2019年01月01日

『ボヘミアン・ラプソディ』

評判の映画だが、昨年観た中で、最高の映画だった。ゲイ・アーティストを扱った、ゲイ美学が横溢した、最高のゲイ映画だった。

不満が残るとすれば、これがゲイ映画であることを無視してかかるメディアの愚かさである。ゲイはタブーなのか。タブーをすべてなくすことを私は求めたりしないし、タブーににも一定の重要な文化的社会的機能はあると思うのだが、ゲイは、もうタブーじゃないはずだ。というか日本ではゲイはタブーなのである。そしてゲイ差別と闘い、ゲイであることをあえて宣言したアーティストに対して、ゲイであることを認めない。それは二重の差別であろう。それは二度の殺人である。そのことはわかっているのだろうか。

つい1224日の午後NHKで『世紀を刻んだ歌「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」』というドキュメンタリー(初回放送:衛星ハイビジョン2002年)を再放送していた。若くてきれいな西田尚美をみて、けっこう感動したが(いまはきれいじゃないというわけではない)、結局、その再放送もゲイ問題を可能な限り回避していた。たとえば西田とリサーチをつづける若いイギリス人男性は、最後に妻と娘がいるヘテロな男性であることがわかる(そんなことわからなくても誰も問題にしないはずだが)。結局、クィーンが好きであれこれ調べていてもも、本人はゲイじゃないということを、わざわざ「明確に」しているのだ。その配慮はなんなのか。ボヘミアン・ラプソディはボヘミアン・スキャンダルなのか。

同番組ではデーモン閣下がコメントをしているが、フレディ・マーキュリーの音楽というか芸術には、ゲイ・アーティストとしてのアイデンティティに影響されているというようなコメントを受けて、ゲイである以前に、フレディの複雑な民族的出自が影響をあたえていると語っていた。「ゲイ以前に」と、ゲイを、完成後についた、なくてもよい、あるいはないほうがよい付録、蛇足のような扱いだった。別にデーモン閣下を非難するつもりなど毛頭ない。かりに彼が、ゲイであることこそ、フレディの芸術の根底にある本質そのものであると語ったとしても、NHKがカットするに決まっているからである。なおゲイ性と複雑な民族的出自は、どちらが先か後かというのこと自体、無意味である。複雑な民族的出自そのものが、つまり帰属すべき単一の民族性をもたないこと、あるいは錯綜する民族性は、帰属すべきジェンダーをもたない、あるいは錯綜するジェンダー性を帯びていることと同じなのである。そこに前か後かを(つまりどちらが第一次的で本質的かを)決めることは、悪辣な政治的操作と連動しているのである。

結局のところ、女性差別も民族差別もゲイ差別も、相手が抗議してこないらしい、あるいは弱い立場にあると思うと、差別しほうだいなのである。もちろん、この場合、差別というのはタブー視して無視することも含まれる。ちなみにある新聞の記事では、最近の『ボヘミアン・ラプソディ』の人気について語りながら、そのなかでゲイという言葉は一度も使っておらず、「マイノリティー」という言葉が一か所だけ使われていた――「マイノリティ」にもいろいろな種類があるのだが、それがなんであるかは特定されていなかった。だからこのNHKの再放送番組は、ゲイであることをきちんと語っていて、これでも、よいほうなのである。

『ボヘミアン・ラプソディ』のゲイ的要素はいくつもある。バンドの名前「クイーン」も、Queenという語そのものに、「女王」という意味のほかに差別語として「おかま」とか「男娼」の意味がある。結局、イギリスの作家サキと同様に、その名称からしてカミングアウトしているにもかかわらず、無視されている、見て見ぬふりをされているのである【「サキ」というのは「お稚児さん」のことである。したがって本人がカミングアウトしているのだが、そのことについて、白水社版の翻訳はまったく何も触れていないどころか、サキの勇ましいエピソード(第一次世界大戦での戦死)について触れるだけである。白水社はりっぱな出版社だが、サキの翻訳者はクソである(ちなみに、第一次世界大戦の戦場というのが、第二次世界大戦のそれとは異なり、ゲイ的コノテーションを帯びていることを、その翻訳者は知らないのだろう)。】

