2017年11月01日

『ブレードランナー2047』

大学院の授業では、授業の内容によるところ多いのだが、参加している院生が、幅広い分野の文学作品に言及してくれる――それはそれで毎回貴重な情報が得られて私にとってもは刺激的な経験なのだが、問題は、あの作品は、そんな話だったのかとか、そんなエピソードがあったのか、そんな描写がなされていたのか、と、我ながら自分の記憶喪失に驚かざるをえないことだ。読んだことのある作品でも、いまやまったく覚えていない。読んだことのある作品と、読んだことのない作品との区別がなくなっている。忘れてしまっては、すべてが新作同然である。だから新鮮な気持ちで院生の発言を聞くと同時に、心の中で記憶喪失を嘆いている。


たぶん、これはイギリスやアメリカのどこでも売られているお土産か絵葉書みたいなものだと思うのだが、オックスフォードのボドリー図書館の売店で昔見かけた絵葉書に、若い頃からいっしょうけんめい勉強して、たくさんの本を読んで、そして歳をとると、すべて忘れてしまって、結局、なんのために勉強したのかわからなくなるという皮肉なメッセージが書かれたものがあった。まあ、面白いなと思いつつも、とりわけ切実に感じなかったのだが、いまや、それが本当に切実なものとなった。このまますべて忘れて無に回帰するのだろか。


ライアン・ゴズリング扮する新型のブレードランナーが、元ブレード・ランナーのデッカード(ハリソン・フォード)に、いっしょにいたの彼女の名前はと質問するところがある。デッカードはなかなか答えようとしないのだが、ライアン・ゴズリングは執拗に問いただす。そのやりとりをみていた私には、なんの苦も無く「レイチェル」という名前が浮かんできた。この映画をみるために、予習あるいは復習をしてきたわけではない。ただ自然と名前が浮かんできた。昔、みた映画の記憶がきちんと残っている。もちろんこれは昔の覚えたことは記憶に残っていて新しく覚えたことが記憶から抜け落ちるといよくあるパタンかもしれないが、映画をはじめてみた頃に読んだ本の内容はほとんど忘れているので、とにかく記憶していたのはうれしい。


『ブレードランナー』を初めて見た時の衝撃についpあれこれ語れば、ただの昔話になってしまうので、あまり興奮せずに語れば、このSF映画はフィリップ・K・ディックの原作の、まあ忠実な映画化というよりも翻案に近いもので、むしろそれがよくて、映画作品として成功しているのではないかと思う。たとえば近未来SFものかもしれない映画『ザ・ロード』を、コーマック・マッカーシーの原作を読まずに、見たのだが、ピューリッツァ賞をとるほどの原作なのかと、いぶかった。原作の言語表現に匹敵するものが映画にはなく、ナレーションだけでは原作のもつ陰鬱な迫力に及ぶべくもなく、ただ地味な映画というにとどまったように思う。それにくらべると『ブレードランナー』はディックの原作に対する忠実度は低く、そのぶん、思う存分、独自の美的世界を構築できていたように思う。


では『ブレードランナー』と、その続編『ブレードランナー2047』のちがいはといえば、前作にあった近未来の世界の密度感のようなものが今回はなくなって、荒廃と荒涼感にみちあふれていることか。もちろん続編で監督がちがうとはいえ、続編であることの基本は、長い物語の後半であるということではなく、前篇と同じフォーマットを使っているということだ。冒頭でレプリカントを殺害するとか。前篇でもブレードランナーがレプリカントを恋人にしているのに対して、後篇でもブレードランナーがダッチワイフ型ホログラフを恋人にしていることか。また前篇ではレイチェルだけではなく、デッカードもレプリカントではないかという可能性が取りざたされたのだが、後篇では最初からブレードランナーは新型レプリカントという設定になっている。


と同時に後篇では前編にあった人工性は極限まで拡大して、どこまでが自然で、どこまでが人工なのかわからなくなっている。さらにいえばすべてが人工物であり、またその人工物は生ける存在ではなく廃墟でしかなくなっている。自然ではなく、人工性の廃墟は、もはや再生を望めない。そのため孤独感、荒涼感がつのるような、そうした世界が出現する。最後の場面など、外に残るライアン・ゴズリングの周囲には誰もいない。もはや癒しがたい死の世界が広がっている。それが猥雑で耽美的な密度感のある前作のシティ・スケープとは異なり、静謐な死の世界を展開させる後半の特徴でもあるのだろう。


2時間40分以上という、最近では珍しい長編映画だったが、間延びした感じはなく、長さを感じなかったのは、不思議な気がする。よくできているのか、映像の脅威に最後まで魅惑されていたのか。とはいえ内容的には2時間でも十分に収まったと思う。いくら3時間あっというまとはいえ、映画館に3時間拘束されるという事実に対する抵抗が、映画館への足を鈍らせるのだとしたら残念ではあるが。


あと言及される文学作品がナボコフの『青い炎』とスティーヴンソンの『宝島』というのは、あまりに極端な取り合せで引いてしまうが、またそこのところコンセプトはどうなのかということも心配になるが、ナボコフ作品は、映画と関係していくところがあるかもしれない。それについてはまた考えたい。

posted by ohashi at 10:15| 映画 | 更新情報をチェックする