2017年11月28日

『女神のみえざる手』

『女神のみえざる手』というタイトルはどういうつもりでつけたのか推し量るのが不可能だが、原題のMiss Sloanもまた、あまりにそっけなさすぎて、映画のタイトルとして座りが悪いということなのかもしれない。


ただ原題のそっけなさは、しかし、物語の緊迫した展開、テンションの高いドラマ性と好対照で、その落差を狙ったのかもしれない。とにかく一瞬たりとも目が離せない。そして窮地に立たされた主人公に最後の逆転が期待通りにおこる。すべては周到に用意された作戦だったとわかるのだ。


ロビー活動の実際について、なにも知らないのだが、投票率30%(日本の話ではない、合衆国もそうだと知って驚くのだが)の時代に、国会議員は、熱狂的な支持者・支援者を除けば、世論の動向によって議席の確保を考慮する時代において、民主的な議論なり手続きはすでに失効し、メディア操作やロビー活動が政策決定に関与するということだろう。映画では銃規制を強化する法律を阻止しようとする勢力と、規制強化を実現しようとする団体のためにはロビー活動することを選んだ主人公の、一線を越えた、なりふりかまわぬ行動が中盤いや後半にかけての中心で、そこから生まれる激しい反発と抵抗によって、それまで有利に進んでいた銃規制強化運動が頓挫し関心をもたれなくなるまでを描いている。そして最後に起死回生の逆転が起こる。


実は、この映画を見ている時点で、日本では、横綱・日馬富士による貴ノ岩への暴行事件が連日テレビで報道されている。しかし、いつのまにか暴行した側の日馬富士でなく、被害者の貴ノ岩とその師匠である貴乃花親方へを非難する報道がめにつくようになった。貴乃花親方は沈黙を守っていて、声高に聞こえてくるのは相撲協会の意向を代弁するメディアの報道だけで、あとは相撲協会擁護・被害者バッシングの醜い構図だけが残っている。ただ貴ノ岩側からの証言もぼつぼつ出始めていて、それによればほんとうにリンチ事件そのもので身体的なダメージもひどく、とても貴ノ岩の仮病とか重症の疑いなどですまされるような問題でもなくなってきて、ここにきてにわかに相撲協会とそれに結託したメディアの論調がトーンダウンした。


ここまで沈黙を守っている貴乃花親方側からの起死回生の、相撲協会の幹部が総辞職するような大胆証言と証拠という大逆転劇がないものかと、期待してしまうのだが、映画のようにはいかないのかもしれない。そして映画のように、大激震(映画のなかではearthquakeと呼んでいたが)が走るような出来事が起こるとすっきりするのだが、そこまでのことはないまま、うやむやに終わりそうだという予感はする(予感がはずれることを祈りつつ)。


こんなふうに考えると、この映画も、『ノクターナル・アニマル』と同様、妙にリアリティがある。


あとジェシカ・チャスティン、最高。彼女の主演作のなかでは、その魅力がもっとも出ているような気がする。彼女が主演した『ゼロ・ダーク・サーティ』はその力演も特筆すべきなのだが(キャスリン・ビグローのいつもながら力強い演出も忘れてはならないが)、彼女の魅力が十分に出ているとはいいがたいし、それにもしオサマ・ビン・ラディン殺害が映画の通りだとすれば、世界中のテロリストたちに命令できる最高指導者の殺害というよりも、潜伏しているローカルなギャングのアジトあるいは地元民に交じって生きている元ギャングをむりやり殺害したような話で、もしそれが意図的なものだったら痛烈なアメリカ批判にもなるのだが、おそらくそうではないのだから、失敗作ではないとしても、それに近いもののような気がする。


ジェシカ・チャスティンの魅力は、ジェフ・ニコルズ監督の異色作『テイク・シェルター』(2011)で頭のおかしくなる主役の、そして『ノクターナル・アニマルズ』(2016)にも出ていた、マイケル・シャノンの妻役の時に発見した(ちなみに『テイク・シェルター』から5年後のマイケル・シャノンだが、『ノクターナル・アニマルズ』では老けすぎ)。あの映画の彼女には、なにかオーラのようなものが漂っていた。妻役というとオスカー・アイザック(いまや『スターウォーズ』のヒーローだが)と共演した『アメリカの災難』(2014)があるが、彼女の魅力をそれほど出しているとも思えなかった(メイキング・フィルムでは、ジュリアード学院でいっしょに学んだオスカー・アイザックと対談していて、この世代を代表する演技派の二人の話はけっこうおもしろかったが)。


今回の『女神のみえざる手』は、彼女の魅力と演技力に圧倒されるものの、しかし、それは彼女が演ずる人物の個性とかパーソナリティに感銘を受けるのではない。むしろ彼女が演ずるミス・スローンは、やり手のロビイストなのだが、裏や深みがない。彼女がこれほど銃規制強化のうちこむのは、ないか過去の経験とかトラウマがあるように思われるのだが、それは最後まで明らかにされない。つまりいくら不眠症に悩んでいても(つまり彼女にとって眠るのは怖い、たぶん悪夢をみるだろうから)、その真相はあかされることはなく、むしろ彼女は裏も深みもわからない、あるいは、そもそも裏も表もないフラットな人物であり、その仕事ぶりもチャレンジ精神によって引き受けているだけである。くりかえせば、彼女が演ずるところの辣腕ロビイストには、裏がない。書き割りのような人物である。そのため書き割りを立体的に見せる彼女の演技力(実際の演技力と、映画のなかでの演技性のふたつをふくむ)に限りない魅力を感じてしまうのである。


ロビイストの戦略とは、先を読み、先手をうつことである。それが最後に起死回生の逆転劇を生むのだが、どこまで先手をうっているのか、わからないところに、キャラクターや物語の面白さがある。彼女の弱点と思われるもの、彼女の敗北と思われるものも、戦略の一部しかもしれないとしたら、彼女の行動と性格は、底なしである。得体が知れない。その不気味さが魅力になっているのかもしれない。


あるいは彼女は万能の女神ではなく、弱点もあれば失敗もある。すべて用意周到に準備をしているわけでも、あるいは先を読んでいるわけではないだろう(もっとも映画を見終わったあとでは、先を読みすぎているともいえるのだが)。その場、その場で、即興的に作戦を立案し実行する、逆境や敗北を味方につけてさらなる攻撃へと転ずる、その機転、叡智、いさぎよさ、まさに卓越せる演技者としての魅力が、彼女本来の演技者としての能力と相乗効果をあげるとでもいえようか。だが、そこがどこまでかわからない。一線を越えるというのがこの映画のキーワードでもあって、どこまでか計画で、どこまでが臨機応変の策略か、区別がつかなくなっている。


ただ、それにしても、彼女に対して、最終的には好ましい印象を観客がもってしまうというのはどうしてだろう。それは映画術というかシナリオ術における大きな原則を、この映画作品もふまえているからだろう。つまり誤解される人物。この作品の中で彼女には裏がみえない。しかし、フラットな、薄っぺらな人物にも思えないのは、彼女の造型において、誤解される人物という点が観客の共感を呼ぶ。もちろん彼女の正体は最後までわからないのだが、しかし、わかったこともある。周囲は、私たちは、彼女を誤解していたということである。それも私たちの洞察力のなさではなく、彼女が周囲をまきこまないために、あえて真意を示さなかったのだということである。新たなヒロインの誕生である。続篇は作られないだろうが、シリーズ化してもいいような作品である。

posted by ohashi at 19:18| 映画 | 更新情報をチェックする