また実際のところ、後期クイーンのフレディの扮装というかファッションであるところの、ランニング・シャツに、短髪と口ひげと、サングラスは、ゲイの典型的なファションなのである――そのことは映画のなかでも暗示されていた。これほどまでにカミングアウトしているのだが、それでも当人のゲイ・アイデンティティは、スキャンダルなのであって、見て見ぬふりをされるのである――ああ、ボヘミアのスキャンダル。

ボヘミアン・ラプソディというタイトルのボヘミアンすら、NHKの再放送では歴史的に見にてジプシー(それしても「ジプシー」という語は、いまでは使ってはいけない差別用語となっていて、「ジプシー」と聞くとびっくりするが、当時は、まだよかったのか?)とも関係づけられていたが、それらは容易にゲイ・アーティストと関係する。

「ママ」への呼びかけではじまる『ボヘミアン・ラプソディ』は、ゲイの人間が家族のなかで愛するのは母親であるということとも関係する。もしこれが「パパ」あるいは「ダディ」への呼びかけではじまっていたら、ゲイ・アートではなくなっていた。母親をだいじにしないゲイはゲイではない。

そして「ボヘミアン・ラプソディ」という楽曲そのものが、ゲイの人間の特質と苦境を歌いながら、その嘆きと喜びと、絶望と覚悟とが、ゲイ物語の典型となっているのだが、さらに越境的な放浪的な「ロマ的な」狂騒曲という形式をもつため、内容と形式の一致が明確に認められるのである。キーワードのように私たちの耳に残る「ガリレオ」は異端者であり、「スカラムーシュ」は道化的人間の代名詞である。人を殺して人生の門口で人生を終わらせた語り手は、犯罪者、無法者として断罪され社会から排除されるアウトサイダーとなる。そのアウトサイダーとしての悲しみ、絶望、孤独、罪悪感と、自立への自覚、諦念と希望、未来志向とが「ボヘミアン・ラプソディ」のテーマとなろう。で、そのオペラ性は?

まさにオペラ性こそ、「ボヘミアン・ラプソディ」がゲイ・アートであることの証明となる。オペラ・ファン、オペラ好きの人間がみなゲイであるということはないが、ゲイの人間は、オペラ好きが多い。理由はさまざまであろうが、ディーヴァ好きとか、その舞台の絢爛豪華さ、その世界観の壮大さが好まれるいっぽうで、また、たとえどんなに壮大で豪華であっても、本質的に救いがない永遠の劫苦にさいなまれる悲劇的世界とか、たとえ喜劇でも問題を残す辛辣な要素が多いという、オペラの世界観と、ゲイ的世界観はシンクロするところが多いからといえようか。ゲイ美学の範疇に、オペラはかかせないのである。

「ボヘミアン・ラプソディ」のオペラ的要素は、フレディがザンジバルで生まれたこととか、ゾロアスター教徒であることから説明できないが、フレディが最初からゲイであることを考慮すれば、もうプレディクタブルなものとして説明できる。NHKに忖度して、ゲイである前にほかの要素があるとデーモン閣下は語るべきではなかったと思う。

ゲイ物語には、ゲイ・カップルの出会いと別れが不可欠だが、『ボヘミアン・ラプソディ』(二重括弧は、映画のタイトルを示す)でも、そこには多くの典型例がある。ゲイの人間は、同じ性的嗜好の人間と日常的に出逢うチャンスは少ないで、特定の場所以外には、偶然の出会いを大事にするしかない。映画のなかではフレディが、男子トイレで、トラックの運転手の男性と結ばれるであろうという暗示がある。トラック運転手という恒常的移動者とのつかのまの、ゆきずりの恋。ワン・ナイト・スタンド。たがいにゲイ・アイデンティティは隠さねばならないとき、関係は一過性である。ワン・ナイト・スタンド。関係は長くはつづかないし、一度の出逢いで終わるしかない。ワン・ナイト・スタンド。

