2018年09月15日

『お気に召すまま』1

河合プロジェクトのシェイクスピア作『お気に召すまま』を世田谷パブリック・シアターのトラム・シアターではなく、彩の国さいたま芸術劇場の小ホールのほうで観た。河合先生の新訳と演出によるもので、水準以上の優れた公演になることは予想できるので、安心してみることができ、また人にもすすめられる。シェイクスピア劇の世界は、これだと誰にでも奨めることができる上演であり、できるだけ多くの人にみてもらいたいと思う。もしシェイクスピア劇を舞台で観たことがない中学生や高校生(いや小学生でもいい)の子どもとか、親戚の者がいたら、私は躊躇もなく、この上演をすすめていただろう。多くの人にみてもらいたい舞台。彩の国さいたま芸術劇場の小ホールは、どこに座ってもよくみえる。席のよい悪いはない。また当日券もまだあると思う。

私が見たのは金曜日の午後の回だったので、空席もめだった。週日の午後の上映は、埼京線の与野本町駅から徒歩で5分から10分の間の距離(行きにくい場所ではないのだが)というのは、やや奥まった感があるし、小ホールは、芸術劇場のなかでも、さらにちょっと奥まったところにあるので、奥の奥というイメージがないわけではない。神奈川芸術劇場にも東京芸術劇場にも私は乗り換えなしで地下鉄で行けるところに住んでいる。神奈川芸術劇場での公演の場合、夜9時くらいに終わると、予想以上に早く終わった、あとは地下鉄の始発で帰るだけだと劇の余韻をあじわいながら元町・中華街駅へと向かうのだが、彩の国さいたま芸術劇場の場合、与野本町駅のホームに夜の9時に立っていると、今日中に帰れるのかと不安になる。理由もなく不安になる。地の果てにきている(失礼)とついつい思ってしまうのだが、しかし実際には930分には自宅の最寄り駅に到着している。電車に乗っている時間よりも、ホームで待っている時間のほうが長いくらいである。私の不安な無根拠なのだが、私と同じように感じている人がいたら、それは克服できる不安である――与野本町は、そんなに遠いところにはない。

河合祥一郎先生の新訳による『お気に召すまま』は、翻訳者と演出家が同じなので(しかも、シェイクスピア研究者として三役を一人でこなすことになるので(シェイクスピア研究者なら、三役をひとりでするのは当たり前と思うかもしれないが、これはめったにないことであって、河合氏ならではの、ある意味、偉業といっていい)、シェイクピアの上演に関しても、シェイクスピアの台詞に関しても、きわめて配慮のゆきとどいた処理をしていて、重要なところを加工したり捨ててはいない。つまり自分で翻訳をしていない演出家の場合、台詞を大胆にカットしたり、ときには変更することもいとわないかもしれないが、演出家が翻訳家である場合、またさらにシェイクスピア研究者である場合、どの細部もなおざりにしない、丁寧な演出を期待できる。それがよいところでもあって、『お気に召すまま』という作品は、その設定によって、笑いをとるだけではなく、言葉のやりとりにも大きな比重を置いている。残念ながら、オリジナルの作品における漫才めいたやりとりは、現代人には理解しがたい、ある意味、退屈なところであって、忠実に再現すれば、ひたすら退屈、逆に大幅にカットすれば、退屈はしなくても、原作の味わいからは離れることになる。それが今回の河合氏の演出ではバランスがとれていて、言葉のやりとりも省略をせず(省略はあったとは思うが、私は気づかなかった)、漫才的掛け合いも、爆笑はしないものの、それが漫才的であることはよくわかって、はじめて言葉のやりとりも退屈しない『お気に召すまま』を見たような気がする。この点は、どんなに強調しても強調しすぎることはなく、自信をもって誰にでも今回の上演をすすめることができるゆえんでもある。

