トム・フォード監督の二作目は、予想外にすごい話しで圧倒された。第一作『シングルマン』も面白い作品だった。第一作の原作となったイシャーウッドの原作も読んでみたが、原作では最後に主人公は急死するのだが、自殺ではない。たしかに自殺を決意した主人公の一日にしては映画における言動はあまりに不自然すぎる。映画が、自殺決意という点を除いて、あとは原作に忠実になればなるほど、違和感が増していた。とはいえまたいっぽうで、自殺が映画全体に緊張感を付与していたのも事実で、ゲイ映画としても、そのメランコリックな喪の儀式(主人公の長年の愛人に対する)という主題に独特の哀調を付与することになった。
才能が二つもある人間は、ほんとうにうらやましいと、才能がひとつもない私としてはひたすら羨望の念のしか感じないのだが、今回は、前作からは予想もつかぬ展開に驚きまた感動した。
もちろん前作にあったおしゃれな生活空間やアートフルな雰囲気は横溢しているが、同時に、むき出しの暴力と救いのない死のテーマなど、メランコリックな雰囲気あるいは克服できない死のトラウマなどのテーマも重みを増している。いや、その重いテーマの部分は、物語の部分、つまり主人公の女性が読んでいる物語の部分での話なのだが、ああ、物語だったと思うよりも、むしろ、その物語の部分が、突出して全体を覆いつくすようなところがある。出てこようとしている物語なのだ(すみません。ヨーロッパ企画の『出てこようとしているトロンプロイユ』の影響をまだ受けている)。
美術館の学芸員か館長であるエイミー・アダムズのもとに元夫(ジェイク・ギレンホール)が書いて、今度出版されるという小説のゲラが送られてくる。読んで感想を聞かせてほしいということだったと思うが、その内容は、元夫の小説家の彼女への思いが描き込まれているという。そうなのかと、ゲラを読み始める彼女。彼女とともに観客も小説の世界に入り込むと……
夜のハイウェイ、妻と娘を乗せて走るジェイク・ギレンホール。進路を妨害する二台の車をどかせて追い越すと、今度は後ろからあおられ、車をぶつけられ、路肩に追い込まれて、あきらかにならず者というか、やさぐれた男たちに、車外に引きずり出される……
予想もつかない展開となる。これはエイミー・アダムズと彼女の元夫、ジェイク・ギレンホールとの間に実際に起こった出来事のことを描いたのだろうか。そうなると彼女の元夫と、彼が書いた小説の主人公のふたりをジェイク・ギレンホールが演じていることはわかるが、彼の妻をアイラ・フィシャーが演じているのは、なぜか、なぜ彼女をエイミー・アダムズが演じていないのか。どうやら小説に描かれている出来事は、元夫とエイミー・アダムズの実際にあった出来事とは異なり、元夫の頭の中の、いうなれば心象風景ということなのだろう。小説に描かれているのは実際の事件ではない。小説のなかの出来事、その暴力性と悲劇性、怒りと悲しみが、元夫がエイミー・アダムズに対して抱いている現在の感情とシンクロするということだろう。
このへんはわかる。ただ、問題は、ハイウェイであおられて、車をぶつけられ、いんねんをつけられて、車外に引きずり出される。そして命の危険にさらされる。これは、怖すぎる。現実に日本で同じような事件が起こったばかりだ。しかも、たまたま悪辣な人間が一般人に対して起こした例外的な事件というのではなく、似たような事件が続いて起こったし、いまも起こっている。高速道路にすくう悪魔。ああいう連中は一掃すべきだし、厳罰に処するべきだと怒りと恐怖を感じている日本人は多いと思うが、まさにその感性をいま、この映画から刺激されるとは!
ネタバレになるのだが、あるいは以下はネタバレになるかもしれないので、ネタバレ注意:Warning Spoiler。
エイミー・アダムズは不眠症である。そのため注意散漫になるだけでなく、幻視までするようになる。いうなれば現実と夢/悪夢との区別がつかなくなる。この関係は、元夫が書く小説と実体験との関係と同じである。つまり実体験では、周囲の反対を乗り越えて愛のある結婚をしたのだが、生き方の違いというか、夢にみた結婚生活と結婚生活の現実との乖離、さらには女性の側にも自己実現の夢があり、それが結婚生活の障害となるなど、ある意味で、ありがちな過程をへて離婚へといたる。これが小説のなかではハイウェイで地元の不良に襲われえ、最終的に妻と娘を殺されるという事件に変貌する。娘? 実は実生活においても彼は娘を失っている。離婚後か離婚を控えてか、彼女は元夫とのあいだにできた子供を中絶しているからだ。小説のなかにおいて、なぜ、じぶんは死に物狂いで妻と娘を助けなかったのかという悲痛な叫びは、妻か元妻の妊娠中絶手術を止めようとして手遅れだったことの悲嘆とシンクロしているのである。
小説と実体験が、直接的ではなく間接的にあるいは象徴的にシンクロしていることがわかる。ただ、これは現実と夢との区別がなくなるということではない。そうなのだが、しかし、最近、絨毯の表と裏という比喩を使って小文を書いたこともあり、その比喩をここでも使えば、実体験と小説は、絨毯の裏と表ということになるとしても(もちろん地と図という比喩でも同じことがいえるのだが)、どちらが夢か確証はないのである。
つまり小説で描かれる暴力的な出来事が虚構化された裏、表は夫婦の出会いと終わりと悲劇的終わりという実体験となるが、これは逆ではないか。妻と娘をならず者に殺され、やがて復讐を終えてもみずから死ぬことになる男が、死ぬ間際に、あるいは事件が起こってから白昼夢のようなかたちで、夢見た、もう一つの現実ではなかったのでないか。
都会のソフィスティケートされた現代アートを収める美術館。いっぽうで田舎の殺伐とした荒廃した土地と社会。田舎のほうを悪夢とみることはできるが――悪夢にふさわしい不条理な暴力が噴出するが――、しかし、都会の美術館とその館長(学芸員主任)の生活のほうこそ、現実と遊離した、夢のような、また夢のようにはかない、あるいは薄っぺらい夢の世界ではないか。
つまりどちらが絨毯の裏か表かわからなくなる、あるいは両方の可能性があるところが、この映画の悪夢的特徴なのだと思ってしまう。この作品をジェンダー化すればバイセクシュアルなのだ。裏と表が反転する。そしていえることは、現実と悪夢との対立が交代するのではなく、どちらも悪夢にしかみえなくなる。不眠症に苦しむ人間が、いつしか現実も悪夢と化し、そしてもとからも悪夢と共存する。これも怖すぎる。