ちなみに『ミッション・インポッシブル』ではパリの男子トイレが舞台になる場面があって、そこではゲイ的暗示が横溢していたし、ガイ・リッチー監督の『コードネームU.N.C.L.E』では男性用トイレが重要な役割をはたしていた。ゲイ的暗示をともなう出会いと、ゲイそのものの出会いの場として。ともにスパイ映画である。スパイ自身、越境的といか、所属するところをもたないボヘミアンでもあって、スパイは、実際はどうであれ、ゲイ物語とは構造的・象徴的にシンクロするのである。スパイもまたボヘミアンでありゲイなのである。

話をもどせば、ゲイ物語において、やがて、ゆきずりの愛だけで満足するのではなく、永続的な固定的関係を求めるようになる。ロング・タイム・コンパニオン(実際、そういうタイトルのゲイ・エイズ映画があった)を求める愛の遍歴がはじまる。そしてやがてみつかる、終生のパートナー。だが、その前に、偽りあるいは望ましくないパートナーとの別れがある。

『ボヘミアン・ラプソディ』ではフレディとポールの関係がエクスプリシットなゲイ関係として映画かれているが、ポールは、バンドの仲間のなかに割って入り、フレディを独占し、フレディをバンドのメンバーから切り離し、最終的にフレディの音楽そのものにも介入することになる。クイーンを実質的な解散にまで追い込み、フレディを堕落させる張本人としての偽りのパートナーとしてのポール。彼の悪影響から逃れることで、クイーンが再結成され、ライブ・エイドの伝説の20分間となる。このポールについて悪く描かれ過ぎという評価があるようだが、私としては知識不足でその真偽は判定できないものの、ただ、映画のなかではポールとの別れと、終生のコンパニオンの発見とが継起するのであって、このような悪役のコンパニオンの切り捨ては、ゲイ物語において安定した(あるいはお約束の)展開となる。

これもゲイ・アーティストであるフランシス・ベーコンの伝記映画『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(Love Is the Devil: Study for a Portrait of Francis Bacon,1998)では、ベイコン(デレク・ジャコビ扮する)と彼の愛人ジョージ・ダイアー(のちの007であるデイヴィド・クレイグ扮する)との関係を描くものだが、その出会いと最後の残酷な別れが、ベイコンの芸術家としての成長あるいは変貌に関係していた(ちなみに、この映画でも、別れの場面ではどしゃぶりの雨が降っている)。

さらにいえば、ゲイ物語において重要なのは、偽りのパートナーを最終的に閉め出すことではなく、偽りのパートナーに苦しめられることである。苦しみを楽しむマゾヒスティックな欲望と、苦しむ自分の姿に快感をえるナルシスティックな欲望との戯れ。ゲイ文学ではないが、しかし作者がゲイであったサマセット・モームの『劇場』という小説がある。このなかで主人公であるところの人気もあるベテラン女優が、若い野心的な俳優と恋におちるが、彼は大女優の地位と名声を借りて、のしあがろうとしているにすぎない。そのため彼女は、この男に翻弄され、芸歴も自分の家族も失いそうになる。実際、読んでいると、早く目をさませと、彼女に対して叫びたくなる。この小説は、イシュトヴァン・サボーによって映画化されているが、その映画作品『華麗なる恋の舞台で』(Being Julia,2004)は、2時間に満たない作品で、彼女が若い俳優に苦しめられる部分は、けっこうあっさり終わるのだが、原作は、こちらが発狂しそうなほど、延々と続く。実は、はやく目を覚ませと彼女に言っても無駄だとわかる。なぜなら彼女は、自分が若い男に手玉にとられていることは承知している。卑しいクズ男に苦しめられ破滅の淵に追いやられていることも知っている。だが苦しみ、破滅の道をすすむ自分の愚かな姿に魅惑され、その苦しみを楽しんでいるところがある。マゾヒズム全開の彼女に何をいっても無駄なのである。小説『劇場』は、ゲイ小説ではないが、そこに作者モームのゲイ美学が横溢し、ゲイ美学の中心のひとつであるマゾヒスティックな欲望が噴出する。それが悪しきパートナーに翻弄される自分を楽しむマゾヒスティクな快楽なのである。そしてこれと同じものが『ボヘミアン・ラプソディ』にあることはまちがいないだろう。実際のポールを正確に反映しているのかどうか定かではないが、ゲイ物語においてポールは、あのような役割以外には必要とされなかった。

