二人のヴェロニカ
『カフェ・ソサエティ』では主人公ボビー/ジェシー・アイゼンバーグが、二人の女性に恋をする。最初の女性ヴォニー/クリスティン・スチュアートとは結ばれないが、二番目の女性ヴェロニカ/ブレイク・ライブリーとは結婚する。正確には二番目の女性は人から紹介された見合い結婚みたいなものだから、ほんとうに愛しているかどうかはわからないが、円満な夫婦生活を送るようにみえる。
面白いのは二人の女性が同じ名前なのである。ふたりのヴェロニカ。
最初の女性ヴォニーというのはヴェロニカの愛称のひとつだとわかる。ふたりのヴェロニカ――というような台詞があったような気がする。そうなるとクシュフトフ・キエストロフスキー監督の『二人のヴェロニカ』(1991)を思い出しすしかないのだが、イレーネ・ジャコブ主演のこの映画は、分身映画だが、『カフェ・ソサエティ』の二人のヴェロニカとは関係がないだろう。そもそもキエストロフスキーのこの映画、「ヴェロニカの二重生活あるいは二つの人生」というようなタイトルで、日本でつけた「ふたりのヴェロニカ」は「ふたりのロッテ」からの連想によるものだろう。ふたりのロッテが双子ものなら、ふたりのヴェロニカは双子なのかもしれないがドッペルゲンガー物でもある。で、『カフェ・ソサエティ』とは関係がない。
しかし女性がふたり同じ名前であるということは気になった。古い本だが、いまでも読み返すことがあり、またお勧めの本だが、マイケル・リチャードソン編『ダブル/ダブル』というアンソロジーである(柴田元幸・菅原克也訳、白水社1990)。私がもっているのは1990年の4刷で、同じ年に、すくなくとも4刷がでている(たぶん最終的にはもっと刷りが多いのだろう)。分身とか双子ものの短編を集めたもので、いうまでもなく翻訳はよくできていて興味の尽きない短編集である。
そのなかにルース・レンデルの「分身The Double」という作品があって、これが奇妙な(まあ分身物はみんな奇妙だとはいえ)物語で、主人公が二人の女性に恋をする。というか二股をかける。ならば主人公の男性が、ジキル博士とハイド氏ではないが、ふたりの異なる女性に対して、二重人格のように性格を変えるのかというとそうではない。分身関係がどこに成立するかというと、二人の女性がよく似ているのである。男が同時に愛する二人の女性が分身関係にあるのである。デッドリンガーというか、ふたりがそっくりなのである。
二人が実は双子だったというような種明かしはまったくなく、ふたりは出会うことで同時に死んでしまう。これは異色だが、同時に、なっとくできる心理を描いているとも感じた。というのは、男女どちらも同じだろうが、ひとりの相手に満足せず、べつの相手を求めるとき、性格とは見た目が正反対のパートナーを求めることも多いかもしれないが、同時に、似たようなパートナーを求めることも多いのだ。ある男性の浮気相手の女性が、その男性の妻とそっくりだった、あるいは同じようなタイプだったということは、統計的にどうだが知らないが、ありえないことではない。よくありすぎることかもしれない。
つまり浮気する男女は、相手に、前の相手と同じタイプの人間を求めたり選んだりする。私がプレイボーイタイプの人だとして、私がつぎつぎとみつけ、また捨て去っていく相手の女性はみんな同じタイプの女性だということになる。奥さんと愛人が似ているということ。
これについて、奥さんと愛人が似ているというのは、ふたりはもうひとりの女性と似ているからだと考えたのフロイトである。つまり、ふたりの女性に似ている第三の女性とは、男性の母親だということだ。
ひとりの女性に満足せず、つぎつぎの女性をかえていく男性は、結局、むすばれることのない(近親相姦のタブー)母親の代理となる女性を求め続ける。したがって妻だろうが愛人だろうが恋人だろうが、ひとりの女性に満足しない男性は、母親のヴァリエーションをずっと求め続ける。したがって女性たちはみんな同じタイプになる。女性たちはみな分身であるが、その分身の究極のモデルは母親なのだから。
母親とは結ばれないから、その代理を求め続けるが、母親の存在が大きすぎると、代理の女性では満足できなくり、つぎつぎと母親と同じタイプの女性を求め、そしてまた別の女性と取り換えることになる。プレイボーイタイプの人間が求める究極の女性は母親である。
だが、これは不可能な要求なので、この欲望は満たされることなく、落胆とともに、つぎの女性を求めるしかない。求めては落胆する。手に入れては捨てる。なんという悲しい人生、なんという落胆の人生。だが究極の女性像を母親のなかに見出すとなると、代理の女性で満足させられることがあってはならない。むしろ母親の代理として求めた女性に落胆することで、母親の大きさが確認できる。
だからほんとうに落胆しているのではない。落胆している瞬間ほど、母親を強く愛している瞬間はない。母親を聖女の立場に置くのは、地上の女が誰も、この母親の代理になれないことが証明されるときである。だから母親以外のすべての女性に落胆することが最高の喜びなのである。だからプレイボーイが求めているのは、女性に落胆することなのである。
しかし、そこまでのプレイボーイはめったにいないかもしれないが、男性誰もがエディプスコンプレックスの犠牲者だとするなら、男性が、浮気したり二股をかける相手の女性は、みな同じタイプということになる。
だから『カフェソサエティ』におけるボビーが愛する女が、同じ名前であるのは、ある種のアレゴリーなのだ。名前だけが同じで外見から性格まで同じではないのだが、同じ名前であることは偶然ではなく、二人の女性が同じタイプの女性であることの暗号なのである。私が愛する女性、好きになる女性は、いつもヴェロニカなのである。
そして『カフェ・ソサエティ』は、この二人の、三人の、無数のヴェロニカの背後に母親への満たされぬ欲望があることを暗示している。そうではないだろうか。ボビーが最初に愛した女性クリスティン・スチュアートには、すでに恋人がいて、それがボビーの叔父だったとわかる。自分が愛している女性が、自分にとって近しい人間あるいは父親代わりの人間に奪われること、これこそ母親を愛する息子が、母親が別の男(息子の父親)を愛していたこと、自分(息子)ではなく別の男性(母親の夫、息子の父親)を選んだことの衝撃と落胆をとおして、強固なエディプス三角形が形成される。
したがって母親であるヴォニーを、父親(叔父)に奪われたボビーが、もうひとりのヴォニー/ヴェロニカを求めたことは、かれがエディプス・コンプレックスの犠牲者であることの証拠でもある。またもうひとりのヴェロニカは、母親の代理であるがゆえに、簡単に裏切られてしまう、捨てられてしまうのである。まあそれに自分の叔父に愛する者(母親)を奪われてしまうというのはハムレットと同じである。『カフェ・ソサエティ』が『ハムレット』の翻案とまでいうつもりはないが、主人公が悩めるハムレットであることはまちがいなだろう。