新国立の中劇場で上演中の『ヘンリー四世』二部作を、都合により第二部から先にみることになり、第一部のほうは、およそ一週間後にみた。結果として、大満足だった。というのもやはり第一部は第二部よりも面白い。
逆にいうと第二部は地味すぎる、しぶすぎるというべきか。そのため華やかな第一部をみたあと、第二部をみると、第一部の華やかさとは無縁の、鈍色というか地味でしぶい世界で、結末も、悲劇ではないが、かといってハッピーエンディングでもない、微妙な、ある意味、暗い終わり方をするので、正直言って、第二部から第一部をみたほうが、気持ちよく、終われる。
第一部はハッピーエンディングである。実際、私はひとりでみたわけではなく、グループでみたのだが、グループのメンバーも、おおむね同じ感想だった。みんな第一部が終わって顔が明るかった。私たちにとって『ヘンリー四世』観劇はハッピーエンディングだった。
まあ第一部だけ見て、あとはみなくてもいいのかもしれない――私がたまたま見た第二部では、客席も両端のほうに空席が目立ったが、第一部は満席だった。有名な第一部だけでもよいのかもしれない。第二部までみて暗い気持ちになるくらいなら、いっそ第二部から見てもよいのではないかと思う。
ただし第二部からみても、意味はある。というのも二部作というのは長い物語を機械的にまんなかで区切るというのではない。テレビドラマの前編・後編の場合もそうなのだが、前編は、後編への橋渡しをすると同時に、それだけみても満足がえられるような完結性もめざす。後編も同じであって、後編は長い物語の残り半分ということではない。後編だけでも、あるいはそれだけをみてもよい完結性を保っているため満足できるのである。
その証拠に、たとえば第一部で、武勲をたてたハル王子は、もう放蕩息子として非難されることもないかと思うと、第二部でも、相変わらず放蕩息子である。第一部で、縁が切れたと思われたフォルスタッフ一味との関係は第二部での変わらず続けられる。第一部の第二幕で、ハル王子は、ポインズとともにフォルスタッフの本性を暴くべく策略を仕掛けるのだが、同じことは、第二部の第二幕でも行われる。だから第一部と第二部、本質的に異なるドラマということではなく、同じ構成と主題をもつのであって、ただ、結末が異なる。
第一部では、反乱軍討伐がつづけられるだろう(おそらく王軍は、それに勝利するだろう)という予感とともに閉じられ、第二部では、第一部からつづいていたハル王子とフォルスタッフの関係に決着がつけられる。
もちろん第一部と第二部との構成が似ていることは、同時に、その差異にも目が行くことを意味する。第一部にくらべ、第二部の人物たちは、みんな老け込んでいる。王は病状が悪化するし、フォルスタッフも、戦場にはせ参じた武将ではなく、戦場にでることなく、旧知の老人たちとのつきあいが多くなる。そしてすでに述べたように、派手にはじける第一部と異なり、第二部は地味になる。それは第一部と同じ構成であるがゆえに、地味ぶりが目立つのだある。
第二部はみなくてもいいのではという述べたが、第二部はめったに上演されないので、見る価値はもちろんある。蜷川演出(吉田鋼太郎のフォルスタッフ、松阪桃李のハル王子)は、見ていない私は、第二部をみるのは、イギリスで見て以来のほんとうに久しぶりである。そして、第二部の面白さを今回の上演で、あらためて認識した次第。
そう、Coutries for OldMen。第二部は、老人たちのドラマであることがあらためてわかった。その意味で、老人あるいは晩年とシェイクスピアというテーマでみると、これは特権的な作品であろう。
また第二部は、全体の完結編として、ハル王子の戴冠とともに、昔の仲間が国王になったことで、それにとりいろうとするフォルスタッフが最終的に追放されるという結末は、たとえフォルスタッフと遊んでも、また、そこに友情関係が生まれても、利己的で犯罪者(的)であるフォルスタッフを断固しりぞけ、正義と秩序を樹立するという国王のありかたたを示すところにシェイクスピアの意図に支えられているのだが、同時に、それは遊び仲間の切り捨て、過剰なまでの秩序と清浄の追求によって、絶対王政国家に対する支持の表明にもみえてきて喜べないところもある。