あとひとつ。この映画をみると「ボヘミアン・ラプソディ」が発表された当時、評論家は当惑して、作品に高い評価を与えていない。人気もでていなかったということである。ライブ・エイドの熱狂のなかで、「ボヘミアン・ラプソディ」が再販され、それ以後、一定の高い評価を得たということなのだが、これは意外だった。というのも、クイーンの曲としては「ロック・ユー」と「キラー・クイーン」と「ボヘミアン・ラプソディ」は、私の記憶では、時期によっては毎日、街に、テレビやラジオで流れていてこともある、馴染みの曲であって、そのなかで「ボヘミアン・ラプソディ」が当初は人気がなかったというのはほんとうに意外だった。おそらくそれは日本の特殊事情なのだろう。というのもクイーンの楽曲使用(CMなどで)は日本には容易に許可されたということらしく、クイーンが日本びいきであったことが、この映画の公開とともに指摘されるようになった。クイーンは日本で人気がでて、それが全世界に波及したというようなことも指摘されている。だから日本は好印象をもって迎えられたということらしい。だが、それだけではないだろう。日本がゲイの国というのも、クイーンの日本びいきの一因として認めることができるのだ。事実映画のなかでもフレディが好きなのは猫と着物をはじめとする日本の家具調度やお札(ふだ)であることが強調されている。日本が特にゲイが多い国ということはないが、日本はゲイの国あるいはゲイに寛容な国という神話的といってもいい思い込みが国際的に蔓延していることはまちがいない。アメリカ人の日本文化研究者は、すべてではないだろうが、ほとんどがゲイである。

最後に『ボヘミアン・ラプソディ』はゲイ物語としてもゲイ映画としても、正統的といってもいい典型例であることを誇っているように思うのだが、では、なぜ、この映画が、ゲイではない人たちにも感動をあたえるのかという問題がある。ゲイあるいは複雑な出自、そして英国の音楽、それもロック音楽の世界での出来事という、きわめてローカルな特殊例のなかに、普遍的なものが感じ取れるというふうに説明される――通常は。たしかにエイズであることがわかり、死の影におびえながら、ライブ・エイドのコンサートに向かうフレディにとって、死の恐怖を克服し未来へと身を投げることが大きな課題となる。そしてそこには、エイズという特殊な病気に関することではあっても、またエイズにも、またそもそも病気にも苦しんではいない人たちにとって、普遍的なものとして共感できるものがあるということになる。

またさらにフレディを取り巻く人たち、実際の家族から、バンドのメンバーたちによる疑似家族、そして最後に見つける終生のパートナー。そのどれをとっても、好感度がきわめて高い人たちばかりで、ここにあるのは、通常の家族には簡単に見いだせない、通常の家族以上の親密性であり、それが、ゲイ・ファミリーというようなローカル性を超えて普遍的に人の心をうつといってもよいだろう。

だが、こういう発想というか常套的論理展開は、残念なものがある。たとえば日本の特殊事情を描いた小説があるとする。それを読んだ外国の読者から、描かれているのは特殊な日本だが、この現象は世界のほとんどの国々にもあてはまる普遍性があるとコメントされたなら、たとえそれが褒め言葉だとしても、なにか日本の作家ならびに日本人が、他国の状況について無知な国民、つまり一般的なものを特殊個別的なものと信じている「世間知らず」的国民とみられているという、残念な気持ちにもなる。あるいは特殊個別的なものが、一般性・普遍性の提示によってかき消されてしまうことへの残念な気持ちも生まれる。これを喜ぶのは、というか、こういう普遍性の論理を展開して喜ぶのは、ゲイ的要素を消去できて喜ぶ側であろう。

