2018年08月31日

『検察側の罪人』

この映画のネットでの評価というか評判をみてみたら、絶賛しているものよりも微妙だというような評価が多くて、たんなるアイドル映画を期待した観客を落胆させていることも多いみたいなので、またどうも原田真眞人監督の骨太の映画のようなので、見に行くことに。829日に見たのは全くの偶然。この日のもつ意味については映画を見る前には何も知らなかったので。

結果として、最後まで、見入ってしまった。エンターテインメントとしてもドラマとしてもテーマとしても重くて厚い。見応えはじゅうぶんにある。

原作の長編小説は読んでいないのだが、原作を忠実に反映しようとしているわけではないと思う。また原作の要素を可能な限り使おうとしても2時間の映画に収めるのは至難のわざなので、点と点とをつないで面にするような、瞬間と瞬間をつないで持続させるような、断続性あるいは断片性による構成法とっているので(とはいえ、それはどの映画もしていることなのが)、背後に語られざる、あるいは省略された、物語や細部があるだろう予想され、それが、観客にフラストレーションを与えるかもしれないが、それを演技陣の超絶演技がおぎなう、あるいは解消するといえるし、さらには断片性は、いろいろな面を推測させる面があって、それが、背後に、語られざるもの、あるいは背後にある大きな現実、すなわち現在の日本の状況をも暗示して、ただリアリズムで終わらない、象徴性、寓意性を映画にもたらしている。実際、骨太の映画と物語であるが、そこに暗黒舞踏を出してくるのは、おそらく原作にはないシーンだろうが(類似するものが原作にあったとしたら、原作、あっぱれである)、寓意性を導入し、さらに日本の今を暗示させようとするたくらみにほかならないだろう。

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ジャンルとしての映画のなかで、正義の対立概念は不正とか悪とか犯罪ではなく、幸福である。この両者の対立のうち、映画では、必ず、正義が勝利をおさめる。これは鉄則である。正義をふみにじることは映画では許されない。だが、正義を実現することで、犠牲になる幸福に対して正義だけでよいのかと疑問を呈することもまた、映画の鉄則である。

たとえばベン・アフレックが初監督した『ゴーン・ベイビー・ゴーン』という映画がある(以下、ネタバレ注意)。これは貧しい家庭に生まれ、親の養育も満足に受けられない子どもたちを、引き取るというよりは拉致して、裕福だが子供のいない夫婦のもとに養子に出す活動をめぐる映画となっている。もちろん、これは違法行為であるが、それを市長や警察幹部らが街ぐるみでひそかに実行している。犯罪組織が子供を拉致しているのではない。子供の幸福を願って、親の資格のないような実の親から、赤ん坊のうちに引き離し、愛情をもって育ててくれる夫婦をさがすという善意に基づいている。だが、報酬など求めない、無償の行為とはいえ、違法行為は違法行為。それを司法や行政をあずかる人びとがおこなっているのは、さらに問題となる。ケイシー・アフレック扮する、ちょっと頼りない私立探偵が、赤ん坊がいなくなった母親から捜索を依頼され、真相にたどりつく。この件を秘匿してくれと頼む市長以下の関係者の懇請にもかかわらず、探偵は真実を公表し、行方知らずの赤ん坊は実の親のところにもどる。ここで貧しい家に生まれ虐待されるしかない子供を、「万引き」して幸せになれる家族を探すことが、子供にとって幸せであることは、歴然としている(『万引き家族』と同じテーマである)。血のつながりほど、たちの悪いものはない。児童虐待は血のつながった実の両親がおこなっているのである。

しかし両親にも子供を育てることをとおして自らを立ち直らせる可能性があたえられてもいい。また実の親が、子供を育てるのは義務であり、養育は社会的秩序の根幹をなす実践である。もちろん子供を奪うことは重罪である(だから「万引き家族」も法的には罰せられる)。しかし『ゴーン・ベイビー・ゴーン』は、正義を貫いたことである程度、満足している探偵と、母親のもとにもどった赤ん坊の幸せな姿で終わるといえいば終わるのだが、この母親がどんなに子供をかわいがろうとしても、貧困層の住む地区で、この夫と、この親戚と、この隣人たちのなかで、おそらく赤ん坊は見捨てられるか虐待されるだろう、育っても、たぶんろくな大人にならないだろうという暗示もある。正義を貫き、違法行為を正すことが、幸福と両立しないかにみえる。問いは重い。同じことは『検察側の罪人』にもいえる。

『検察側の罪人』において、非合法に殺される犯罪者たちは、生きる価値のない人間のクズばかりで、殺されて当然である。むしろ彼等を生かしておくほうが、社会にとって危険なことになるというのが想定されている観客の反応であろう(ただし私個人は、死刑に反対であり、ましてや私刑は許されるものではないと思う)。だが映画にとって第一義的尊重すべきは正義である。しかし正義をつらぬいたからといって、幸福になるわけではない。映画のなかでは、正義をつらぬくことによって、国民を限りなく不幸にする巨悪(右傾化しファッショ化する現政権と日本の社会)と戦う手段を失うことにもなりかねない。この映画の終わりは、ジレンマである。二宮君の最後の絶叫は、解決不能さと無力さに直面したときの、言葉にならない苛立ち怒り悲しみである。

