ル・カレの、いわゆる巻き込まれ型のサスペンス小説の映画化で、ロシア・マフィアの幹部が、新たなボスに殺される可能性を考え、家族の保護とひきかえに、ボスを裏切り情報を英国諜報部に提供することにする。その際、仲介役のようなかたちでモロッコで知り合った英国人夫妻を指名あるいは指定する。夫妻は、英文学を教える大学教授である夫と、弁護士である妻。二人は、ロシア・マフィアの幹部の裏切りと英国諜報部との駆け引きに巻き込まれていく。
ル・カレの小説はいろいろ映画化されているが、私が印象的だったのは映画『ロシア・ハウス』。あのなんともいえないサスペンスの雰囲気あるいは空気感は、見る者を酔わせる眩惑的効果をもっていた(トム・ストッパードの脚本もよかったのだが)。あるいは原作ではないが、戦後のヨーロッパを舞台に、パットン将軍暗殺計画とナチスの金塊をめぐるサスペンス映画(ジョン・カサベデスとソフィア・ローレン主演)の『ブラス・ターゲット』なども、そのサスペンスとミステリーと、ヨーロッパ的雰囲気の魔術的魅力によって見る者を陶酔させた、それと同じような、不思議な雰囲気の片鱗を感じさせるのが今回の映画だった。
パンフレットをみると、各界の有名人の絶賛のコメントが圧巻である。それほど素晴らしいかどうかは別にして、この映画のなかで誰もが気になるのは、なぜモロッコにヴァカンスに来た大学教授とその妻が、巻き込まれるのかということ。逆にいうとロシア・マフィアの幹部が、なぜ、この大学教授を選んだのか--もちろん、たまたま彼と教授が高級レストランに居合わせ、他に客もいなかったからという説明はされるのだが—が、最後まで疑問として残る。
いろいろな理由が考えられるが、パンフレットにはいろいろ書いてある――クレジットカードの16ケタの数字を、一瞬見ただけで全部暗記してしまうロシア人の才能に惹かれたというもっとも説得力のない理由から、優等生が、不良に魅惑される、その生きざまに興味をもって、のめりこんでしまうというような、もっとも説得力のある理由まで。しかし、どれもしっくりこない。
たしかにユアン・マクレガー扮する大学教授にとっては、完全に、巻き込まれなのだが、全体的にみて、脱巻き込まれの方向も強いのだ。この映画の物語を、巻き込まれ型の物語とだと、安易に、したり顔で決めてしまうことには問題があろう。
ロシア・マフィアの幹部ディア(ステラン・スカルスガルド)が、みずからと家族の実の暗線を保証するかわりに、情報を提供すると英国諜報部と取引するなか、大学教授(ユアン・マクレガー)と弁護士(ナオミ・ハリス)の夫婦を仲介役のようなかたちでまきこんでいくのだが、スカルスガルドガ、マフィアからの死の宣告を前にして、もはや逃れらないとあきらめ、自分の死に場所を求めているようにもおもわれる。
隠れ家を襲ってきたマフィアの殺し屋たちを撃退したあと、わざわざ深い追いしてぼこぼこにされること(そもそも自分の娘の反応から、敵の襲来を予知したかもしれないが、それを周囲には黙っていたことも)、そして最後に家族をユアン・マクレガー夫妻に託して、単身、英国へとのりこむこと。どちらも自分の死を予期しているようではないか。仔細にみれば、さらに、それらしいところは、さらにみつかるはずである。
つまりディア/ステラン・スカルスガルドは、自分の死を確実視し、いかに家族をまきこまないようにするのかを考えたはずである。そのために英国人夫妻を彼自身の家族に寄り添わせることは重要だった。また彼が情報を提供する前に死ねば、彼だけが死ねば、あとは家族は無事だろう。しかもその家族には英国人夫妻が同行しているとなれば、家族を殺す意味もなくなる。家族を守るために、英国人夫妻は、必要だった。家族が巻き込まれないようにするために、英国人夫妻を巻き込んだのだ。そして最後には英国人夫妻も巻き込まれずにすんだ。
すべてはディア/スカルスガルドの周到な計画に則ったものだった。もちろん英国人夫妻、とりわけ夫の教授に対しては、夫婦仲が冷えているすきまをぬって、ホモソーシャルな、それもル・カレの作品特有の男性同性愛にも接触するようなクィアな絆をしっかり結ぶことも彼の計画の一部だったのだろうが、同時に、それ以上の強度を持って男性関係は実現したようにも思われる。そしてユアン・マクレガーにしてみればディア/スカルガルドの身を守ることを第一の目的と化しながら、同時に、その逃避行のなかで、彼の家族との絆を強め、彼の家族を守ることへと目的がシフトしていく。こうなることをディア/スカルスガルドは予想していて、それは彼の死によって完結することになっていた。