ただ意表を突く試みもなされていて、配役表もみていて、道化のタッチストーンと、シニカルな厭世家のジェイクィーズが一人二役であって驚いた。そうか二人は、劇中で、直接出逢うことはなかったのかと、私自身の不明を恥じたのだが、そんなことはない。二人は劇中で出会う。また言葉もかわす。では、どうしたのか。それは舞台をみて、笑っていただくほかはないのだが、これは河合演出の遊びの部分だろう。もちろん、そこに人間は演技者であるという、この劇のテーマを絡めている(意表をつくかたちで)のだが、しかし、基本なお遊びだろう。しかし、だからとってお遊びが悪いということはない。

実は原作でも遊んでいるところがある。『お気に召すまま』では、主人公のひとりオーランドに仕える老召使アダムは、シェイクスピア自身が演じたと言われている。もちろんこのことはお遊びでもなんでもない。シェイクスピアは、劇団員であっても、まず俳優であり、その俳優が劇作家にもなったのだから。そこはいいのだが、この作品には、田舎者のウィリアムというが登場する。これはなんで登場するのかよく分からないし、カットされることもあるのだが、このウィリアム、自分は頭がいいとうぬぼれているのだが、田舎者で、学はない。しかもオードリーという、さほど魅力もない田舎女に惚れているのだが、オードリーからも馬鹿にされ疎まれている。この田舎者の馬鹿ウィリアムは、当時、ウィリアム・シェイクスピアが演じたのではないかと言われている。田舎出の学問のない、己惚れ屋ウィリアムこそ、ウィリアム・シェイクスピアの自虐的自画像であるということになる。とはいえシェイクスピア自身が、このウィリアムを演じていたかどうかわからない。もしシェイクスピアがアダムを演じていたのなら(アダムとウィリアムのダブリングは可能)、そのアダム=シェイクスピアにむけて、シェイクピアをからかう台詞をいれたというのは、自虐的アイロニーの極致あるいは、お遊びの極致かもしれない。当時、わかる人にはわかるということだろう。

そんな話は聞いたこともないというなかれ。2016年だったが青木豪演出で本多劇場でのオール・メールの『お気に召すまま』(松岡和子訳であったかと思う)では、ウィリアムズを、シェイクスピアにそっくりの顔立ちにした俳優が演じていて(そのことはDVDあるいは上演パンフレットの画像からもわかる)、ウィリアム=ウィリアム・シェイクスピア説を知っているのだと感心したことがある。

ともあれ河合プロジェクトも、シェイクスピア自身も、遊びの部分を、この作品に加えていることは興味深い符号化と思った。

『お気に召すまま』の初演当時、劇団では背の高い少年俳優と背の低い少年俳優をペアで使うことも多く(当時は少年俳優が女性を演じていた)、実際、この作品でも背の高いロザリンドと背の低いシーリアという、いとこ同士だが、姉妹のように仲の良い女性が登場する。『夏の夜の夢』でも、背の高いヘレナと、背の低いハーミアが登場する。今回の舞台でも、シェイクスピアは、このような舞台を望んでいたのではないかということを、研究者の鋭い感性によってくみとった河合演出では、背の高いロザリンドと背の低いシーリアを登場させた。


ただ小柄なシーリアではあるが、徐々に存在感をましてゆき、ロザリンドとオーランドの恋が佳境に入るころは、シーリアの存在が、ある意味、障害になるほど大きくなる。そのためシーリアは、存在が邪魔にならない処理を原作でほどこされる。オーランド兄オリヴァーと一目ぼれの関係になるのだ。そしてオリヴァーと仲良くなり結婚の約束をするシーリアは、あれほど雄弁だったシーリアは、一言もしゃべらなくなる。実は、このシーリアの沈黙は、原作における最大の問題点で、ロザリンドとシーリアという女性どおしの友情は、最後には消滅して、それぞれの男の夫として離れ離れになる。いっぽうオリヴァーとオーランドという仲の悪い兄弟は、最後には和解する。男は、最後には仲良くなり、仲の良い女性は、引き裂かれる。そこに、この劇、いや、父権制のもっている過酷さがある。だが、そんな小難しい話はやめてほしいというのなら、ただ、あれほど魅力的だったシーリアが、原作において沈黙させられるのは、残念な気がする。

