私よりの年配のご婦人と話すことがあって、そのとき、私たちの子どもの頃は、文学全集がブームで、毎月配本される一冊を、とにかくその月に読み切って、全集全部揃えた時点で全集の全巻を読んでいるということが、子どもの頃(といっても中学生以上だが)の夢であり、またそれは、多くの人間が、夢に終わらせずに実行したことだった。
まあ日本文学の全集というのは、分量にもよるがこれはけっこうむつかしい。たとえ明治期以後のものであっても、古い日本語は、とくに知識のない子どもには読めなかったからだ。それに比べ、外国文学の翻訳は、日本語のレベルでは、一様に、現在の日本語になっていて、面白かつまらないかの差はあっても、読めないものではなかった。今の私があるのも、子どもの頃の、外国文学の文学全集のおかげである。
では、どの国の文学に熱中したかという話になって、それには、意見が一致した。ロシア文学とフランス文学である。どちらも世界文学の華そのものだった。イギリス文学は、地味で田舎臭かった。アメリカ文学はアメリカンだった。で、ロシア文学となれば、ドストエフスキーにトルストイだった。トルストイには熱中したという話になって、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』のどれがよかったかについても、『戦争と平和』で意見が一致した。『アンナ・カレーニナ』は、中学生のクソガキだった私にとっては、中年のおばさんの不倫話で、そんなに面白いものではなかった(実際にはアンナは子どもがいても、まだ29歳くらいで、フェリシティ・ジョーンズよりも若いということに、当時は、まったく気づかなかったのだ)。いまからみれば『アンナ・カレーニナ』が一番におもしろい小説と思うだろうが、当時は、クソガキだったのだ、この私は。
『アンナ・カレーニナ』や『復活』については、いつか語れる機会があると思うので、今回は『戦争と平和』について。
ナポレオンに率いられえたフランス軍がロシアに侵略、モスクワまで到来したものの、冬の悪天候と寒さに悩まされたあげく、ロシアから撤退するまでを描く、大長編小説である。登場人物も多いのだが、読んでいくと、登場人物の名前をすべて覚えてしまうのは、まさに作品の力だろう。描き込みがはんぱではないからだ。
最初のクライマックスは、オーストリア皇帝軍とロシア皇帝軍とがナポレオンのフランス皇帝軍と戦い、オーストリア・ロシア軍が撃退されるアウステルリッツの三帝会戦であるが、しかし、やがて、フランス軍がロシアを侵略にするにつれ、アウステルリッツ以上の熾烈な戦いが展開していく。
そのなかでさまざまな人間模様が描かれていくのだが、史実を検討してゆく作者の記述もだんだんと熱を帯びていき、それが頂点に達するのが、ボロジノの戦いである。『戦争と平和』のなかでもクライマックスとなるこのボロジノの戦いは、作者は、物語を語るだけでなく、戦況を分析し、作戦を評価し、歴史的回顧のなかで戦争の実相を浮かびあがらせようとする。人物たちの去就は、おかまいなしに、地図が示され、作戦の分析が克明になされていく。
もちろん中学生のときに読んだ記憶をたどっているので、記録というよりも幻覚にちかいものかもしれないが、ナポレオン戦争において、ボロジノの戦いがいかに重要であったかということは、あるいは、トルストイが重要だと考えていたことは、しっかり受け止めたと思う。幻想でも幻覚でも遮蔽記憶でもなく。
トルストイ経由で知ったボロジノの戦いとは、それまで連戦連勝のナポレオン軍が、ロシア侵略の途上で、はじめて頑強な抵抗に出会った戦いだった。結果的にロシア軍は敗退して、モスクワをあけわたすことになるのだが、このときロシア軍は、ナポレオン軍に致命的な損害を与えていた。そしてその傷はすぐには気づかれなくとも、冬のロシアを敗走するナポレンがついにフランスで退位するに及んで、致命傷の大きさが明らかになる。
ロシアの宮廷あるいはロシアの貴族の館では、当時、フランス語が話されていて、フランス軍は侵略軍というよりも友軍のようなものである。したがってフランス軍に立ち向かい、おびただしい犠牲を出しながらも、最後には追撃に転じたロシア軍の中核はロシアの民衆なのである。ロシア民衆のナショナリズムの覚醒と自由を希求する民衆の戦いが、フランスの帝国主義を最後に倒したのである。だから、ボロジノの戦いは、敗退したとはいえ、究極的に、ロシア軍が勝利していた、そのことは、ロシア軍の総司令官クツーゾフ将軍は知っていた(トルストイは、クツーゾフをロシア貴族というのりも、ロシア農民の魂の権化のようにみている)。
もちろんナポレオン戦争によって覚醒したのは、ロシア・ナショナリズムだけではない。帝政の専制あるいは帝国主義に対して自由を求めて戦う自由主義革命思想もまた貴族たち支配層にひろがっていく。こうして『戦争と平和』は、ナポレオン戦争が終わり、平和を取り戻したロシア社会が、いまひとつの戦いをはじめる、まさに、その直前で終わる。
『戦争と平和』の終わりは、デカブリストの乱の直前の時代である。デカブリストの乱は、ロシアの皇帝専制と農奴解放を要求した、貴族の将校たちを中心とする革命運動であり、武装蜂起したものの、皇帝軍によって弾圧され、関係者が多く処刑された。ロシア文学ではプーシキンがこの時処刑されている。
『戦争と平和』のなかで、ナポレオン戦争を生き延びた登場人物たちの多くは、これから起こるであろう、このデカブリストの乱に参加することが予見される。ナポレオンの帝国主義との戦いは勝利のもとに終わったのだが、つぎにはロシア帝政との闘争が待っている。ナポレオン戦争がロシアにもたらした自由を希求する熱い思いは、いま、まさに帝政との対決を迎えようとしているのである。
もちろん『戦争と平和』の作者も読者も、デカブリストの乱の結果を知っている。ナポレオン戦争に勝利した人物たちは、すべて、デカブリストの乱で死んでいくことだろう。ロシアに萌した革命運動は、生まれてすぐに、残酷な終焉を迎えたことを、作者も読者も知っている。そして『戦争と平和』が出版されたころ、ロシア帝政が終わることなく続いていることを、作者も読者も知っている。
だがボロジノの戦いを思い出せ。ナポレオン軍に負けたロシア軍、モスクワをもあけわたす屈辱的な敗北を喫したロシア軍であったが、その戦いで、1日で死んだ数万人の兵士たち、その戦いで犠牲になった者たちは、その死を通して、ナポレオン軍に、じわじわと効き始める致命傷を確実に与えていたのだ。
希望は消えることはない。デカブリストたちは、敗れたとはいえ、屈辱的な敗北を喫したとはいえ、ロシア帝政に確実に致命傷をあたえていたはずである。ロシア帝政は、いまなおゆるぎなく存続しつづける。だが、帝国主義は、いつか必ず崩壊する。デカブリストたちの蒔いた希望の種は、あるいは彼らが、その死によって加えた致命傷は、いつかかならず帝政を、帝国主義を倒すことだろう。ボロジノの戦いを忘れるな。希望は死ななない。それがトルストイが『戦争と平和』に込めたメッセージである。
『ローグ・ワン』をみて、そんなことを思い出した。We have hope.Rebellions are built on hope!.