もちろん、これでフォルスタッフが政権の要職にとりいれられてしまうような結末がなくてよかったとは思う。実際のところ、フォルスタッフ的な本音主義と利己主義、取り残された人びとの代弁者(実は彼らを食い物にしている)、弁舌の巧みさそして詭弁、その現代の体現者のひとりがトランプであって、トランプのようなフォルスタッフ(体型も似ている)が政権を担うことがなくてよかったと思われる『ヘンリー四世』の結末だが、演劇あるいは虚構の常套手段として、芝居=夢のなかでなら、フォルスタッフの勝利に終わってもよかったのだが、それを許さなかったところにシェイクスピア劇の高い倫理性がある。
だが、アメリカではトランプが次期大統領となった。どっちが現実か夢かわからない。まさにアメリカは夢の国だ。そしてトランプ支持者たちの低い倫理性もこれでよくわかる。
とはいえ、こういうことを考えたのは、私であって、演出そのものからわは、なにも伝わってこない。下手な解釈をするのではなくて、原典をそのまま示すという禁欲的な演出を目指したのかもしれないが、だったら、今回の上演に無数にある独自の勝手な演出はどうなるのか(第一部で、ハル王子とフォルスタッフは別々のベッドに寝ているが、もちろん原作にはない指定だが、当時の状況から考えても、二人は、同じベッドを共有しているというのが通常の解釈だろう(もちろんそこに中年オヤジと美少年/青年との同性愛的関係もあるのだが、これを無視している))。
そもそもハル王子がめでたくヘンリー五世となって、イングランドに平和と秩序が訪れて万歳では、あまりに芸がない。フォルスタッフの追放についても、ニュアンスを残すこともできるだろう。あまりにストレートといえば、むしろ聞こえがいいのだが、政治的なスタンスを示すべきところで、そこだけをネグっていることには不満である。ただ、逆にいうと、第一部では、「あとにつづく」で終わるため、そうしたことが全くないぶん、安心して、あれこれ考えなくても、見終えることができる。そういう意味で、第一部のほうは得をしている。
佐藤B作のフォルスタッフと最初聞いたとき、太っていないフォルスタッフはありかと驚いたが、いろいろな詰め物で体を太らせたこともあって、佐藤B作のフォルスタッフは、誰もがみてもフォルスタッフだったし、あれに文句を言う観客はいないだろう。
私のいる席からは見えなかったのだが、オペラグラスをつかってみた人によると俳優たちがみんなPAで話しているとのこと。それでがっかりしたという感想もあったのだが、私はPAについては気にしない。大きな劇場で、声を響かせることだけに集中して、結局、台詞を怒鳴ることしかできない上演にくらべれば、PAを使ったほうが、ずっといい。台詞も聞き取りやすいし。ただし、第二部をみたときには、音の拾い方というか音の出し方が、変で、小声だと思ったら突然、大きな声になったりと、音響効果に、やや難があると思ったのだが、第一部では、それは改善されていて違和感はなかった。とはいえ、同じ第一部を私とは離れた席でみていた人によれば、音の聞こえ方にむらがあったとのこと。座席の位置によっても、聞こえ方が異なるのかもしれないのだが。
シェイクスピアの生地ストラットフォード・アポン・エイヴォンには、18世紀につくられたシェイクスピア・モニュメントが公演に設置されている。中央の小さな塔の頂部には、椅子に腰かけているシェイクスピア。そして、この塔を四隅に、シェイクスピア劇にゆかりのある登場人物の彫像がある。それぞれ意味づけをされていて、シェイクスピア劇の人物のベスト・フォーということではないがのだが、紹介すれば、髑髏を手にして物思いにふけるハムレット、手についた血(と思い込んでいる)をとろうと手をもんでいるマクベス夫人、そして残る二体が、その太鼓腹が印象的なフォルスタッフ、そして王冠を頭上に掲げているハル王子。この父王の王冠を、みずからかぶるというのは第二部の見せ場だったが、かぶり方が、あっさりすぎる。見せ場なのだから、すこしはためてからかぶれと思ったのだが……。