後味の悪い映画というジャンル(?)についてネット上で調べてみらたら『ミスト』というのが、たいていベスト10に入っていて、ちょっと驚いている。あれは、そんなに後味が悪いのか。もしそうなら、バッドエンディングの映画は全部、後味の悪い映画ということになるのだが、どうなのだろう。まあ、これで助かったと思ったら、実は助かっていなかったという結末は、よくあるし、それはジャンルとして確立している。そういう映画を嫌うというのはかまわないが、嫌いな映画=後味悪い鬱映画というのとは違うと思うのだが。また、もしこういうことを認めてしまうと、『ロミオとジュリエット』など、後味悪い演劇に分類されかねない。実際のところ、喜劇的なハッピーエンディングを予想させる結末にもかかわらず悲劇で終わるだから。
で、この『ザ・ウォール』、後味悪い映画かもしれない。助かったと思ったら、助からなかったというパタンなのだから。しかし、途中から、どうもそうなりそうだという予感させるのは、あまり好ましくない。
イラクの砂漠の廃墟。崩れかかった小学校の校舎の壁が舞台装置。この地で敵を待ち伏せていた米国の狙撃兵のペアが、待ちくたびれて姿をあらわすと、姿なき狙撃兵から銃撃を受ける。一人は重傷で倒れて動かない。もう一人は負傷しながらも壁の後ろ隠れる。しかもイラクの狙撃兵は無線で話しかけてくる。となると、ここから二人芝居、正確にいえば、敵は姿見せないので独り芝居となる。私の好きな演劇的設定の映画となる。しかも砂漠で、見えない敵と対峙するというのは、不条理感マックス。まるで不条理演劇を眺めてみるような興奮を味わうことになる。
しかも、ひりひりするような緊張感のなかで見えない敵との対話がすすむかと思うと、一刻も目を離せない、一瞬たりとも聞き漏らしてはいけないとわかっていても、眠気に誘われてしまうのは、いったいどうしてか。
それはアーロン・テイラー=ジョンソン扮する三等軍曹は、ジョン・セナ扮する二等軍曹が負傷したあと、一人で敵と対峙するのだが、狙撃兵としての腕前や、頭の良さ、狡猾さという点に関して、どうみても敵のほうが上であって、勝ち目はないように思われるからだ。
基本的に不条理演劇的であると同時に、戦争物としては王道の敵中突破物でもある。圧倒的に優位にある敵の手からいかにして逃れるか。アーロン・テイラー=ジョンソンは、この映画のなかでは、どうみてもあんまり頭がよさそうではなく、すでに負傷していて、動きも鈍いし、頭の血のめぐりも悪くなっている。彼が無い知恵を絞って、最後に敵の裏をかいて窮地を脱することを期待したいが、その望みは薄いのだ。だから敵との無線でのやりとりも、緊張感というよりも動きを欠いた展開が停滞した物語、要は、退屈になってくるのだ。
決定的瞬間と思われるときが2回くる。敵との距離は1500メートル。重傷を負って倒れている味方の狙撃兵(ジョン・セナ)との距離は数メートル。遠くの敵とは無線で交信しているが、1500m離れているので数メートル先に倒れている味方に大声で話しかけても、敵には聞こえない。この設定は、面白い。だが、これもお約束かもしれないのだが、無線のスイッチを切り忘れため、ジョン・セナに大声で指示を与えていることを敵に聞かれてしまう。あとひとつは、救出のヘリが近づいてくるので、アーロン・テイラー=ジョンソンは、最後に、見えない敵に対して全身をさらす。撃てるものなら撃ってみろと。そうして敵の位置を救出にくる味方に知らせようとする。だが敵は撃ってこなかった。
映画が終わった後、あんな敵がいるだろうか。だいたい昼も夜も補給もなしに、一人で身を潜めている狙撃兵というのはいるわけがない。おかしいだろうと、つっこみをいれようと思うと、そのとき、いくら映画の三等軍曹よりも頭の回転の悪い私にも、ふと、ひらめくものがある。ああ、そうだったのか、と。なにがそうだったのかは、映画で確かめてほしい。
後味の悪い終わり方なので、アメリカでの一般的評価では、反米的だというようなものが多い。だが、それはある意味あたっていると思う。つまり、結局、敵の手の中で踊らされていたという絶望的状況は、戦場での敵ではなく、アメリカ人によって、絶望的な戦いへと追いやられていくアメリカ人庶民の苦悩とシンクロしているように思われる。敵は、敵ではなく、兵士を死へと追いやる味方なのである。その意味で反米映画である。そしてまたこの戦争装置は、ひとつのメカニズムあるいはシステム化して、アリジゴクのようにつぎつぎと犠牲者を呑み込んでいく。もはやこうなると、敵は無敵である。この場合、敵というのは戦争システムである。この意味がこれは戦争の恐怖とむなしさを描く反戦映画である。