そのため逆の理由を考えてもいいと思う。ゲイ物語に、ゲイではない人間も感銘を受けるには、普遍性があるからだが、それは私たち自身、異性愛者、同性愛者を問わず、誰にも同性愛的傾向なり欲望があるからだ、と。ゲイ的要素を捨象するのではなく、顕在化させる思考と論理、あるいは普遍性のありかを反転させることが必要かもしれない。ゲイ的要素を無視したり消去してしまわないためにも。あるいは私たち全員のなかにあるゲイ的要素を自覚するためにも。

ここから、この映画と現実との関係について考えてもいい。この映画で再現されている伝説のライブ・エイドの20分のパフォーマンスは、その本物のパフォーマンスがYouTubeでもブルーレイ/DVDでもみることができる。なかには本物のパフォーマンスを観た後では映画の偽物のパフォーマンスは見る気がしないという人もいる。だが、この発想は残念な思いがする。

なるほどこの映画にでているのは、フレディのそっくりさんである。だがラミ・マレク扮するフレディは、実物のフレディよりも一回り小柄で前歯が強調されすぎている。これはまた聞きだが、この映画をみた日本人観客が、「フレディ」のかわりに「ミック・ジャガー」とまちがいつづけていて、周囲の人間は、まだ生きているミック・ジャガーと間違えるとは、なんとう無知か無神経かとあきれたということだが、しかし、ラミ・マレク扮するフレディは、ミック・ジャガーのほうに似ていることはまちがいなく、この間違いもわからないわけではない。となるとそっくりさんともいえないようなフレディが出ている『ボヘミアン・ラプソディ』は、あくまでも本物のフレディの真実のクイーンを知るための契機というか入口であって、本物を知ったらもう観るまでもないということになる。フレディのそっくりさんから、フレディそのものへの道程は、しごく当然のように思われる。

だが、ほんとうにそうか。いや、この道程は逆方向にも可能なことを考慮しなければ、最終的にゲイの抹消(あるいは差別)にもつながりかねないから、そのまますんなりと受け入れることはできない。

そっくりさんと本物。まがいものと本物。これは単純な二項対立ではない。私たちが本物に対していだいているイメージ、本物の本質というのは、そっくりさんなのである。たとえば本物のフレディのパフォーマンスをみるとする。そのときいろいろな感想をもつだろうし、そのパフォーマンスの本質をつかんだように思うかもしれない。ただし直観的に。もちろんなにがいいのかわからず、いわゆるピンとこないこともあるだろう。そのときは、たとえば何度も見直してたり聞きなおしたりする。わかったと思えるまで。まあ直観的に把握できても、それがなんであるかを言説化するためには、反復して視聴することを余儀なくされる。そしてそのとき多様で多彩で還元化や単純化を拒む本物の豊饒さを、パターン化する、図式化する、時には可能なら数値化するとき、つまり一次元複雑さを減衰させることで、理解や把握がすすむ。つまり、本物のそっくりさんを私たち自身が作り出せば、それが本物に対する理解に私が到達したということになる。

たとえば、もしあなたが歌ったり演奏するパフォーマンスができるのなら、クイーンの楽曲を自分で歌ったり演奏してみることで(もちろんそれは三流以下のひどい歌や演奏以外になりようがないとしても)、楽曲の特徴が身をもって体験できる。たとえば小説なら、自分でも似たような小説を書いてみることで(たとえそれはどうしようもないへぼ小説であったとしても)、モデルあるいはオリジナルとなる小説のよさがよくわかるようになる。理解の仕方には、いろいろとあるが、このように理解しようとする対象のそっくりさん(まがいもの)を創造することによって、対象を理解できることがある。そっくりさんというのは、対象の分身とか、対象のシミュレーションといってもいのだが、ここでいえるのは、そっくりさんのなかに対象の真実があるということだ。もっと正確にいうと、そっくりさんと本物とのギャップのなかに真実があるというべきか。重要なのはオリジナルとみまごうそっくりさんは意味がない。むしろあまり似ていないそっくりさんのほうが、オリジナルについての理解がすすむのである。