河合演出は、シーリアの魅力をたっぷりみせてくれるという点で、ある意味出色の演出だったといえよう。アフターパーファーマンス・トークでも、シーリアに魅力を感じていた女性観客もいたようで、演じた女優と河合氏の演出の相乗効果によって、みごとなシーリアをみることになった。

そのためかどうかわからないが、劇の最後でシーリアが声を奪われるのを残念に思ったのかもしれない河合氏は、最後の大団円の直前に、シーリアを演じた女優に歌を歌わせることにした。シーリアとしてではなく、追放された公爵に付き従う元廷臣のひとりとして歌をうたう。つまり、一人二役なのだが、観客にはシーリアを演じた女性が、いま、公爵の従者のひとりとして歌を歌っているのだとわかる。おまけにその歌がうまい。声を奪われたシーリアに、最後に声を与えた河合氏の心優しさに感動すら覚えた。

たとえば少し前、山田洋次監督が小津安二郎の『東京物語』をリメイクした作品があった。あの、上京した老夫婦が、リア王みたいに、東京の子どもたちに嫌われ、家をたらいまわしにされる『東京物語』で小津安二郎が描く世界は、人間関係が震えがくるほど冷酷である(まあ絵の構図も冷たいのだが)。同じ題材を扱いながら山田洋次監督のリメイク版は、オリジナルの冷酷さを緩和している。あるいは冷たさを感じられない工夫が随所にみられるのであって、山田監督のやさしさのようなものに感銘すらうけた。

もちろん冷たいのは、小津安二郎監督自身でもなければ、シェイクスピア自身でもなく、それが描いている世界である。『お気に召すまま』では最終的にシーリアに沈黙をしいるのは、ジャックはジルと結婚せねばらなない約束事を守らざるを得ない喜劇の掟であり、ひいてはそれは結婚という制度のもつ暴力的ともいえる強制力である。まあ、私のように、生産性を重視される結婚制度に対してなんら幻想をいだいていない者にとっては(おそらく劇作家としてではなく、実生活におけるひとりの人間としては、シェイクスピアも結婚に幻想などいだいていないのと思うのだが)、結婚について、喜劇の約束事としても、現実としての強制力としても、その不条理な顔、ふだんは隠れているか着目されることのない陰惨な側面を、『お気に召すまま』は、それとなく示している――それがシーリアの沈黙なのである。

『お気に召すまま』の最後でシーリアに間接的に声を与える河合演出は、声を奪われたシーリアの過酷な運命をやわらげることになった。誤解のないように言えば、だから河合演出は微温的であるとか、制度の暴力性を糊塗するイデオロギー的処置などというつもりはない。『お気に召すまま』では、生産性を重視する結婚制度の暗い面が随所に暗示される。にもかかわらず最後に結婚が祝福される。道化のジェイクィーズは、その慧眼と鋭い批判性によって、結婚や男女の恋愛についてシニカルな観点しかもっていないように思えるのだが、そのジェイクィーズですら、みずからすすんで、結婚制度に身をゆだねる。この劇は批判や諷刺の劇ではなく、和解の喜劇である。だから、いたずらに暗黒面に対する示唆を強調することは、劇の方向性を無視することにもなる。河合演出が、シーリアに対しては心優しすぎるということで批判されることがあってはならない。むしろ、その演出によって、シーリアの沈黙に声があたえられたとともに、シーリアに課される沈黙にも注意がむくかもしれないからだ。心優しければ優しいほど、闇をくみ上げる。実際のところ、初めてシェイクスピアの『お気に召すまま』を見た観客は、シーリアの沈黙に気付くとはまずない。河合演出は間接的なかたちでその沈黙を喚起しているのである。


つづく

posted by ohashi at 21:53| 演劇 | 更新情報をチェックする