もう終わりかかっている映画だが、まだ上映館はあるので、最初からネタバレの話をするので注意。とはいえネタバレでも、この映画の面白みというか衝撃性が減ることはないと思うのだが。ネット上に次のような記事が:
Kazuログ
徹底ネタバレ『人魚の眠る家』映画結末や原作との違い、衝撃のラストについて全部まとめ
映画冒頭では宗吾くんという小学生の少年が登場。
野球ボールを誤って人魚がかたどられた門の家に投げ入れてしまいます。
中に入った宗吾は家の庭で車いすに座り、眠り続ける少女(これが瑞穂)を見つけ、冒頭は終了。
直接的に物語に関係しては来ませんが、映画ラストで再度宗吾は登場します。
宗吾は実は、人魚の家で瑞穂を見た後心臓の病気になり、臓器移植を必要としていました。
娘「瑞穂」がなくなった後、宗吾は「瑞穂」の心臓を移植してもらい、手術は成功、瑞穂の心臓は宗吾の中で生きる形になります。
もちろん、宗吾はあの日人魚がかたどられた門の家にいた少女(瑞穂)の心臓が、自分の中で動いていることは知りません。
ただ、宗吾が(更地になってしまっているものの)瑞穂が暮らしていた家があったところを通りがかった際、ドクドクと心臓が鳴る描写がされているので、彼自身、その土地に何かを感じるものがあったのではないでしょうか。
とらえ方は人それぞれですが、見た人それぞれ、本当に一人ひとり違う答えが出るような、そんな映画だったと思います。
私が衝撃的と思ったのは、まさにこの映画の最後である。宗吾が、死んだ瑞穂の心臓を移植されたかどうか、はっきりしないものの、しかし、ここまでの流れからして、心臓を移植されたと想定してさしつかえない。すると、宗吾君のなかに移植された瑞穂の心臓が、意志をもったかのように、宗吾君を、心臓がもといた場所、すなわち人魚の眠る家、瑞穂の家のほうに導いていく。
ここで予想されるのは、瑞穂がかつていた家は、瑞穂の死後、彼女の記憶を保存しつつ、平穏な日常生活の場となっているが、いまたまたま、その家を見に来た宗吾の体のなかに、瑞穂の心臓があることをなど、瑞穂の両親や兄は知らぬげに、平穏な日常のなかに埋没しているという、パセティックな展開である。
ところがそんなセンチメンタリズムなど簡単に破壊するような衝撃的映像があらわれる。そこは更地になっている。人形が眠る家は、もうあとかたもなく消滅しているのだ。しかもドローン撮影。その更地の全貌が、真上から見下ろすドローンのカメラによって、露見するのである。けっこう広い場所だったことがわかる。住宅街にそこだけが更地となっている。
偶然だがシェイクスピアの『マクベス』を戦国時代の日本に置き換えた黒澤明監督『蜘蛛巣城』の最後を思い出した。戦国武士たちが、葉のついた木の枝を前に掲げるカムフラージュ態勢で進軍していく(『マクベス』のバーナムの森が動くの戦国版)。そして軍隊が過ぎ去ったあと、霧のなかから忽然と姿をあらわすのが、何もない荒涼とした土地と、蜘蛛巣城跡地と記された板である。あれほど凄惨を極めた人間の愚かな権力闘争の舞台となった城も、はかない夢のごとく消え去って、あとは更地しか残らない。人間の愚劣さに怒った自然の復讐の前に、人間の戦乱は跡形もなく消滅するのである。
そう「人魚の眠る家」が、消滅して広大な更地だけになったとき、もはや人間中心の視点は消え去ったように思われた。
脳死状態の瑞穂を、生かそうとしする両親や技術者たちの必死の努力。脳死で心臓だけ動いている、あるいは心臓だけが動かされている状態が、ほんとうに生きているといえるのか、両親の、また瑞穂の兄や友人たちの、あの苦悩、あの喜び、あの悲しみ、あのせつなさ、あの絶望、あの歓喜、あの諦念、それはいったい何だったのか。そうあれだけの涙が、あれだけのエネルギーが費やされた瑞穂の心臓をめぐる物語の場(人魚の眠る家というか敷地)が、なぜ跡形もなく消え去ったのか。