だがオリジナルではなく、そっくりさんのなかに、あるいはそっくりさんの創造に真実が見出されるというのは、どういうことか。今回の映画をみた一般的観客で、クイーンについてとくに熱狂的ファンではなかった者たち(私もその一人だが)にとって、映画をとおして初めて分かった真実というのがある。フレディの歯が出ていたことであった。このことはフレディが存命中とくに意識したわけではなかったが、今回の映画をとおして、あるいは歯を強調したそっくりさんの登場によって、フレディの歯についての知を得ることになった。今回のそっくりさんは、歯についていえば、完全に本人のカリカチュアである。実際、フレディは、前歯が出ていることはない。歯の出ているフレディは、フレディ本人とは、その点では似ていないのだが、似ていないことによって、フレディについての真実が得られるのである。カリカチュアが本物以上に本物であるという場合と似ている【なおフレディのこの前歯は、彼の音楽に悪影響を与えるどころか、音域の広さに貢献していると本人は豪語しているようだし、本人は、この前歯を矯正しようともしていない。そしてこの生まれ持った身体的特徴は、この映画のなかでは、ゲイのアレゴリーとなっているのだろう。なお歯が出ている人はみんなゲイだと言うことはない。】

偽物と思われているもの、まがいもの、そっくりさんと思われているものが、本物の、オリジナルの真実を生み出す--このことは、この映画と現実のフレディ本人、再現されたパフォーマンスと、伝説のパフォーマンスの記録映像との関係、映画と実録との関係、ゲイとヘテロとの関係にも適用できるだろう。ヘテロな関係というオリジナルな本物の情愛関係に対して、ゲイは、ヘテロを同性愛関係で再現しているまがいもの、そっくりさんでしかないから、なくてもよいということにはならない。むしろヘテロの真実はゲイのなかに宿る、あるいはゲイとヘテロとの差異のなかにヘテロの真実が宿るといってもいいだろう。ゲイが脚光を浴びることになったのでヘテロについても関心が寄せられた。ヘテロの、そっくりさん、あるいはカリカチャーのようなゲイによって、ヘテロの真実がうまれるのだが、これはヘテロが優位でゲイは消去可能ということではなく、ゲイもまたヘテロの定義に貢献していること、ヘテロとゲイとの差異のなかにヘテロの真実が宿るとすれば、ゲイを消去してしまえば、なにが差異かみえなくなってしまうのである。

またこれはゲイがヘテロの引き立て役だということでもない。これはヘテロのなかにもゲイがあることの覚醒でもあるのだ。

映画と実録との関係も同じで、映画と実録との差異のなかに真実が宿るとすれば、映画は、本物の実録の前に排除してよいということにはならないのである。この映画『ボヘミアン・ラプソディ』がフレディ・マーキュリーとクイーンの真実をささえているともいえる。たとえばライブ・エイドのパフォーマンスの際に、フレディは自分の病気(エイズ)であることを知らなったということが指摘されている。たぶん、それは事実なのだろう。しかし、あのパフォーマンスは、フレディが自らの病気を知っていたとしか思えない含意をともなっている。死と絶望、その克服と未来への挑戦。このパフォーマンスから想定れるフレディは、死の壁に直面し、自らを振り返りつつ、未来へと自分を投げかけるゲイ・アーティストの姿そのものである。映画という虚構が、事実をしのいで、真実を生み出しているのでる。

そうだとすれば、さらにゲイもまた、ヘテロの真実の解明のためにも絶対に無視されてはならない。決してゲイがヘテロの引き立て役になってはいけないし、無視され消去されるおとがあってはならない。

posted by ohashi at 14:20| 映画 | 更新情報をチェックする