2017年05月12日

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』vol.2

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』という日本語のタイトルだが、原題は、もっとそっけなく、vol.2がつくだけ。


それはともかく、このタイトル「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」というのは、ガードマンあるいはれに類する役割を担う人を、かっこよく、あるいは大げさに修飾するために、「銀河の」とか「宇宙の」といったフレーズを付帯させたのかと思うが、また確かに前作は、そのようなことがなきにもしもあらずだったが、続編ともなるとスケールがアップして、まさに「銀河」や「宇宙」を崩壊から守ることになる。主人公の名前もスターロードというように大げさなのも続篇になると納得できるようになる。


なにしろこの続編では、神と対決するからである。またスターロード/クリスプラットは、地球人の女性と宇宙人、それも神のごとき宇宙人との子どもであり、いうなれば半神である(見た目と行動は、コテコテのアメリカンではあるが)。そしてテーマが宇宙的・神話的になる。それは北朝鮮の暴走からどうやって国を守るとか、新聞社を私物化し友人に口利きをする腐敗しきった首相夫妻をどうするかでもなければ、捜査妨害をし、それが功を奏しないとわかると長官を解任するような大統領をどう処分するかという、ちっちゃな問題ではない。大きな問題、そう、それは親と子、家族の問題である。これこそが、ギリシア神話のテーマでもあった。家族問題こそ、神話や宇宙そのものにふさわしい。まさにそれは銀河のテーマである。宇宙のテーマである。


したがってここでは、かつてレヴィ=ストロースが『構造人類学』のなかで「神話の構造分析」を説明する際に、典型例としてオイディプス神話群を取り上げたときの、二項対立、すなわち過大評価された親族関係と、過小評価された親族関係のことが思い浮かぶ。この映画でも家族や親族は、殺し合い、つぶし合うか、相手のために犠牲になるかのいずれかである。子どもを利用して殺す実の父親と、子供を守るため犠牲になる育ての親たる父親。この対立から、浮かび上がるというか、この対立がその効果ともいえるのが、ガードすること、守ること、守護すること、4号警備することというこの物語のテーマである。ギリシア神話やギリシア悲劇にあらわれる、時として神をも巻き込む、壮大なテーマ、それこそ親子関係のテーマだろう。


まあ子供のために犠牲になるどころか、子供を犠牲にする親が、私の周りに多くて、うんざりするのだが、この映画でも見て、本当の親だったら、子供を殺すな、子供を守って死ねやといいたいのだが、それはともかく、お金のかかっていそうなCGも、まあ目を見張るのだが、それよりもキャラが面白い。けっこうせこいというか人を食ったようなキャラの面白さが豪華なCGをバックにしていっそう際立つように思われる。スターロードの父親のエゴの惑星のCG映像は、見事なものなのだが、それよりも冒頭の映像のほうが面白い。


そこでは貴重な電池を異次元からの怪物からガーディアンたちが守るところだが、怪物が強力すぎて、ガーディアンたちが苦戦する。ガーディアンたち全員が怪物にぶちのめされて、最後のぎりぎりのところで倒すというシークエンスを、まだ子供だから戦いに加われないベイビー・グルートが、ただぎとり楽しそうに踊っている。その踊るグルートに焦点をあわせ、巨大モンスターと戦うガーディアンたちの奮闘ぶりを背景にもってくる映像構成が、なんともいえず洗練されまた刺激的であって、冒頭からいきなり目を奪われることになる。しかも、かわいいベイビー・グルートの踊りを満喫しながら。


ガモーラ役のゾーイ・サルダナは、前作よりも魅力を増したなと思っていたが、調べてみたら彼女の映画は『アバター』以来よく見ている。アバターでは当然メイクによって本人とはわからず、どちらかというと女優の杏(父親が最近、安倍政権を批判したため報復として不倫が暴かれた渡辺謙)に似ているのだが、しかし、よく考えたら彼女は新しい『スタートレック』シリーズではウーフラ役だった。『コロンビーナ』は彼女の魅力がよく出ていた映画だが、SFスペクタクル映画だけでなく、多くの映画に出演していて、最近作はベン・アフレック監督『夜に生きる』(もうすぐ日本でも公開)である。


今回は、また今回限りだが、その存在感とキュートさで、やはりベビー・グルートが際立っている。声をヴィン・ディーゼルがしているのも驚きだが、日本語吹き替え版でも、意外性を狙ったのか遠藤憲一が声を担当している。ヴィン・ディーゼルといい遠藤憲一といい強面の俳優が声を担当するのは、おかしいといいえばおかしい。なおベイビー・グルートもエンドクレジットでは、もう成長して思春期になっていて、部屋に引きこもってスマホがゲームをいじっていて親の言うことに耳を貸そうとしない。それはそれでいかにもという感じで面白いのだが、ベイビー・グルートの姿は今回の映画だけのようだ。


追記(2017年5月19日)

主人公が神と地球人の女性の間に生まれて半身で、銀河の守護者どころか、イエスのように人類の救世主であったり、子供のころに宇宙人に拉致されるというのは、ある意味、アメリカ人のポピュラー・カルチャー・レヴェルにおけるステレオタイプ化された誇大妄想をみごとに反映しているといっていいだろう。もし本当に神様がいれば、アメリカ人の女性と結婚して、その息子を救世主にはしないだろう。アメリカ人のイセスは、「心貧しき人こそ幸いなれ」とは絶対に口にすることなく、ただ’I wanna be with you’といって歌うおめでたい信者にかこまれて、にこやかに微笑んでいるか、ただただチャラい男にすぎないだろうから。


まあ、アメリカ人を救世主に選ぼうものなら、この救世主は何をしでかすかわからない。まっさきにするのは、ロシアの機密を漏洩して、捜査当局の最高責任者を首にして、貧しいのはメキシコ人がいるからだと叫び始めることだろうから。もしアメリカ人を救世主に選ぶ神がいれば、おそらくその神は、神ではなく悪魔か、悪魔が変装したものだろう。


ウィリアム・ブレイクだったか、誰だったか忘れたが、私たちがふつうに神と思っていたり、神と想像する存在は、たいてい、神ではなく悪魔であると語っていた。これは至言で、私たちが思い描く全能の神は、神というよりも悪魔に近い。実際、この映画でも神といっていい存在が登場するが、それは悪魔といってもいい存在でもあって、この神をやっつけ、悪魔の惑星を壊しても、見ている側は嫌な思いをしないどころか、むしろ爽快に思うのは、この神が、実は悪魔だからである。


この神は、自分の子どもを殺す神である。もうひとり、育ての親は、主人公を助けるためにみずから死ぬ。この育ての親のほうが、ほんとうの神である。だが、私たちは、自己犠牲のはてに死んでしまう存在を弱いと思い、宇宙を征服し、自分の子どもを殺す存在を、神として崇拝するのである。悪魔を神とまちがえて

posted by ohashi at 20:19| 映画 | 更新情報をチェックする