全日本剣道連盟(張富士夫会長、全剣連)の「居合道(いあいどう)」部門で、最上位の八段への昇段審査などの際、審査員に現金を渡して合格させてもらう不正が横行していたことが16日、関係者への取材で分かった。受審者が払う現金は合計で数百万円に上ったケースもあるとみられる。現金を要求された男性が告発状を内閣府公益認定等委員会に提出、同委員会も事実関係の調査に乗り出した。スポーツ界で不祥事が相次ぐ中、伝統の武道でも不公正な慣行がまかり通っていた実態が明らかになった産経新聞
こうした「慣習」は、やめるべきであり、また一回の「不正行為」というよりは継承されている「慣習」だと思うので、根絶はむつかしいと思うが、根絶して欲しい。
結果的には金で段位とか資格を買うということになるのだが、今回の場合、あるいはこうした慣習においては、実際には、いくら金を積んでも実力のない者は段位や資格はとれないと思う。むしろ文句なく実力で段位や資格がとれる人間から金をとる。くりかえすが実力がなければいくら金を積んでも資格はとれない。いくら実力があっても、金を出さないと資格はとれない。実力もあり金も払う人間だけが資格をとれるということである。
居合道など、実力を数値化、客観化するのがむつかしく、審査委員の主観に左右されることも多いがら、このような不正がまかりとおるとも言われているのだが、たぶんそれは違う。審査する方はたいへんだから、謝礼くらい欲しい。金を払ったから資格を出すと言うのでなく、審査してやるから、そのぶん金を払え。つまり資格ではなく、審査行為に金を出すということである。さらにいえば金をもらって審査したら、だめだったというときには、金を返さなければならないし、金を返すのがめんどくさいため実力のない者に資格を出すほかなくなり、審査の権威が落ちる。そのために、審査に通るであろう実力者からしか金をもらわないようにすればいい。結果的に金で資格を買うのと同じことになるのだが、正確にいうと、審査行為の謝礼である。本来なら、審査を行う主体・集団・組織から金をもらえばいいのだが、審査を受ける側から金をもうらう。まあ受験料とか検定料みたいなものである。
受験料の場合、合格したからといって合格を金で買ったとはいわれないし、不合格の場合、受験料を返せとも言われない。今回の場合も検定料としてもらっておいてもいいようなものだけれども100万円を超え高額なうえに、その金もどこにいくのかわからない。組織への寄付なのかもしれないが、高額の寄付をしないと資格を出さないというのも問題があるし、また今回のように領収書を出さない裏金というのもおかしい。高額の受験料、検定料を合法的にとる手段はない。高額の受験料や検定料は不正とみなされる。
こうしたことにこだわるのは裏金、裏システムのようなものは、必要悪として擁護する者もいるが、私の場合、極力なくすべきだと考えるからだ。内部告発だろうが外部告発だろうが、どんどん告発して、一つ一つ、悪しき慣習をつぶしていかなければ、次に不利益をこうむる、さらには命を奪われるのは、私かもしれないし、あなたかもしれないからだ。先に東大病院に断られた話をしたが、もしそこに、いちげんさんおことわりシステムが強力にはたらいていたら、どこからも断られ、たらいまわしされて、軽い急性アルコール中毒だった私も、最後には命を落としていたかもしれないからだ――東京医科歯科大学は、そんないちげんさんおことわりシステムを採用していなくて、というか救急病棟なら、いちげんさんであろうがなかろうが、助けるのは当然のことだが――とにかく私は助かった。いまでも感謝している。
そしてまたこの裏システムあるいは裏金システムは、アカデミックの場に存在している可能性が高いからだ。
博士論文の審査に際して、審査委員にお金を払うことに関して、以前、東大でも告発されたことがあった。もちろん無根拠な噂だったのかもしれないし、システム化されていない、一部の不届き者の所業だったのかもしれないし、また現在では、改善されて、そのような裏システムは根絶されたのかもしれないのだが、私には真偽を判定できない。また事実無根だとしても、まちがいなくこうした噂があることは確かで、もしこの噂を信ずるなら、理系は業績に関して公明正大な評価システムを確立していながら、なんて金に汚いのだとあきれるほかはない――噂を信ずればの話で、これ以上あれこれいうと、理系関係者をディスることになるので、やめよう。まあ倫理観のなさは、科学者の特徴であって、倫理や道徳などというものは科学研究の妨害になるというのは一理あるが、だからといって、平気でお金を巻き上げる倫理観のなさの言い訳にはならないのだ。ちなみに大学でセクハラ被害が多いのは、文学部と理学部だが、これは文学部の場合は意識が高すぎるためセクハラを許さないため、理学部の場合は女性蔑視と倫理観の欠如におってセクハラが日常化しているからである。
