2017年05月28日

『光』

映画は、視力を失った写真家と、彼を助ける若い女性との交流、そして絶望から生きる希望を見出していくヒューマン・ドラマかと思ったら、たしかに、その要素はある――もちろん、河瀬監督の映画だから、安易な希望の光などなく、たとえ悲惨な境遇や運命にあっても尊厳を失わずに逃避することなく自力で生きる人物たちのドラマだろうという予想はあたったし、そのとおりで安易なヒューマン・ドラマではなかったが。それと並行して、これは映像と言葉、イメージと音、それらの表象可能性のリミットを出現させた驚異のメタ映画であることがわかって、言葉を失うほど驚愕した--もちろん驚愕という言葉は大げさすぎて、もっとつおだやかな、もっと深いものであるとしても。


事実、この映画は、目をつむって見る映画でもある。映像を見ないで見る映画でもある。映画の冒頭から驚くのだが、これは目が不自由な人のために、映画の音声解説をつける仕事をする若い女性(水崎綾女)の物語でもある。映画のスクリーンを観ることができない人のために付ける音声解説。そのために、映画の中で、音声解説をつけられるもうひとつの映画が存在する。この映画は、もちろん部分的にしか映像化されていないし、むつかしそうな観念的映画でもあって、それゆえ音声解説をつける彼女は悪戦苦闘する。目が不自由な人たちに、まえもって音声解説を聞いてもらいながら、ときには厳しいダメ出しをもらいながら。そして最後に音声解説が完成し、わたしたち観客には音声解説の完成試写会の場面が見える。


この映画は、もうひとつの〈映画・内・映画〉の音声字幕の完成という物語をみせる映画であり、映画はふたつある。いや、それだけではない。完成試写会に来ている観客たちは、みな目が不自由な人たちなので、イヤホンで音声解説も聞きながら、目をつむって映画をみている。見えない映画を見ている。映画は観客ひとりひとりの頭のなかに生成している。それを映し出す映画がある。これだけでも映画の無限の広がりを、無限増殖を観取できる。どこまでが現実でどこまでが映画なのかわからないなどということがあるが、この映画は、その先をいっている。どこまでが、いまみているこの映画で、どこまでがいまみている映画でなのか、わからなくなるからだ。


ちなみに私が見た映画館もそうだったが、たぶん、この映画は、目の不自由な人が、イヤホンで音声解説を聞きながら見ることができるのである。目を閉じて、見えないスクリーンを、見るのである。しかも、映画の音声解説をつくるという映画だから、そこにさらに音声解説がつくのである。考えただけでめまいがしてくる。しかし、音声解説で、この映画を見る人にとっては、めまいというメタファーは意味をなさないのだろう。その等価的な体験とはなんだろうか。それを考えるだけでも、めまいが、いやめまいも含む精神的眩惑のただなかに放り込まれるような気がする。


私は正直なところ、視力を失った人たちが、なにも無理をしても映画をみる必要はないのではないかと思っていた。視力の補助をすることは必要だが、映画的快楽は望めないのだから、むしろ一般人よりも鋭敏になっている聴力を駆使して、音あるいは音楽の快楽を、追及すればよく、映画は見るのは無駄な営みではないかと考えていた。もちろん見えない人に視覚的説明をするなというのではない。映画あるいは視覚芸術は、言葉では完璧に表現できない世界であって、それをどうしても不備が残り限界から免れない言語表現をとおして見るというのは無理がある。だから、たとえば原作の小説を読んで、映画館でみなくても映画の内容を想像するようなもので、それはそれでいいのだが、それ以上のことは求めてもしかがたないと考えてきた。いいかたをかえれば音声解説は、いくらすぐれた解説をつけても、解説者が見ているものと同じ映像を見てもらうことはできないので、無駄な努力ではないか、と。


しかし私の先入観は、この映画を見て打ち砕かれた。目が見えない人にも映画を見る権利があるということがわかったというのではない。目が見えない人にも、あるいは目が見えない人だからこそ、映画が見えるのだということがわかったのだ。スクリーンを見ていなくても、映画本来の音と、わずかな音声解説で、映画を見ることができる。しかも目が見えない人が見ている映画のほうが、ほんとうの映画ではないかとも思えるのだ。それは決して単なる比喩ではない。視覚芸術でありながら、同時に、目がみえない人/映像から解放された人の脳裏に実現する芸術でもあること、それが映画の究極のかたちではないかと、わずからながらでも理解できたように思われる。


見えない映画こそが、ほんとうの映画かもしれない。この歳になって、それを思い知らさせることになるとは、私のつまらない人生のなかで、最大の事件である。


とはいえ、私のこの記述は、この映画の音声解説者がつくる最終稿にはとても及ばない稚拙なものであって、これで映画をみてない人を納得させる、あるいは心の目でこの映画をみてもらえるとは思えないので、無力感にとらわれるのだが。


裸の王様ではないが、見えない映画がほんとうの映画だということがわからない人は、頭が悪いというようなことを伝えるつもりはまったくないことは、断っておきたい。とりあえず映画を見た第一報として。

posted by ohashi at 21:19| 映画 | 更新情報をチェックする