2019年01月02日

『くるみ割り人形と秘密の王国』

映画.Comは、本作をつぎのように紹介している:

チャイコフスキーのバレエで広く知られる「くるみ割り人形」を、ディズニーが実写映画化。監督は「ギルバート・グレイプ」のラッセ・ハルストレムと、「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー」のジョー・ジョンストンが務め、くるみ割り人形に導かれて不思議な世界に迷い込んだ少女の冒険を壮大なスケールで描き出す。愛する母を亡くし心を閉ざした少女クララは、クリスマスイブの夜にくるみ割り人形に導かれ、誰も知らない秘密の王国に迷い込む。「花の国」「雪の国」「お菓子の国」「第4の国」という4つの王国からなるその世界でプリンセスと呼ばれ戸惑うクララだったが、やがて「第4の国」の反乱によって起きた戦いに巻き込まれていく。「インターステラー」のマッケンジー・フォイが主演。キーラ・ナイトレイ、モーガン・フリーマン、ヘレン・ミレンら豪華キャストが脇を固める。さらにバレエ界からも、ミスティ・コープランドやセルゲイ・ポルーニンといったトップダンサーたちが参加した。 あ

この解説というか紹介に異論はないのだが、世界的にみても、また日本国内でも、いまひとつ観客動員が伸び悩んだのは、残念だ。面白い映画だったので、とくに欠点となるようなものはなかったのだが。

いわゆるホフマンの原作とか、バレーでの物語そのままではなく、翻案であることに違和感を感じたか、オリジナルそのものの物語を期待しすぎた観客が、がっかりしたせいだろうか。どの程度の翻案かといえば、たとえばシェイクスピアの芝居を、日本の戦国時代の物語におきかえたとする(黒澤明監督の『蜘蛛城』とか『乱』などを思い浮かべてもらえればいい)。このとき翻案物語のなかに、当時のイギリス人の劇団が日本にやってきてシェイクスピアの『マクベス』を上演するような場面があったとしたら、それはおかしい。というかやってはいけないことである。日本のおきかえた意味がない。この『くるみ割り人形と秘密の王国』では、バレーの場面がでてくる。物語あるいはオリジナルな物語とは関係のないバレーの場面のようだが、同時に、オリジナルの『くるみわり人形』のバレーにもみえてしまう。『くるみ割り人形』の翻案のなかで『くるみ割り人形』のバレーを上演するとは。それはたぶんやってはいけないことではないかとお思う。あるいは見ている側が戸惑うのでは?

ラッセ・ハルストレムが共同監督の一人に名を連ねているので、まあ安心してみることのできる質の高い映画かと思っていたが、イギリス臭すぎたのか。そこが面白かったところでもあるのだが。たとえばキーラ・ナイトリーとマシュー・マクファディンの共演はこれで何度目だろうか。最初は『プライドと偏見』で、これは恋人どうし。『アンナ・カレーニナ』では兄と妹。そして今回は、赤の他人というかキーラ・ナイトリーのほうは人間ではなく人形なのだけれど。だんだん関係性が薄くなっているが、二人が共演した映画は記憶に残っている。ヘレン・ミレンの出演にも驚いたが、彼女は、『マダム・マロリーと魔法のスパイス』というラッセ・ハルストレム監督作品で、マダム・マロリー役だった。

ただ圧倒的に魅力的だったのは、マッケンジー・フォイで、彼女が男性用の軍装を身にまとうと、その美しさとりりしさに圧倒された。女装よりも男装のほうが、彼女にはよく似あうが、同時に彼女のことは、既視感もあって、どこでみたのか探ってみた。

アメリカ人なら彼女をことをよく知っているはずで、チャイルド・モデルであったり、CMに出演したりしと、メディアでの露出は際立ったいる彼女のことを知らないはずはないのだが、日本では、そこまで知られていないが、強い既視感はあった。そこで調べたら、上記の引用にあるように『インターステラー』に出演していた。あのマシュー・マコノヒー演ずる宇宙船パイロットの娘だったのかと、あわてて映画のブルーレイを取り出して、彼女が出演している最初のほうだけ見直すことにした。

『インターステラー』では、マーフという名前の少女の役で、大人になってからはジェシカ・チャスティンに変わり、さらに最晩年はエレン・バースティンが演ずるのだが、浦島効果で最初からほぼ同じ年齢のマシュー・マコノヒーの娘のイメージは、ジェシカ・チャスティンでも、エレン・バーンステインでもなく、圧倒的に彼女マッケンジー・フォイなのである。

最初のほうだけをみてあとはやめるつもりだったのだが、クリストファー・ノーラン監督のこの『インターステラー』面白すぎて、また泣かせる場面では、思わず涙ぐみながら、およそ2時間50分の映画を結局、一気に最後まで見てしまった。この年末の忙しいときに。

クリストファー・ノーラン監督といえば『インセプション』でみせた、時間を自由に圧縮したり引き延ばしたりする時間の可塑性がきわめて印象的な作品が多いが、時間への関心は、この『インターステラー』で違和感なく頂点に達したように思われる。相対性理論の宇宙では、いわゆる浦島効果によって、宇宙での数時間が、地球では何十年、何百年になってしまう。その時間の長さの可変性は、このSF宇宙物では、違和感なくというか、相対理論ではそれ以外のものになりようもないので、受け入れられやすい、それにおもしろくもあり、またせつなさも感じられりるので、宇宙空間ほど、うってつけの設定はない。

たとえばマシュー。マコノヒーが最後に娘と再会するとき、娘は自分よりもはるかに歳をとった老婆になっている。それはエレン・バーステインが演じていることすらわからなかった老齢のご婦人であって、可愛く利発で変わり者で頑固者でもあったマッケンジー・フォイの面影すらない。孤独と疎外を感ずるなか、マコノヒーは、自分よりも年上の娘の助言にしたがって、同じ時空を生きている唯一の生き残りであるアン・ハザウェイのもとに巨大コロニーから旅立つ。このあたりもふくめ、この映画、けっこう泣かせる。

この『インターステラー』のなかでマッケンジー・フォイは、母親を亡くしていて、父親の手で育てられている。彼女は、兄よりも頭がよく、また変わり者でもあり、父親から可愛がられている。彼女の兄は、母親に見捨てられたことがトラウマになって、おかしくなっていき、その兄に彼女は命すら危うくなるのだが……

これって『くるみ割り人形と秘密の王国』のクララの運命と同じでしょう。クララの場合も母親は死んでいる。クララの科学的才能は母親譲りのようだが、マーフ/マッケンジー・フォイの場合は、その数学的才能は、父親と母親から得ているようだ。クララもマーフも、母親に見捨てられたと思っている人物から危ない目にあう。マーフの場合には、兄に、クララの場合には、これはネタバレになるのでいえない。そしてまたこれは予想されることだが、クララもマーフも荒廃した地を救う救世主となる。となると、『くるみ割り人形と秘密の王国』のマッケンジー・フォイの役どころは、『インターステラー』の彼女の役どころとまったく同じだといわざるをえない。というか、同じ役どころを反復しているということはできる。


posted by ohashi at 11:21| 映画 | 更新情報をチェックする