ジョージ。オーウェルがどこかで書いていたと思うのだが、イギリス人がいかに変わり者かは、ダンケルクの戦いのような負け戦でも、まるで戦勝記念日のように祝っていることからもわかると。実際、この映画でも故郷に帰還した兵士たちが、住民から唾を吐きかけられるのではないかとおびえていると、まるで凱旋したかのような大歓迎を受けて驚くところがある。過酷な状況から命からがら逃げかえった兵士たちをねぎらうというのなら、わかる。まあ最近の右傾化した日本でなら絶対にありえないことだろうが。しかし、そうではなく、あくまでも大歓迎なのだ。
実際、このダンケルクから撤退には、なにか解せないところがある。敗北を勝利へと変えるチャーチルの糞レトリック。民間から救助のための漁船などが多数海峡を渡ったというのは美談かもしれない(実際、この民間人の努力は顕彰ものである)が、しかし、裏を返せば軍が本格的な援助をしないという異常事態にもなっている。本土決戦という名目のために軍事力を出し渋っている。日本の場合も戦争末期では本土決戦という名目のため最新兵器を精鋭部隊を温存し、クズ連中を特攻に追いやっていた(『海辺の生と死』をみてもわかるように、たとえば大学生でも理系学生は温存され、文系学生はクズ扱いになり学徒動員によて特攻まで課せられたのだ)。軍のこうした謀略と欺瞞性は告発されていないようだ。また実際のところダンケルクを占領したドイツ軍は、ヨーロッパでの終戦記念日たる45年5月8日以降も抵抗し、終戦後に、降伏したのである(つまり戦時中は陥落していなかっただ)。
ダンケルクの戦いには、なにかが腐っている。真実が侵食され、何かに乗っ取られている。多くの犠牲者を出し、また多くの救出者も出した歴史的大事件のリアルが、どこか奪われているのである。
監督が影響を受けていなかったと思うのだが、かつて大スペクタクル映画『史上最大の作戦』(日本語タイトル)のあと造られた戦争映画のひとつに『バルジの戦い』という映画がある。負けいくさを映画化したものとしては『遠すぎた橋』(バルジ戦の前のマーケット・ガーデン作戦を描く)があるが、この3作のなかで、『バルジ大作戦』(ケン・アナキン監督、同監督は『史上最大の…』でも共同監督の一人だった)だけが負けそうになって最後に勝つという点で『ダンケルク』に近いところもあるのだが、とにかくこの映画、興業成績とは関係なく大作映画というよりもB級映画感が否めなかった。原因は、その演出にあった。それは映画そのものが最後に字幕でことわっているのだが、この大規模な広範囲にわたる戦闘を描く際に、特定の人物に多くの人物の実際の行動を集約して描いたのである。そのため、本来なら大規模な群像劇となるところ、こじんまりとした映画に終わってしまった。
特定の個人や小集団に焦点を合わせる場合、周辺的地位に追いやられた彼らを通して大規模で全体像が見えない戦いの臨場感を出すというのならわかるが、特定の個人なり集団が常に戦闘の中心にいることになったため大戦闘というよりも小戦闘になって、規模としてはノルマンディー上陸作戦よりはるかに大きな規模の戦いが、ノルマンディー作戦よりも小規模なものとなった。
バルジ作戦というのは、第二次世界大戦末期1944年12月から45年1月にかけて、ドイツ軍が多数の戦車を擁する軍団でもって、フランス、ベルギーに進駐してきた連合軍を蹴散らし、「第二のダンケルク」(!)にしようと試みた作戦。「バルジ」というのは膨らみとか突出という英語で、バルジ作戦は、戦線から大きく突出するドイツ軍という意味で連合軍側がつけた名前。
当時、テレビで観た予告編では、多数の戦車がこれでもかというくらいに登場し戦場を動きまわる迫力のある映画と思われたが、映画そのものは、その予告編を超えるものではなかった。たとえばドイツ軍の欺瞞作戦によって蹴散らされた一台の戦車が、戦車兵の努力で戦車を修復し、一台で敵に立ち向かい、最後にはドイツ軍の補給所を急襲して占拠、補給にくるドイツ軍を次々と撃破するというのは、画面は派手だけれども、ただ一台の戦車で、ドイツ全軍を撃破・降伏させるような安物感が否めないのである。
個人や小集団を大規模な戦闘とからませるとき二つの方法が考えられる。メトニミー的方法とメタファー的方法。この個人や小集団が、大きな、全体像が見えない戦場を右往左往するとき、そこにドキュメンタリー的な臨場感が生まれる。司令官とか指揮官に焦点を当てる方法は、全体像はつかみやすいが、指導者からの上から目線だけでは、事件のリアルはつかみきれない。
それにくらべ一部、それも全体を象徴しない一部の目線が、リアル感を醸成する。また逆に『バルジ大作戦』のように、少数の個人に全体行動を集約・象徴化させても、観る側は、それを全体のメタファーとみるのではなく、メトニミーとしてみるから、皮肉なことに、メタファー的集約が機能せず、小規模な戦いになってしまう。
ノーラン監督の『ダンケルク』は、少数に全体を代表させるという方法をとりながら、そこに全体的な視点を付与することのない、メト二ミカルな右往左往性を付与したために、小規模性は、完全には払拭できないとしても、みんなが右往左往しているという、もはや終わりなき苦難と化した茫漠性が生まれることになった。
