またも他人の映画評を引用して、それをこけにして喜ぶのかと思われるかもしれないが、そんなことはしない。以下部分的に引用するネット上の映画評は、全く同感であるがゆえにここに引用する。
◇都会的オカルトfilm (投稿日:5/21) ポスターとタイトルだけを見て失敗? おしゃれと人間関係云々のstoryかと思いきやオカルト?霊媒師ってことか。あちゃー(汗)パーソナルショッパー、セレブの御用聞きというのは大変だし、空虚だけど、やってみたい(笑)
C.スチュアート、セミヌード的に頑張る、何故? 肌もきれいで、スタイルも良いのだがキーラは背丈があるので、彼女の服ではバランスが… 後半はスリラー+オカルトでモウリーンが狂気じみたのかと思ったが、そんなこともなく。こういうことって目に見えないし、それが真実かなんてわからないからstoryはどうとでもできる。うーむ、簡単にこういうもの製作してしまって良いのかい?少しstoryを知っておけば、観に行かなかったなぁ。この監督のC.スチュアートも出演した前作は好きなんだけど。
◇スピリチュアル要素がある心理ミステリー映画はよくわからない終わり方をするものが多く、今回も危惧していたが、カンヌで監督賞を獲ったことと、予告編で鑑賞を決めた。残念ながら私の感性には合わず、勿体ぶる割に中途半端で要するに何を言いたいのかわからないスピリチュアル系映画であった。予告編で充分。クリステン・スチュアートの美乳が救い。
(なおクリスティン・スチュアートのヌードとか美乳に関するコメントに私が同意しているわけではない。)
「パーソナル・ショッパー」(rというのは買い物相談係の意味で、デパートかなにかが買い物客にファッションその他のアドヴァイスを与えるためにデパート側が雇う人間と理解していたが(英和辞典などでは、そういう定義なのだが)、この映画では、セレブの雇い主の代わりに買い物を代行する役割。でもそれはBuying Agentというのではないかと思ったのだが、ちがうのかもしれない。買い物代行業といっても、たんに買い物リストの品を購入して運んでくるというのではなくて(これだとたんなるパシリにすぎないが)、自分のセンスと判断で購入するものをみつくろうので、買い物代行業と買い物相談係の両方をかねているのだろう。
上記に引用した映画評のように、最初はミステリアスなサスペンス映画というふうに思っていたのだが、映画がはじまってすぐに、あれこれはホラー映画かと、意表をつかれ、しかも最終的に、これはホラー映画でもないスピリチュアル映画だとわかって、これでは大川隆法監修の映画とあまりかわらなくなったとがっかりした。
前作の『アクトレス』(これは日本でのタイトルで、原題はちがうが、まあ「女優」というのは内容にあっているとはいえる)はよかった。ベテラン女優の役のジュリエット・ビノチェを最終的には追い落とす若い女優にクロエ・モリッツが出演していて、純情可憐そうな少女にみえて、ものすごく腹黒いという少女という役どころがなんともすばらしかったし、彼女の対極に、ベテラン女優の秘書のような役割をはたすクリスティン・スチュアートがいて、最終的に映画のなかでは、彼女はビノチェットの妄想のなかの存在で、現実にはいなかったことがわかり、余韻を残すいい映画となった。
また前作『アクトレス』におけるクリスティン・スチュアートと、セレブでもある女優との関係性は、今回のパーソナル・ショッパーにも引き継がれているようで、期待感大であったのだが、最初の方から、彼女が夜に霊をもとめて、古い舘の内部を探索するというところが、方向性が予想外のへんなところをめざすものであるとわかり、ただただ唖然とするほかはなかった。
というのも彼女が依頼主のセレブのために試着するだけでなく、依頼主の留守中にクローゼットから依頼主のドレスを選んで着て、依頼主のベッドで一晩過ごすというのは、セレブの依頼主になりきるという、それこそ、最近、引退を発表したアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』と同じ世界ではないか。またそれは依頼主との一体化のみならず、依頼主にとってかわる象徴的殺人でもあって、やがてこれが事件に発展してゆくというふうに予告編段階ではわかるのだが、本編をみていると、まったくその予想は裏切られる。
実際、事件に発展しそうなときに、彼女のもとにラインでメッセージが入ってくる。そしてそのラインでのやりとりに魅了されていく彼女のエピソードが長い(長く感じられる)。人のラインでのやりとりをずっとみせられているようで、それはそれで謎のメッセージなので興味深いのだが、映像的には面白くない。
事件は起こり、それは心霊超常現象であるかのように見せかけられた、実際には人為的犯罪であったことがわかる。その部分では、予想外でもあり、また手掛かりは与えられていた犯人でもあったので、サスペンスとしてはきちんとできているのだが、だとしたらスピリチュアルな世界はどうなるのかということがあげられる。
映画のなかでは心霊現象、超常現象は、実在するというのが原則である。ちょうど、たとえば映画のなかでは少女が(たとえ殺されても)最後には勝利し(最近作では『アイ・イン・ザ・スカイ』から『アリス』や『美女と野獣』にいたるまで)、育ての親は生みの親には負けるしかない(『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から『光をくれた人』にいたるまで)。まさにそれと同じで、超常現象は、どんなに合理的に説明しても、存在するというのが映画の大前提である。そのため事件は解決したあとも、もうひとつの霊の世界は実在するという物語がつづかなければならない。
と同時に、超常現象とは無縁だった事件も、実は、霊の存在がひきおこしたかもしれないという可能性も示される。また19世紀の交霊会・降霊会における霊との通信手段は、音声でもなければ絵でもなく、タップであったということらしいが、それはモールス信号が発明されたのと軌を一にしていて、モールス信号をまねた詐欺であるという可能性が示唆される。しかし、そこから心霊現象はみんな詐欺であるという方向にはすすまず、犯罪には心霊現象がからんでくるという暗示にむかうように思われる。象徴的なシーンは、最終的に犯人が捕まる前に、目に見えない存在が、ホテルから通りへでていくところである。つまり、この目に見えない霊(おそらく彼女の死んだ双子の兄で、彼女の守護霊でもある)が、疑われた彼女を、真犯人を示すことで救ったのかもしれない。また彼女が犯行現場で感じた異常な存在は、人間ではなく霊であったかもしれない。となると霊は、彼女の意を汲んで、殺人をおかしたともとれないことはない。また見方をかえれば、一連の事件は、彼女の抑圧された欲望が、引き起こしたことで、彼女は自分で手を下すようになるまえに、悪霊あるいは自分の守護霊が彼女の代行者となった、つまり霊もまた、彼女をという依頼主の欲望によって呼び出され、買い物のならぬ殺人を代行したということになる。パーソナル・ショッパーは、彼女ではなく、悪霊か守護霊のほうだったということだろう。
ただ、すべては、そのように暗示されているというだけで、私の気のせいかもしれない。
そうだという声が聞こえてきそうだが。ちなみに、映画の最後は、観た人はわかるのだが、すべては「私の気のせいか」と彼女が霊に問う場面である。トーンと霊は大きな音のタップによって答えを返してくる。気のせいだ、と。The End.