパフォーマンスは、その派手さとエンターテインメント性で際立っていたが、フランクにあってからの彼女の音楽性は、じっくりと歌い上げるバラード歌手的な方向にすすむ。それはそれでこの映画のなかでは彼女の声や音楽センスに合致しているようにみえる。しかし、フランクに見出されたあと、大手音楽会社にスカウトされてからは、彼女は、たんなるバラード歌手というよりも、総合エンターテイナーとしてのスターを目指すことを求められる。そのため踊りの練習までするようになる。もちろんアリーはレディ・ガガなので、その踊りは、映画のなかの設定をはみ出て、プロのダンサー顔負けの切れをみせる。しかし、そのようなエンターテイナーに彼女がなることに対しては、夫のフランクのみならず、観客も好ましく思わない。つまり映画のなかで、彼女はレディ・ガガみたいになるのだが、観ている側は、そうなってほしくないと思うのである。
これはアリーに扮するレディ・ガガに、レディ・ガガみたいになるなと要求するようなもので、理不尽なことこのうえない。彼女はレディ・ガガみないになるのか。レディ・ガガは、映画のなかではレディ・ガガに背を向けるのか。この映画のなかで、スターとして誕生するアリーにレディ・ガガをもってきた功績は大きい。ライブでの盛り上がりを映画で確認してほしい。物語上は、アリーの人気であるが、実際には、映画撮影では、レディ・ガガのパフォーマンスにみんな熱狂しているのである。無料のエキストラ募集があれば、私だって応募して聴衆の一人になっていただろう。なにしろ、無料で、レディ・ガガのパフォーマンスをみることができるのだらか。
そう、彼女を起用することで、ライブ映像は圧倒的な盛り上がりを見せるしかなくなっている。彼女レディ・ガガの存在は大きい。だが、映画の物語の流れは、反レディ・ガガである。レディ・ガガにならないほうがいいアーティストを、レディ・ガガが演じているのだ。もっとも緊張する場面は、バスルームでのフランクとアリーのやりとりというか喧嘩である。夫フランクは、アリーがアーティストとして目指す方向性に懐疑的であって、そういうアリーを「醜い」uglyとまでいう。これに対してアリーは激怒して素っ裸のまま立ち上がり、夫をバスルームから追い出すのである。これはアリーを演じているレディ・ガガに、レディ・ガガのようなパフォーマーは醜いというようなものである。“ugly”とはっきり聞こえたし、またこのuglyというのは強烈な言葉である。しかも、この“ugly”というのは脚本にない言葉で、フランク役のブラッドリー・クーパーのアドリブらしい。だからこの場面でのショックを受けたアリー/レディ・ガガの激怒は本物だともいわれているのだが、しかし、この場面で彼女は怒るしかない展開なので、怒りが演技ではない本物とは言い切れないだろうが、ただ、レディ・ガガ的なパフォーマンスは、この映画のなかで明確に否定されている。となると、どうなるのか。どこに着地するのか。映画の終盤、私は途方に暮れた。
結局、映画の最後は『スター誕生』の終わりと基本的に同じなので、彼女は、自分自身に立ち返って、夫の死を受け入れ、悲壮な決意で先にすすもうとする。その彼女の最後の歌は、レディ・ガガ的なパフォーマンスとは程遠い、夫への愛とみずからの心情に真正面から向き合う魂の叫びともいえる歌唱である。レディ・ガガ的エンターテインメントはお呼びではないように思われる。アリーではなく、レディ・ガガは、これをどう考えているのだろう。活動を休止していたレディ・ガガ自身、この映画の最後にアリーが到達した境地と歌唱に向かおうとしているのか。レディ・ガガにとって、この映画は再誕生の場として意図されているのか。
あるいはドラッグ・クイーンのパフォーマンスとしてはじまった映画におけるアリーのパフォーマンスは、先に、素に戻るというドラッグ・クイーンのパフォーマンスもあるのではと、『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』(基本的に映画版のほうだが)の例を出した。実は思い直せば、『ヘドヴィグ……』は、『スター誕生』のドラッグ・クイーン版だったと気づいた。あれは素にもどるパフォーマンスではなくて、『スター誕生』のドロシー・パーカーを、ジュディ・ガーランドを、バーバラ・ストライサンドを演じているのである。となるとすっぴんというか素顔もまたコスプレだともいえるだろう。この映画でアリー/レディ・ガガは、ずっとすっぴんである(a bare face)。実際には化粧をしているシーンもあるのだろうが、すっぴんの印象は強い。実際、レディ・ガガがどういう顔立ちなのか、この映画ではじめてわかった気がする。ただ、だからといってレディ・ガガが化粧をメイクを落として、飾らぬ自分自身に立ち返る、これまでのすべてを捨て去、素の自分に戻るということではないかもしれない。彼女のドラッグ・クイーンのパフォーマンスとも思われるような、派手なパフォーマンスは否定されたわけでも終わったわけでもないだろう。素顔をさらすこと、素顔という化粧で、素顔をコスプレしているのかもしれない。