ちなみに私は博士論文の審査に関しては、所属の研究室のみならず、他研究室の審査にも、また他大学の審査にも携わったことがあるが、お金は一銭ももらっていない。他の審査員も同様で、謝礼金とは全く無縁である。正直言って博士論文の審査は、時間もかかるしめんどくさい。間違いなく博士号に値する論文だとわかっているなら、細かく審査しなくていいのではないかと思うかもしれないが、提出された時点で、よほどのことがない限り、その博士論文は、審査に合格したも同然である。しかし、精査して遺漏がないかどうか調べるのは、完成度の高い論文であればあるほど、神経をすり減らすような細かな審査というか査読を必要とする。いや、ほんとうに謝礼が欲しいくらいだが、将来の有能な研究者にして私たちの同僚となるべき人材を確保するためにも、多少の犠牲あるいは無料奉仕は当然のことであり、また文系は理系に比べて博士号取得者が少ないから、審査のための拘束時間は、理系の先生方に比べれば楽で、文句も言えない。
実際、大学教員の場合、倫理規定があって、たとえば博士論文を提出者から、個人的にいかなる謝礼ももらっていはいけないことになっている。審査の厳正さ、ひいては組織や制度の公平性を確保するためである。だから盆暮れの付け届けなどもってのほかである。これは人間的接触が公平性をそこなうという考え方である。しかしもういっぽうで、盆暮れの付け届けこそが公正性の基盤になるという考え方もある。全日本剣道連盟の「居合道」部門の審査員たちの考え方である。
つまり個人的な接触をとおして、日ごろから人となりや能力を判定することによって公平な審査ができるというわけだ。逆に、見ず知らずの他人の能力を、ごくわずかな材料をもとにして判定することこそ、客観性とは程遠い、不公平な審査である、と。もしこの考え方を正しいとすれば、審査する側は、自分の友人の能力を審査することになる。またそうであればこそ、審査される側も友人として、お礼をしたくなる、審査の労をねぎらうための謝礼金を出したくなるということになる。この場合、友人から、礼などもらってはおかしいだろう、あるいは友人だからこそ、無料奉仕で審査してやるべきだということにはならない。まあやはり金に汚い邪悪な品性なんだろう。
とはいえ、以前、中国文化文学関係の博士論文審査に駆り出されたことがあったが、口頭試問を終えたあと、審査員の一人が、こういうとき、つまり審査が終わったら、中国では、審査された学生が、審査員の先生たちにお礼に、宴席をもうけて大盤振る舞いをするのだと話してくれた。それがほんとうかどうか私には知るよしもないし、昔のことだが、私の記憶違いもあって、私が話の内容を誤認した可能性もあるが、ただ、そういう慣習はあっておかしくないと思った。たとえば謝恩会というのは卒業する学生が、これまで教育してくれたお礼を先生にするために、宴をもよおすというのはおかしなことではない。学生が博士号を取得する時、それまで指導してくれた教員に対し、また審査をしてくれた先生方にお礼をするというのもわからないわけではない、というか当然のことかもしれない。
しかし現在は、そういう時代ではなくなっている。個人的なつながりは、客観的公平性の温床というよりは、偏った判定、不公平な判断、個人的恩恵の、つまりは悪の温床とみなされるからである。おそらく現代は、ふたつの時代が混在している。表システムに対して裏システムも併存している。正規料金のほかに裏金も存在している。病院などの診療費のほかに、手術に際しての謝礼金という裏金が存在してる。私は母親の癌の手術の際に、正規の治療費(保険の補助がでる)と同時に、担当医師に裏金を支払った。病院には一見さんおことわりシステムがあってもいいが――大学病院は基本的に紹介状がないとみてくれない――、それが救急病棟にまで適用されたらたまったものではない。理系における博士論文取得に際して、裏金が動くことがないことを祈るばかりである。
こうした慣習は、最終的にはシステムそのものをむしばむことになる。丹念にひとつひとつぶしていくほかない。今回の全日本剣道連盟の「居合道」部門での審査は、これで健全化への道を辿り、新しい時代を受け入れることになるのではないか。ある意味、ラッキーだったのかもしれない。