2017年09月17日

『三人目の殺人』2

ポスト・トゥルースの時代


結局、鈴木砂羽、土下座強要事件は、うやむやになったまま終わったようだが、最初から、うやむやな事件だった。こういう芸能記事は、芸能プロとか事務所の思惑が入り、宣伝売名行為と脚の引っ張り合いとかからまりあってまともに扱うとバカをみるのだが、同時にまた、今回の事件は、私の立場でもあるのだが、小さすぎる事件(小劇場における小劇団の小規模公演)のわりに大事件なみに扱われたので、ニュースにするほうも、実のところ、失敗したと後悔しているのではないかと思う。帝国劇場での1か月半の公演で、出演予定の女優2名が二日前に降板といっても、病気か怪我ならニュースにもならないのだが、土下座供与ならかろうじてニュースになるかどうかというところだろう。


その後の展開もひどいものだった。そもそも降板した女優は、公演に損害を与えることになったので、訴えられてもしかたがない(訴えが通るかどうかはべつにして)。ところがこれを察知したのか事務所の側の社長のほうが、意味不明の強気に出て、劇団や演出家を批判、公演をやめさせるようにとメディアに顔を出して言いはじめる。土下座させられることはひどいとしても、それで降板するのは女優側、事務所側の無責任姿勢が問われてもしかたがない。損害賠償の義務は事務所側にある。土下座強要は暴力的だが暴力をふるっているわけではない。土下座の姿をネットに流したわけでもない。


いっぽう舞台稽古とか演劇界では、演出が土下座のようなことを強いるのは当たり前で問題にならないという問題発言もあって唖然とした。なかには演出家と役者の関係は社長と社員の関係と同じだから社員は絶対服従だというバカなことをいう演出家もいて、なるほど、演劇界は、そんな閉鎖的な社会だから、バカが多いのかとも納得した次第だが、現実問題として社長が社員に土下座させたらパワハラ問題となり訴えられたら社長が不利であり、そんな会社はブラック企業以下との評判も免れない。また演劇界でも演出家が厳しく指導するのはいいとしても、いまは、パワハラになるような指導が容認される時代ではないし、時代のせいだけでなく、人間的にも、相手の人格をおとしめるような非人道的な処置は絶対にあってはならない。大学で学生が不正行為をはたらいたからといって、学生たちの前でその学生を土下座させて謝らせたら、最終的には教員のほうが訴えられるだろう。


あと社長と社員というバカ比喩を持ち出した演出家に問いたい。若くて気鋭の演出家であっても、有名俳優とか大御所俳優がいたら、その俳優に土下座させることができるのか。演出家と俳優との関係を、社長と社員という関係になぞらえるのは、現実の企業文化を考慮すればまちがっているし、演劇界の現実でもないのだ。


もちろん最大の問題は、土下座させたか、させなかったかということである。女優二人が二回目の通し稽古に出なかったということだが、欠席することは劇団に通告済みであったにもかかわらず、演出家の耳に達してなかったので、激怒した演出家が、欠席した二人の女優に、土下座させたということだとしたら、そもそも、欠席を通告していた二人は、土下座すること時代おかしい。連絡が通ってなかったとしても、誤解を正すべきであって、いくら演出家が激高していたとしても、そこは誤ってい行けない。警察の拷問的取り調べによって自白を強要されるのと同じように、演出家から、土下座を強要されたというのだろうか。そうでもしないと演出家の気が収まらなくて、土下座に至ったのか。


いっぽうで演出家の側は、土下座を強要していないと明言している。これは二人の女優が完全に虚偽の発言をしているのか、あるいは、その場の雰囲気で、自分もしくは自分たちが悪いわけではないだが、とにかくその場をおさめるためい、言われもしないのだが、自発的に土下座をして謝ったということだろうか。この場合、土下座を、強要されたわけではないが、間接的に強要されたのも同じで、また演出家は土下座を止めなかったとしたら、強要とみなされてもしかたながないということになろう。となれば演出家が、土下座を強要していないというのは真実かもしれないし、土下座を強要されたという二人の女優の証言も真実かもしれない。


ただしどちらも真実を語っているというもの真実なら、どちらも虚偽を語っているというのも真実だろう。この場合、真実がどうであるかは、両者ともに知っている。どちらかが真実を語り、どちらかが虚偽を語っているということに、本来なら、なってしかるべきなのに、そうはならない。どちらも真実であると自分をあざむいているわけでないだろう。


真相に近いのは、どちらも虚偽だと、つまり自分に有利なように印象操作するために、虚偽と承知しながら、あるいは虚偽と確定的に批判されないような虚偽を語っているとはいえないだろうか。ここで思い出されるのは、結局、法廷戦術ということを優先して、虚偽でも、あるいは虚偽に限りなく近い発言しかしないという、『三度目の殺人』における証言なのである。


『三度目の殺人』について、そういう頭のおかしな、あるいは悪魔的な犯罪者がいるということではないと思う。あるいは、どんなに真実を語っても、最初から結論ありきの裁判過程で真実は重んじられることはなく、すべてがあらかじめ決定されているという裁判批判でもないだろう(いや、裁判批判的要素はまちがいなくあるが)。重要なのは、『三度目の殺人』の世界は、発言がすべて法廷戦術と印象操作という観点から決定されているということである。この世界にはすでに名前がついているポスト・トゥルースの世界と。


『三度目の殺人』は、繰り返すが、また前回の記事ではなにも触れていないが、このポストトゥルースPosttruthの世界の現実を世界に先駆けてとはいいすぎかもしれないが、先駆けてといっていいほど、物語化・映像化しているのである。このポスト・トゥルースの世界では、人間の発言は、真実に対する責任をもたなくいいというより、なんらかの戦術によって操作されることになるのだが、一貫性だの自己同一性は存在しなくなる。いかようにでも発言を盛り込まれるまさに「器」なのである。ポスト・トゥルースの世界における人間は、戦術的に合致したものが真実として認定され、ほんとうの真実は虚偽でしかなくなる。真実として通用する虚偽と、虚偽としかみなされない真実。ポスト・トゥルース時代における人間は、こうして真実とは無縁のロボット化した人間あるいは、いかようにでも操作される心変わりする悪魔でしかなくなる。そう思うと、この映画は、確実に、私たちのリアルに近づきつつあることがわかる。

posted by ohashi at 22:38| 映画 | 更新情報をチェックする