前川知大と黒沢清とのコラボとなると、ふたつのことが予想される。相乗効果か、相殺されるか。結果としては、どちらも、よいところがでていたのではないかと思う。強いて言えば、前川ファンからすれば物足りないところもあるかもしれないが、黒沢ファンからすれば、よい題材を得て黒沢ワールド全開という面もある。
結論から先にいえば愛が地球を救ったということか。圧倒的な強さの宇宙人/侵略者のまえに消滅するしかなかいと思われた地球だが、侵略と破壊が途中で突然止んで人類は救われる。これはHGウェルズの『宇宙戦争』(原題は『(両)世界戦争』)と同じパタンでしょう。つまり圧倒的な強さの火星人侵略者たちも、地球にある病原菌に対して免疫がなく、地球征服直前に死んでしまい、地球はからくも救われたということ。このアナロジーから考えれば、宇宙人の侵略が途中で止まったのは地球に蔓延している、また地球人には免疫があるが、宇宙人には毒かもしれない、愛という名の病のせいである。
この愛というのは、困ったもので、宇宙人のガイド役をやらされている長谷川博己も、最後には侵略する宇宙人のほうを応援して自らを捧げるのである。密着取材、あるいはガイドとはいっているが、人質、捕囚でもあり、この長谷川の行動は、自分を束縛・監禁する者を愛してしまうというストックホルム症候群と同じである。実際、ネット上でも宇宙人のほうを応援してしまうという声もあり、地球にいかに愛という病が蔓延しているかがわかろうというものだ。
宇宙人は、地球人から概念を奪う。地球人のことを知るためにというのはわからないわけではないが、ただ、フィクションをまじめにとりすぎるのはおかしいとはいえ、概念は基本は言語であり、言語は二項対立から成る。実際、宇宙人が奪う概念の多くは二項対立からなっている。他人の家と自分の家とか。家族と家族ではないものとか。もし宇宙人がこうした二項対立を理解できないというのなら、まず言語をもっていないことであり、言語を持たない人間が、よその星まで行ける高度な文明を持てるはずがないし、また二項対立を知らない宇宙人が、侵略などするはずがない。侵略は二項対立の概念なくしてはありえないからだ。
この点は問わないことにして、不思議なのは概念を奪われた人間が廃人になることである。まあ、これもわからないわけではない。概念ひとつとはいえ、それはシステム化して他の概念と繋がっている。だから、たとえば体から肝臓ひとつ抜いただけでも、その人物は死んでしまうのと同じということもできる。しかし映画の場合、そうではないようだ。概念を抜かれる人間は、廃人になるのではなく、その時思わず涙を流す。痛いとか苦しいとかではなく、不意の涙である。となるとこの涙とは何か。
児島一哉扮する刑事が「自分」という概念を抜かれてしまうところがある。彼の場合、その自分とは、自己嫌悪と絶望の対象である。自分のこと、自分のふがいなさが嫌でたまらない。そのため「自分」という概念が抜き取られてしまうと、ある意味、このトラウマのような自分から解放され自由になれるのである。概念を抜かれた人間たちは、立っていられなくなって廃人化するかにみえて、同時に、自由にふるまうようになる。むしろ解放され自由にふるまうようになり、これが逆にウィルスにおかされた病人扱いされる原因ともなる。概念が抜かれたあとの涙は束縛から解放されたときの喜びとまではいかなくとも、解放感の涙だった可能性がある。
もしそうなら、概念を抜かれたときに立っていられなくなるというのも、脳から重要な部分が奪われたときのショック症状ともいえるのだが、同時にそれは、人間を直立歩行させるのが概念であること。トラウマでもコンプレックスでも、理念や理想でも、義務や責任感でも、良心や正義感、とにかくなんでもいいのだが、そうしたものが人間を直立歩行させる。
それがなくなってしまうと直立歩行ができなくなる。身体のコントロールがきかなくなった状態から、体を動かせなくなる状態か、もしくは体が動きすぎる状態(子どものような遊戯的行為に、あるいは無軌道な行為に)が出現するのだが、ただ、いえるのは、それが解放された人間の姿なのである。概念は人間を直立方向させ、ひとかどの社会人にするのだが、同時にそれは人間を束縛する装置でもあった。
これに対して、概念ではなく、愛を奪われた人間はどうなるのか。概念を奪われると立っていられなくなる。しかし愛を奪われても概念という鎧が残っている以上、直立歩行はできる。しかし、そのとき、概念を束縛と感ずる愛が奪われてしまうので、無軌道な身体と精神が消えてしまい、ロボットのような、もっと正確にいえば、鎧で身動きできず、動きをとめたロボットのようになる。概念を奪われると人間は、動物化して、暴れたり自由に動き回ることができるようになる。愛を奪われると、人間は、機械化して、廃人化する。
ということなのだろうか。何を言っているのかと不思議に思った方は映画を観てほしい。ただし、ここでは手段ではなく目的を語っている。目的の部分、あるいは理屈の部分は、前川知大の原案だから、実は、しっかりしているのだが、ただ、舞台でも、映画でも、重要なのは主題を提示するという目的の部分ではなく、主題がいかに提示されるかという手段ものほうがそれ以上に重要だろう。それについては、何も語っていない。
ただ、こうは言えるだろう。全体でよくわからないが、途中の物語のプロセスと提示法は、とても面白いというのが、誰もが抱く偽らざる感想にちがいない。だから、そちらのほうに力点を置くべきだが、とりあえずの一報として、作品の「概念」について考えてみた。