スタートレック・シリーズがテレビで放映されてから今年が50年ということで、あらためて時の流れの速さを感じている。というのも、スタートレックが日本で放送されるのは、それよりも少し遅れるのだが、小学生か中学生の頃の私は、スタートレックの放送に心躍らされたからだ。つまり私は『スタートレック』よりも長生きして生き恥をさらしているのだが、その『スタートレック』がまだつづいていることについては、慶賀の念を禁じ得ない。
ちなみに当時の、アメリカのSFテレビドラマといえば、『バットマン』と『宇宙家族ロビンソン』で、『バットマン』はコミックス原作だからいいとしても、『宇宙家族ロビンソン』は、初回パイロット版での本格的SFドラマの予感を、ドラマシリーズになってから見事に裏切ってくれたことに、当時、子供だった私は、憤慨したものだった(今から見ると、そのナンセンスぶりというかキッチュぶりは、けっこう受けるのだが、当時は私は、まだ子供だったのだ)。いっぽうNHKで放送していた『プリズナーNo.6』はSF的設定ではあっても、完全に不条理ドラマだったので、バカっぽくもなく、不条理ドラマでもない『スタートレック』は大歓迎だったし、毎回、私よりも高いIQというか偏差値を誇る人向けのドラマに感激していた。
また『スタートレック』のテレビシリーズは、それまでのSFシリーズの定番を壊す要素が数々あって、そのひとつが転送装置。宇宙船が、未知の惑星に到着するとき、危険な降下と着陸に時間を費やすのがドラマの常だったが、『スタートレック』は、それを転送という手段で一瞬にして終わらせ、未知の世界のドラマの密度を濃くした。またそのぶん、かさばる宇宙服も必要なく、乗組員たちは、みんな軽装にみえ、それには驚いた(たとえば、スーツ姿のサラリーマンが全員スティーヴン・ジョブズのようなTシャツ姿になったとしたら、そこに生まれるであろう驚きと似たものといったらいいだろうか)。なんといっていいのか自信がないのだが、長袖のスウェット・トレーナーのような制服は、質素で、貧相にもみえたのだが、余分なものがなく、機能的かつ動きやすく、合理的な物語展開によく似合っているように思われた。残念ながら、映画版になって、このユニフォームは失われ、変更されたし、ジョン・ピカード艦長(パトリック・スチュワート)となったテレビ版でのネクストジェネレーションでも、ユニフォームも変わった。
そんななか『ビヨンド』では、往年のオリジナルテレビ版のユニフォームが復活したのだ。女性の乗組員の、あまり機能的ではないと思われる、いわゆる超ミニのスカートともあわせて。
ちなみに映画版シリーズには、つねにトレッキーから、これは『スタートレック』ではないという批判が寄せられ、制作側も、それにこたえるということが何度も行われてきたが、映画版の『スタートレック』シリーズで、これこそ、いかにも初代のテレビ版をほうふつとさせると思われたのは、『未知の世界』 (1991)で、これが映画シリーズの最終作となったのは皮肉といえば皮肉である。
『未知の世界』では、つぎからつぎへと、いろいろなことがおこり、それをエンタープライズ号のカーク艦長、ミスター・スポック、ドクター・マッコイの三人が、いがみあいながら、喧嘩しながら、不平不満をいいながら、最後には見事なチームプレイをして解決へ導くというドラマは、往年のトレックそのものだった。実際、映画の最後のほうで、すでに別の艦の艦長になっているジョージ・タケイ扮するカトー(とつい日本のテレビ版の表記で読んでしまうのだが、本来は、ズールー)が、久しぶりに、カーク提督(すでに提督になっている)の見事な手並みを拝見しましたと言って別れを告げるシーンがあって、これには、胸があつくなるのを覚えたのだが、今回、むりをしているのが見えるのだが、それでもトレッキーを満足させるような展開を心がけたフシがある。
前作の『イントゥ・ダークネス』は、これはテレビ版、映画版にもあった『カーンの逆襲』のリブートだったのだが、今回は、これもシリーズのどこかにあったような気もするのだが、オリジナルの脚本とのことだが、『未知の国』的なスタートレック感を目指しているように思われる。
ばらばらに、はなればなれになったクルーたちが、それぞれ自分たちの力で事態を打開しながら、最後には結集してことにあたる。またスポックとマッコイが相変わらず仲が悪いのだが、最後には協力するという設定は、まさにトレックの世界である。
物語そのものは、宇宙の平和と秩序を脅かす恐るべき敵が、実は、ということはさておき、エンタープライズ号を一気に無力化し破壊する敵勢力は、ただものではないのだが、その本拠地となるのは、惑星の狭い谷間というのは、オサマ・ビン・ラディンが住む片田舎の集落がアルカイダの本拠地だったこと(まあ『セロ・ダーク・サーティ』が事実を反映しているとしての話だが)を思い起こさせる。また、人口惑星ヨークタウンは、スター・ウォーズのデススターを彷彿させるものがあり、敵のリーダーが、二機の子機を従えて侵入するさまは、まるでダースベイダーである。宇宙へ放り出されていくのも、スターウォーズ第一作(エピソード4)のダースベイダーそのものであろう。
とはいえ、リブート版の映画化は、スタートレックの冒険アクション的要素を前面に押し出しているのだが、同時に、スタートレックがもっていた、形而上的な要素(最初の映画シリーズは、むしろ、こちらのほうを優先して不評を買った面もあったのだが)も、今後は、出してもらいたいと思う。個人的な感想として。
Last but not least
最後にクレジット直前に、レナード・ニモイに捧げるという文字が。だが、レナード・ニモイもそうだが、アントン・イェルチンもだろうと思っていたら、すぐにアントンに捧げるとあった。彼が主役を演じた『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』も観た私としては、これがアントンの最後の姿かと思うと悲しい思いを禁じ得ない。冥福を祈るばかりである。
2016年11月06日
『スタートレックBeyond』
posted by ohashi at 07:09| 映画
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