2017年11月17日

『出てこようとしているトロンプロイユ』

ヨーロッパ企画第36回公演『出てこようとしているトロンプロイユ』を見る。本多劇場での東京公演は終わっているので、1119日までの神奈川芸術劇場の公演を見る。大ホールの公演で、そんな大掛かりの公演かといぶかったが、エスカレーターで上がっていくと、いつもは左手にある受付が、右側にある。今年のKAATの公演『春のめざめ』のときと同じで、大ホールを区切って使うときの受付である。会場は、こじんまりとしていて、どこに座っても舞台がよくみえるようになっている。


ヨーロッパ企画の公演は前からのぞいてみようと思っていたのだが、チャンスがなく、今回、たまたま機会にめぐまれた。評判どおり、めちゃくちゃ面白い。笑いを喚起する工夫にみちていて、客席から笑い声が絶えない。私も自然と笑うことができた。


公演前の舞台については、ホール内に入ると、おどろく。舞台装置がリアルで、第四の壁を想定して、きっちりディテールまでがつくりこまれている。絵画とのアナロジーで言うと、現在の小劇場あるいは中劇場は、抽象絵画が主流である。もちろん俳優が演ずるので抽象絵画というと語弊があるかもしれないが、ただ、時代設定もぼんやりしていて(たとえば漠然と現在の日本とか)、さらに時代も国籍もわからない無国籍で、イメージ喚起力はあっても、ローカルな具体性を示さない演劇世界ということを抽象絵画的といえば、今回の舞台は、舞台のつくりこみという点において具象絵画的であった。老画家が死んだあと、その画家の部屋を訪れた大家と、その店子たち(彼らも画家)が、遺品を整理しているうちに……という物語なのだが、遺品の絵画ひとつひとつが、この作品のために描かれつくられていることに驚く。もちろん、その遺品の絵画がひとつひとつに意味が出てくるのだが。それにしても、台本のつくりこみはふつうのことだとしても、こうしたプロップへのつくりこみまでなされていることは特筆すべきことだろう。


ただ内容はSF的というよりも形而上的コントである。コントの部分は、おもしろすぎる。喜劇の部分は、もう完成の域にきていえ、笑いのツボなどをすべて心得ていて、こんなにもスムーズに笑いを引き出す演劇術に驚きあきれるほかはない。そしてメタフィジカルな部分も、説得力がある。もちろんこれはオブジェクト・レベルとメタレベルの話を、だまし絵とからめていて、二次元のものが三次元であるかのようにみせるのが「だまし絵」であり、また一瞬、本物かと思うと、実は二次元の絵であったとわかるところにだまし絵の真骨頂があるとすれば、そもそも「でてこようとしている」というのが、あるいは「でた」と思ったら「でていなかった」というのは「だまし絵」の基本条件だといってよく、そこから生ずるドタバタが劇の中心となっていく。


つまりこのSF的、形而上的設定が、笑いをアフォードする。つまり、この設定にひそむ笑いの可能性を徹底して顕在化することで喜劇が成立しているといえようか。形而上的設定は、あるいはタイムマシンのようなSF的設定と喜劇性は、相補的である。もしその設定をつきつめれば喜劇あるいはスラップスティックしかなくなることで、逆に状況の意味を顕在することにもなる。


とはいえ、これについて説明すればするほど、めんどくさくなってわからなくなると思うでの、原作は刊行され、舞台のDVDもいずれ発売されると思うので、それを読んだり見ていただくか、まだ続いている全国公演(KAATでの公演も19日まである)をみていただくほかはないが、面倒くさい、メタシアター的状況を、見ている者が、きちんと説明できるまでになるのは、作品の構築がすぐれているからであろう。


見る者は、誰かに見られている。その見ている者も、また上位の誰かに見られている……。となるとこの無限後退あるいは無限上昇、まさに「無間地獄」ともいえるような状況は、どこで終わるのか、結局、終わりがないのかという問題を、時間を逆行させて同じ登場人物をつかって世界を作り変えるという展開は、個人的なことで恐縮だが、メタ的なもの(メタシアター、メタドラマ)から出発して、アダプテーションに興味をもつようになる私の知的関心の軌跡と一致していて、個人的には感銘を受けた。

posted by ohashi at 10:04| 演劇 | 更新情報をチェックする