報道の自由度において日本は北朝鮮よりもちょっと上くらいだと映画のなかで木村拓哉扮する検事は友人の国会議員に語っている。北朝鮮は報道の自由度において常に最下位だから、ちょっと大げさといえば大げさなのだが、安倍政権(第1次も今回も)なると日本は報道の自由度が下落するので、このくらいは言って当然である。しかも、検事の友人の国会議員(平岳大、扮する)は、政権にとって致命的となる重要な情報をにぎっており(それを最終的に友人の検事/木村拓哉に託するのだが)、その妻がチェーンホテル(私は個人的にはアパホテルには絶対に泊まらない)の経営者で、妻の父親は極右勢力の元締め的存在となれば、まさにこの映画が描く日本は、右傾化しつくしている現代の日本の政治と社会そのままである。いうなれば現代日本の生き写しである。

いま「生き写し」という言葉を使ったのだが、自分で使いながら、なるほどと思った。というのも映画の冒頭は、現代日本の東京の光景が、画面を上下二つに折りたたんでまた開いたかのように、上下に反転した映像となって映し出される。静かな水面にうつる景色みたいに、上下が反転しているのである。これはなんだろうと最初、いや最後まで不思議な思いにとらわれるのだが、海上に浮かぶ「蜃気楼」(海市)だというコメントもあるのだが、蜃気楼は上下逆転するのだろうか。いずれにせお、どちらがオリジナルで、どちらかコピーか、わからいかたちで(反転像であることを除けば、両者は、まったく同じ映像なのだから)、ふたつの世界が上下で対峙していることになる。二つの世界は、また、この映画の宣伝コピーからすれば、二つの正義(木村拓哉と二宮和也の二人の検事のそれぞれの正義)の対立を意味しているのかもしれない。いっぽうは転倒・倒錯した正義となる。

と同時に、これは現実の世界と、蜃気楼のような生き写しの世界である。この映画の世界が現実の生き写しあるいはクローンのような存在であるともいえる。生き写しである以上、現実のリアルは、そのまま保たれている。監督の危機意識が反映しているのだと思うし、またその危機意識には強く共感するのだが、これほど現政権と右傾化する社会と極右勢力に対する批判が盛り込まれているとは最初予想もしなかった(私は個人的にはアパホテルには絶対に泊まらない)。現実社会への批判的あるいは諷刺的視点は、最初の高齢者の逆走・暴走運転事故にもよくあらわれている。

と同時に、この現代日本の社会の生き写しでもあるこの映画の世界は、リアルであると同時に、生き写しであるような、どこか不安定な非現実感も漂う。検事(木村拓哉)を助ける松重豊扮する男は、徐々にその不思議さ、あるいは不気味さを増していき、この世のものとは思えない、悪魔=メフィストフェレス的存在になっている。この世界は、報道の自由度が北朝鮮と変わらないところまで落ち込み(実際にもそうなのだが)、時折、無意味に暗黒舞踏団があらわれる非現実的な世界でもあるのだ。これはだが、映画のもっているリアルさを阻害するものではない。むしろ映画を別次元にもっていく。

インパール作戦については知っていたが、こまかなことはわからず、これは原作を読まないとわからないと思っていたら、なんと原作にはインパール作戦については出てこないとのこと。映画のオリジナルな設定であるとのこと。これには驚いたが、映画をみながら、これは原作を読んでいないとわからないという説明不足感を抱いたものの、同時に、無謀な作戦で甚大な被害を出し多くの将兵が戦死したインパール作戦のことは、日本を、戦争ができる国にかえたがっている、そして忖度しか念頭のない現政権とその応援団と官僚組織への、痛烈な批判ではないかと思った。と同時に、このインパール作戦は、この映画が示す、もう一枚のタロット・カードだとも思えてきた。

この映画の生き写しの世界の、現実感のある非現実感は、主人公(木村)が、その脅威的記憶力によって誕生日占いの名手だったり、映画全体が章立て形式となっていて、それぞれの章にタロット・カードが使われていることも大いに貢献している。タロット・カードが原作に使われていたのか否かは、もうどうでもよいと思われているのだが、この映画は、現代日本の生き写しの姿を、観客に提示しながら、同時に、タロット・カードとしても、現代日本の行く末を提示しているのである。タロット・カードは、その図像によって未来を予言するといっても、カードそのものの解釈に依存している。この映画は、二人の検事の息づまる攻防と、二つの正義の葛藤、そして正義と幸福との葛藤をみせながら、同時に、現代日本の生き写し像を、タロット・カードによって、それも複数のカードによって、示している。

このようなカードが出そろいました。これによって、あなたは日本の未来をどう占いますか。それが映画の観客にむけてのメッセージであろう。

付記 この映画によって木村拓哉が、ある意味、ストレートなヒーローではなくて、ダークサイドによりのヒーローになったというようか意見も聞かれるが、確かに、テレビドラマ『ヒーロー』における、破天荒な若き検事には、もう戻れないだろう。しかし同時に、木村拓哉の映画・ドラマの標識的な特徴は、今回も守られている。つまり彼は、映画やドラマで子供とりわけ少年と絡むことが定番ともなっている。彼自身が、少年的イメージを持ち続け、少年の心を失わないということの暗示かもしれないが、どのような役柄でも、この定番的設定は変わらないように思われる。連続テレビドラマ『BG〜身辺警護人〜』は、木村拓哉が息子のいる父親になって、ある意味、話題になったのだが、あの生意気な息子は、彼がいつもからんでいる少年の分身であろう。『検察側の罪人』のどこに少年がいるのかといわれるかもしれないが、二宮和也は、童顔ということもあって、いつも木村にからんでくる少年の分身であろう。その意味で、木村拓哉の映画・ドラマにおける少年存在は失われていない、


posted by ohashi at 12:50| 映画 | 更新情報をチェックする