2017年09月05日

『エルElle』

昨年11月に放送され、最近も再放送されたNHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』のハイライトは、なんといっても、宮崎駿監督が、ドワンゴの川上量生会長が持ち込んだCGを「生命に対する侮辱」と一喝する場面である。


「スタジオ・ジブリ」のチームがCGで短編映画を制作するのだが、宮崎監督が思うような映像を作ることができず苦悩しているとき、ドワンゴ会長の川上量生が、自社のCG技術のプレゼンに訪れる。それはAIが作り出す、人体が頭を足のように使って移動するといったグロテスクな画像などからなっていた。これをみせられた宮崎監督が、「生命に対する侮辱」であると言ってのける。


これをみていて、よくぞ言ってのけたと宮崎監督を尊敬すらした。この場合、自分だったら、たとえ不快に思っても、「面白い画像だけれども、私の趣味じゃない」くらいにぼかして言うしかなくて、ここまではっきり言ってのける勇気はない。だが、そうした勇気を持つべきだとあらためて思い知った。


もちろん、いくつか考慮すべき側面はある。ドワンゴの川上会長は、もともとジブリ・スタジオにいた人間で監督とは旧知の仲だろう。だからこそ厳しく叱責できたとも言える。最近のはやりでいうと、そこには宮崎監督の「愛」があったのかもしれない。また川上会長としては、宮崎監督のこれまでのアニメには、それこそ道徳的一線を越えても、なんらかの対象の、面白い、異様な、ときにはグロテスクな動きを探求する姿勢があった。そのことを知っているからこそ、あえてAIによる不快な印象をあたえかねない映像も、監督なら理解してくれるかもしれないという思いがあったかもしれない。ただ宮崎監督は歳をとっている。昔のような、道徳的一線を越えてまでなにかを追及する情熱は失せているし、そうすることの無意味さも痛感しているはずだ。一線超えることを美徳とするような姿勢が、無意味なもの不愉快なものにみえてくる。


そしてもうひとつの要因としてカメラが回っていることだろう。カメラにとられていると、どうしても誰もが演技が入る。そしてそのときかっこいい自分というのが意識下にはぐくまれる。そのため、こういう密着取材の場合、指導したり教えたりする立場にいる人間は、たとえば映画監督とか演出家、教員とか、経営者などは、たぶん、ふだんとはちがって、必要以上にスタッフとか同僚に、そして学生などに厳しくあたる。


以前、テレビなどで評論家として活躍していて大学教授でもある元官僚でもある人物の大学院で授業風景が映し出されたことがあるが、有名大学の大学院の授業である。いくらできの悪い院生とはいえ、その大学の大学院生が、そんなにひどい発表をするわけはない。ところがびっくりするくらい厳しく叱責しているのである。あんなことをしたらパワハラ、アカハラで訴えられてもしかたないと思われるほどに。ふだんからそうではないと思う。カメラの前でついつい厳しい、自分を演出したということだろう。私はそう信じているが。


宮崎監督の場合、スタッフに厳しくあたるということはないし、むしろ厳しく当たっているのは自分自身に対してなのだが、このドワンゴ会長に対しても自己演出かもしれないが、それがうまくいっている。つまり、過度な嘘っぽい厳しさではなく、よくぞ言ったと共感を呼ぶ厳しさでもあるからだ。


このことをあらためて思い出したのは、最近の再放送ということもあるが、なんであれゲーム会社の社長やスタッフは、結局、変態だということを、あらめて思い知ったからである。ポール・ヴァーホーヴェン監督の新作『エルElle』をみて。


イザベル・ユベール主演のヴァーホーヴェン監督の新作だが、『ブラックブック』でイスラエル擁護の映画を撮って、それまでのアクの強い女性の生き方を描く流れからやや後退した、もしくは回帰の途上にあった(もちろんその前の『インヴィジブル』では、女性映画ですらなかった)、これでまた本流に復帰した観がある。あらゆる映画に顔を出しているイザベラ・ユベールも、この映画でははまり役というか、こういう役がとても似合っている。


昔、ドゥルーズのマゾヒズム論を熱心に読んだことがある。ザッヘル・マゾッホの『毛皮のヴィーナス』の読解なのだが、ドゥルーズによれば、マゾヒストは、自分が犠牲になる状況なり物語を、自己演出する。自分で自分を卑しめる儀礼を仕切るのである。そのためサディズムとマゾヒズムの境界があいまいになるというより、マゾヒズムは、そのままサディズムでもあるということになる。


ここでもレイプされる主人公が警察に訴えたりしないのも、レイプ願望を抱いているからではなく、レイプをみずから演出しているからである。しかもこのレイプ犯の正体がわかっても、実は謎であって、犯人は、たしかに戸締りをしたはずで、彼女のほうが先に帰宅しているにもかかわらず、すでに待ち伏せしている。敵は戸口の外ではなく中にいる。そしてそれは彼女自身のなかに潜んでいるかもしれない。つまりレイプ犯は、彼女の無意識の願望かもしれないし、すべて妄想かもしれないという暗示は最後まで残る。


あるいは彼女がゲーム会社の社長であるということも関係する。どうみても気色が悪いというかグロテスクなゲーム作成作業に若い社員やプログラマーがあたっていて、彼女は、彼らをある時は叱咤激励し、あるときは徹底的に非難し憎悪の標的となりながらも、ゲームのプログラムの完成をめざすのだが、そのグロテスクなゲームの世界は、彼女が生きる現実の世界とシンクロする。そしてロール・プレイのゲーム・プレーヤーさながら、彼女は、プレイヤーとして、集団幻想が要求する人物になりきることを楽しんでいるようにみえる。人生というグロテスクなゲームのなかで、彼女は、マゾヒストたる自分を演出するサディストなのである。


と、まあこういう映画だと考えた。逆にいうと、謎とサスペンスによって(たとえばレイプ犯は誰かというような)、映画を緊迫感にみちたものにする、そうした努力とか工夫がみられると思ったのだが、それはなかった。むしろ女性の一代記。あるいは女性の自立の物語であり、イザベル・ユベールの実年齢は、というか私と同い歳なのだが、映画の設定はそこまで高齢であるという設定ではないようだが、しかし、彼女は、彼女の人生を支配してきた父親と母親が死んで、とはいえ自身もすでに母親なのだが、はじめて自立できたようなところがある。


遅咲きの自立? だが、そうなのだが。女性がひそかにいだくレイプ願望というところに着目して、フェミニストよ、ざまみろというような反フェミニズム言説に嬉々としてふけるような愚か者は、つごうのよいところ、自分のみたいところしかみていない。この映画での彼女の自立とは、女性どおしの実生活と性生活を獲得することにある。おそらくそれはレズビアンの讃歌といよりも、男を必要としない、まさに女性どおしの共同体あるいは連帯をとおしての女性の自立ということであろう。そう思ってみると、とても面白い映画なのだが、スタイリッシュなサスペンス映画と思ってみると落胆するかもしれない。とはいえヴァーホーヴェンの悪趣味映画と思ってみると、期待は裏切らないだろう。

posted by ohashi at 09:14| 映画 | 更新情報をチェックする