砂浜も、海も、空も、そこに人間を包み込む安らぎを与えることのなない、広すぎる、大きすぎるというイメージ。そこに実物主義にこだわる監督の、大掛かりな撮影方法が、さらにスケールの大きさを維持するように働くということができる。
だが、少人数に、あるいは一部に全体を集約させるというメタファー的操作は、今回、正直言って驚愕するほどの大胆な構成をとって出現することになった。その衝撃の大きさは、最初は、へんな違和感として生まれ、最後には、驚きをともった感得されることになったのだが、つまり、時間的にもこのメタファー操作が行われたのである。
おそらくこのことを強調しすぎると、敷居の高い映画と思われ、下手をすると客足が減るかもしれないと映画会社が考えたかどうかわからないが、とにかくこの点は驚いた。つまり最初に海岸というか埠頭に集まってイギリス本土への移送を待つ兵士たちの群れがいる。このとき埠頭だったか海岸だったかわすれたが、その字幕と、すぐ下に一週間(one week)とでる。これがなんだかよくわからない。つまり一週間前の出来事かと思うと、そうではなく、海岸の物語は一週間ということだとわかる。
つぎにイギリス本土から民間人が漁船を出して助けていくとき、父親と息子二人の家族の物語が語られる。これがたしか一日とでる。
またさらにスピットファイアー(スピットファイアーはすごくスマートな戦闘機なのだけれども、この映画に出てくる機体は、場面によって太っているようにみえるところがある。まあ、どうでもいいことかもしれないが)三機がドイツ機と渡り合うとき1時間とでる。その燃料で飛べる時間の限界なのだろう。問題は、この映画、陸と海と空の三つの視点から戦いが語られるという謳い文句だったが、1週間と1日と1時間が、106分の時間のなかで、均等に積層化されるのである。
戦闘機は映画の最初から最後まで飛んでいる。海の場面で民間の船が助ける英国軍士官は、ダンケルクから英国本土に一度は到着したはずではなかったか。キリアン・マーフィー扮する士官は、『ハイドリヒを撃て』の落下傘兵とは比べものにならない臆病者(悪く言いすぎればだが、彼の役どころは戦争後遺症から抜け出せない病人)になっているのだが、その存在も不思議で、陸の物語から、どこで海の物語に入り込んだのか、よくわからない。
それはともかく、はっきり言えることは1時間の物語が1日の物語と共存し、さらにはそれは1週間の物語とも共存する。もし陸地の物語を基準にすれば、燃料に限りのあるはずのスピットファイアーは1週間飛び続けていることになる。少人数で全体を表象する場合は空間的・物理的集約だった。しかしここでは時間的集約が、1時間は1日に、1日は1週間にという集約のされ方になっている……。
ああ、と思う。これは『インセプション』の世界だ、と。
1秒が1時間になるような、そして1時間が10年にもなるような世界。ノーランは、『バットマン』シリーズの監督ではなく、『メメント』の監督であり、時間軸を混乱させたり、時間そのものを変形させたり圧縮あるいは拡張させたりする、時間の魔術師、時間の塑像師だった。
このことに気づいたのが106分の映画の終わりの方だった。そんなふうに見なかった。そして『インセプション』を思い浮かべるべきだったと後悔したのは、映画館を出てからだった。これから観る人は、どうか、この時間の魔術をしっかり見据えてほしい。私のようにぼんやりではなく。
もちろん問題は、なぜそういうことをするのか。『インセプション』も『インターステラー』も、それを説明するSF的枠組があった。だが、そのSF的枠組を取り払った時、つまり本来もつべき違和感とか疑問をなしくずしにしてしまうSF的設定がなくなり、史実に基づく歴史再現映画でもあるこの映画で、なぜ、そのようなことをするのか、その効果はなにかが、むき出しの疑問、逃げ場のない直面するしかない疑問として立ちはだかるのである。
それはなぜか。リアルに、実物主義にこだわる映画監督(映画会社側の売り言葉)が、このような構成の映画をとることによって、映画は「実験的映画」になるといえば、これも逃げ口上だろう。
たとえば最初から最後まで飛んでいるスピットファイアーの姿は、現実の戦闘機のリアルな映像というよりも、なにかこの世のものではない、怪物的、あるいは幽霊的な存在感と浮遊感を漂わせている。実際、この飛行機とその飛翔空間の空気感の見事さに匹敵するのは宮崎アニメしかないだろう。宮崎アニメのヒコーキ物の代表作でもある『紅の豚』を思い出した。空にある戦闘機の墓場という幻想空間。この『ダンケルク』にも、そんな空間があるような気もした。
この戦闘機に限らない、実物主義、現物のリアル感にこだわる監督の作り出す映像が、どこかこの世のものではない幽霊空間にみえてくる。夢の世界、悪夢の世界なのか。それが現在から過去をみるときの視覚効果なのか。リアルなドキュメンタリーがこの世のものではない、不気味な、そして魅惑的な、悪夢的な、天上的な、映像と共存している。そしてその先には、すでに述べたような史実のダンケルクの撤収作戦にみられる、欺瞞性、虚構性、あるいは神の摂理、そうした超越性があるのか……。いまは、ここまでにしたい。(いつか必ず続く)