そう、もう用がなくなったのだ。あの家族は、あの物語は、ただひとつの目的のためだけに存在させられていたのだ。そう、瑞穂の心臓を生かすために。あの家族が、脳死状態の瑞穂の身体を、心臓もろとも保存していた。そして心臓が、次の宿主である宗吾に移植されたとき、心臓にとって、もはや家族も、身体を動かす生命維持装置も、そして身体を負う部屋も家も必要なくなった。心臓は、もはや用済みとなった家族と家屋敷を消し去ったのである。なんとういうポストヒューマン物語なのか。
だが映画はそのような冷酷な事実あるいは解釈を差し出すことではなく、逆に心あったまるような世界観を出そうとしたのかもしれない。瑞穂の命はつきた。だが、その心臓を誰かに移植すれば、その人のなかに瑞穂が生き続けるというのは、センチメンタルすぎる考え方かもしれないからやめるにしても、誰かを生かすことができる。死んでいくものの臓器を移植しすることで生きる者もでてくる。もしそうだとすれば、人の死を悲しむのはやむをえないにしても、人の命は、臓器移植によって、べつの人の命を支えることにもなるので、そのことを思えば、悲しみもすこしは和らごうというものだ。
だが、これは神の視点である。あるいは映画に即していえばドローン撮影が提示する世界観だ。ひとりひとりの命も、生命圏という大きな世界を、その時空間をみれば、たがいに支えあうものでしかない。またそうであるなら人は死ぬことはない。すべての死は、誰かの命をささえることになるのだから。そうこれは臓器移植至上主義である。臓器移植至上主義が、あたかも自然界の摂理、生命圏の摂理、神の摂理であるかのようにふるまっているのだ。私は、こうした臓器移植至上主義には断固反対する者である。だから、私は最後の場面のポストヒューマン的自立する心臓(臓器)物語の可能性に戦慄をおぼえたのである。もとより、そうした臓器移植至上主義のおぞまさに唖然としたのだ。
最後に、脳死でこん睡状態の瑞穂が目を覚ますところがある。目を覚ました彼女は、言葉を発するのだが、映画『鈴木家の嘘』を12月に観た私は、長くこん睡状態にあって目覚めた人は、こん睡状態のとき声帯を使っていないので、すぐに声がでないということを知っている。だから、目覚めた瑞穂が話しはじめたとき、それは嘘だろうと思った。だが、映像がおのずと語っているのだが、これは瑞穂が目覚めたのではなく、母親が、瑞穂が目覚めたという幻覚もしくは夢を見ているのだろうとわかった。この夢のなかで、瑞穂は、母親に感謝の言葉を述べる。どうして感謝するのか。脳死である自分を、そのまま死者として扱うのでなく、周囲の反対を押し切って、こんなにまでして、生者として扱ってくれた、その心の優しさ、愛の深さを、子として感謝したというふうにみえる。もちろん、母親の勝手な夢である。自分の行為を正当化する妄想にすぎない。しかし、夢のなかでの感謝の言葉はまた、瑞穂の命が最終的に尽きることも暗示していて、母親のこの夢のあと、瑞穂は死をむかえる。そして母親も、その死を受け止め、そして娘の心臓を臓器移植にまわすことに決めるのである。
だが、この一見感動的なエピソードも、結局は、臓器移植至上主義の世界観を肯定するだけのものである。瑞穂は、どうして感謝したのか。それは、ありとあらゆる犠牲(金銭的、精神的)を払いながら、瑞穂の心臓を生かし続けたことによって、心臓を新鮮なかたちで臓器移植にまわすことができたということである。ここまで瑞穂ではなく、瑞穂の心臓を生かしておいてくれてありがとういう感謝――結局、これは誰からの感謝かといえば、臓器移植の神様が、瑞穂の口を通して、母親の夢の中で語ってきた言葉ということになろう。瑞穂という娘の人格が話しているのではない。彼女の心臓という、人格とはべつのところにある生命圏メカニズムが、あるいは、くりかえすが、臓器移植の神様が話しているのである。
だから私は、臓器移植のプロパガンダのようなこの映画には、どこまでも反対する。臓器移植は自然の摂理でもなんでもない。医療の利益のために奉仕する悪魔のシステムである。臓器移植が救うのは、人間の命ではなく、医療システムなのである。この点はまた、いずれあらためて語りたい。