このことを教授/ユアン・マクレガーは意識していたとは思われないのだが、最後には、感知したのではないかとも思われる。またここでは家族の存在が重要になる。もし当局が、かりに私の抵抗をやめさせようと思えば、私の家族に害が及ぶと脅せばよい。私は自分の身の安全など気にかけないが、家族に危害が及ぶのは恐れる(私には家族はいないが、疑似家族、同僚とか、私の知っている学生などに害が及ぶとなると、私は抵抗をあきらめるだろう)。ということは家族を殺すと脅せば、どんな人間もおとなしくなる。
逆はどうだろうか。本人は死ぬけれども、家族を守ってくれといわれたら、どうか。『真田丸』ではないが、秀吉から秀頼を守ってくれと頼まれたがゆえに、真田幸村も豊臣家のために命をかけることになったのではないか。家族を、愛する者を守ってっくれという、死にゆく者、あるいは死者から懇願は断るのがむつかしい。断るどころか、むしろ、その使命を徹底して遂行しようとするだろう。みずからの命を賭しても。おそらくこれが、ロシア・マフィアの幹部に、大学教授がかかわることについての、優等生が不良にひかれていくという以上の理由であろう。
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なお、パンフレットを読んでいて、映画会社の無知にはあきれた。ジェレミー・ノーザムくらい紹介しておけ。この映画のなかで、ジェレミー・ノーザムは腐敗した政治家の役で、台詞もあまりないのだが、一連の事件の重要な関係者あるいは黒幕という役どころである。ジェレミー・ノーザムも出ているということは、この映画の売りではないだろうか。
あと女優で、本作品の教授の妻で弁護士役のナオミ・ハリス、かっこいい。あんな聡明で有能な奥さんがいれば、私も結婚したい(結婚の可能性はないけれども)。しかし、それ以上に、驚いたというか、なつかしかったのは、サスキア・リーヴィスである。あまり映画にも出ていないようなので、彼女についてパンフレットで触れていなくてもよいのだが(とはいえ調べてみると、コンスタントに映画には出演しているし、テレビドラマにもでている。『ウルフホール』とか『刑事ヴァランダー』などにも)。また役どころも、ディアのロシア人の妻で、台詞もほとんどないし、台詞があってもロシア語だけ。ほとんどの観客にとって彼女は、怖そうなロシアの老婦人で、名もなきロシア系の女優にすぎないだろうが。私にとってはちがう。私が英国のストラットフォード・アポン・エイヴォンにいた頃、彼女はロイヤル・シェイクスピア劇団の主役クラスの若い女優で、人気もあった。今年は新国立でジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』を上演したが、私が英国でみた『あわれ彼女』のアナベラは、サスキア・リーヴスのアナベラだった。彼女の主演作品ではほかに、A Woman Killed with Kindnessもストラットフォードでみている。久しぶりにスクリーンで彼女をみることができて、個人的には感動した。
追記
ちなみに上映が終わったあと、階段で出口を目指していた私は、階段をどれだけのぼっても出口がみえず、最後には行き止まりになって、出れなくなった。なんだ、この不条理な世界は。悪夢としかいいようがなく。どうやって映画館から出たらいいのかと急に怖くなった。しかし、私は上映が地下1階のスクリーンでおこなわれ、地下から地上階にいけば出口があると思っていたのだが、実際には上演は2階のスクリーンであって、ただ1階下に降りればよかったのだ。それを息を切らして3階から4階へと向かった。ぼけ老人である。歳をとるとこれだ。老人は絶対に車を運転してはいけない。認知症でなくても、ブレーキとアクセルを踏み間違える。
2016年11月14日
『われらが背きし者』
posted by ohashi at 22:06| 映画
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