2018年09月05日

親密さへの恐怖

まあ、これは私が天邪鬼なのだということはわかっているが、たとえば気にいった喫茶店があったとする。ほんとうに気に入っているので、たまたま普段とは異なる場所にでかけたときに、みつけた喫茶店だったりすると、そちらの方向に用がなくても、わざわざ出かけたりして、好きでたまらなくなる。当然のことなのだが、むこうのほうも、足繁く通ってくる私のことを認識し始める。そうなるとレジで精算するとき、突然、いつも来ていただいてありがとうございますと声をかけられることがある。そんなとき、それ以後、その喫茶店には二度と行かないことにしている。

別に喫茶店の側に問題があるのではない。よく通ってくる客に対して声をかけ、得意客として認知していることを知らせ、ときにはサービスすることは、むしろふつうである。しかし、私としては、たとえ得意客としても、黙って放っておかれるのがよいのであって、得意客として特別扱いしてほしくない。あくまでも匿名の客として扱ってほしい。行きずりの見知らぬ旅人として扱って欲しいし、そのほうが気が楽であって、逆に得意客となり、仲良しとなり、最終的に職業や仕事の種類から、家族のことや、友人関係、経歴や個人的経験など、話さなければならなくなる関係になるのは、願い下げだと考えている。自分のなかに足を踏み入れられるのは嫌であるからだ。

もちろん、くりかえすが、この場合、喫茶店の対応を批判しているのではない。得意客だとわかったら、特別サービスをしていいし、そうすればその客が、さらに別の客を連れきて、店の評判があがるかもしれない。そもそも自分から足繁く通ってくる客は、あきらかに店側に認知してもらいたいと願っている。店側もその意を汲んで、親密な関係を築こうとする。なんらおかしなことはない。私だって、たとえば、私の担当する授業によく出席してくる熱心な学生がいたら、チャンスを見て、声をかけ、仲良しになろうと思う。それは互いの利益になるかもしれない。しかし、もし私が親しげに声をかけた学生が、次の回から一切授業に出てこなくなったら、私としては心配になるし、またときには私は憤慨するかもしれない。だから繰り返すと、親密になろうと接近してくる側に、批判されるべきところは、なにもない。私が親密性に対する抵抗、あるいは恐怖があるだけである。

演劇、それも大劇場の演劇よりも、小劇場の演劇のほうがそうかもしれないが、上演後に俳優あるいは劇団関係者との交流の場を設けていることが多い。この場合、上演は、ただ上演・パフォーマンスで終わるだけでなく、そうした交流もふくめてのイヴェントとなっていると思う。生身の人間が舞台に立ち、それを手を伸ばせば触れることができるくらいの距離でみていれば、上演後に、俳優や演出家や劇団関係者と交流しないことのほうがおかしいといもいえる。せっかくのチャンスを、つまり映画とか大劇場の上演では得られないチャンスを棒にふるのは、もったいなさすぎる(もっとも大劇場の場合でも楽屋訪問というかたちでのアフター・パフォーマンスのイヴェントはあるし、楽屋の出待ちそのものがイヴェントと化していることもあるが、参加者は限られる)。

もし私が劇団とか上演する側の関係者だったら、上演後も、見に来てくれた人たちと話をして、いろいろ反応をじかに聞いてみたいし、実際、それは有益かつ楽しいことなので、望ましく求められていることだと思うだろう。問題は、私自身がそれを嫌いだからで、上演が終わればすぐに帰る。その場からできるだけ早く離れたい。これは上演に不満だからではないし、自分の見た感想を伝えたくないからではない。親密さへの抵抗と恐怖があるからで、だからこそ、映画は、見たら、あとはさっさと帰るだけでいいので、気が楽である。

くりかえすが、自分の感想は伝えたいと思うのだが、アンケートに書いたり、その場で伝えることは嫌いで、あとから、たとえばこうしたブログで伝えたいとは思うだけである。

まあやっかいな人間なので、私と親密になろうとした人たちに対して、拒絶したことをお詫びしたい。私が、そちらの立場だったら親密になろうとしたのは、まちがいない。ただし、今後も、私の姿勢は変わることはないのだが。

posted by ohashi at 22:43| エッセイ | 更新情報をチェックする