アレクシ・ケイ・キャンベルの作品は、昨年だったが文学座アトリエで上演した『信ずる機械』を見ていなくて、『プライド』も見ていないのだが、見てみたいというより、あらためてじっくり読んでみたいと思わせてくれた今回の『弁明』であった。
一人暮らしの年老いた母のもとに、その誕生日を祝うために、息子二人、息子たちのパートナー、母の知人男性が集まり、一夜を過ごす。和気あいあいとしたバースデーパーティになるかと思いきや(というかそうなってしまっては面白くもなんともないのだが)、母と息子との対立と、その原因とがあらわになるという芝居である。
身内だけの誕生会だったら、仲がいいかどうかは別にして、互いによく知っている仲だから、あえて話すこともなく、もしそこに他人である私たちが紛れこんだら、いったい何が話し合われているのか、話されていないのか、皆目見当がつかないところ、そこは作劇術の巧みさというべきか、何気ない会話を通して、家族構成、それぞれの人生、過去のいきさつ、現在の事情が、すんなりとわかってくる。この一族がいまかかえている問題も、彼らが激突する理由も、何があったのかわからなくても、明確にみえてくる。何の変哲もない誕生会が、にわかに剣呑なものに、緊迫感に満ちた劇的機会に変貌する。
高名な美術史家で左翼の活動家でもあった母親に、息子たち二人は、反発して、ちがった生き方、母親とは正反対の女性をパートナーにしている。母親は仕事に忙しく、息子たち二人の世話をじゅうぶんにすることができなく、息子たちにすれば、母親から見捨てられたとの思いが強い。おりしも母親が最近出版した自伝のなかで、二人の息子について触れてもいない。精神的に不安定な弟(後半に登場)は、それにかなり衝撃を受けている。深夜、客たちが寝静まってから登場する弟は、手に怪我をして出血している。自殺でも図ったのかと観客は思う。実際には、ただ転んだところにガラスの破片があって、それが手に刺さったというだけのことだったのだが。
なぜ子供を見捨てたのか、子供に十分に愛情を注ぐことができなかったのかについて、仕事(アカデミックな仕事と政治活動の両方)のせいで時間がなかったという母親はいう。それはそうに違いないのだろうが、さらにもっと踏み込んだ、家族の秘密があったのではないかと思うと、それはなかった。コペンハーゲン解釈は示されなかった。
私のいう「コペンハーゲン解釈」というのは、物理学とか量子力学でいうそれの、誤解にみちた拡大解釈版あるいは歪曲版にすぎないのだが、現象を説明するときに、あらゆる要素、通常なら無関係なものと却下されそうなものも重視するような説明法だと考えている。6月にシアター・トラムでみたマイケル・フレインの『コペンハーゲン』のなかで、なぜハイゼンベルクがボーアのもとを訪れたのか、いろいろな説明(学問的、政治的、歴史的な)が提示されるのだが、そのなかでボーアの妻が、ハイゼンベルクは出世した自分の姿(ナチスに協力する筆頭物理学者となった)をかつての師ボーアにただ見せびらかしたかっただけだと説明するのだが、それだけがハイゼンベルクの動機ではなかったとしても、同時に、人間の行動に対するコペンハーゲン解釈があれば、そのような個人的・利己的動機も見逃さないだろうと、そこが革新的なところだと思った。
この『弁明』では、学問と政治活動に忙殺された母親が子供をかえりみなかった原因として、さらになにか家族の秘密、あるいは個人的な秘密が示されるかと思ったが、そうではなかった。コペンハーゲン解釈はなかった。とすれば、ここで、あらためてこの芝居のテーマがみえてくる。仕事のために子供をかえりみることができなかったのということである。ただ、それだけのことなのだが、それが出発点となる。
世代の対立と継承というのは、この作品に影を落としている。今回の公演でも母親とそのゲイの友人のふたりを演ずる山本道子と小林勝也と、その子供たちの世代の栗田桃子/松岡依都美/佐川和正/亀田佳明との間には、明らかに断絶がある。つまり、年齢的に二つの世代をつなぐ人物がいない。また次男のパートナーであるクレア(松岡依都美)がテレビ女優であるということから、彼女が『人形の家』の舞台で主役を演じたことだとか、演技・演劇に関することが話題になると、舞台そのものがメタドラマ化して、主人公の女性の生きざまと、主役の山本道子のそれとが重なって見えたりして(プライベートなことではなく、日本でいえば団塊(初代)の世代と、その子供たちとの関係性ということだが)、この作品がいまとここ(ここには文学座のアトリエもふくまれるだろう)との共振を強く要求していることを痛感させられるのである。
そしてこの世代の断絶から浮かび上がってっ来るテーマとは、ブレヒトの有名で、また悲痛きわまりない詩「のちに生まれる人たちに」のなかの有名な一節そのものだろう
ああ、わたしたちは
友愛の地を準備しようとしたわたしたち自身は
友愛をしめせなかった。
ブレヒト「のちに生まれる者たちに」
An die nachgeborenen
ユートピアをめざす政治運動は、その活動家たちに地獄の苦しみを味あわせ、多くの犠牲を強いることになった。人々が全員幸福になるはずのユートピア実現を目指す者たちは、不幸のどん底に落ちるしかなかった。ユートピアを目指す者たちが示すことができたのは、おのが悲惨な不幸な姿でしかなかった。
いまもなお政治活動に参加している(この年で、遠く離れたロンドンでのクルド人救済のためのデモにでかけるのだから)彼女にとって、家庭の幸福、家族との親密な触れ合いを犠牲にせざるをえなかった。ユートピアをめざす彼女にとって、家族との関係はディストピアであった。この不幸、このパラドックスを、後に生まれた者たちは、憎んだり、拒否するのではなく、理解し、共感せねばならない。その悲痛さに慄然としつつも。
アフターパフォーマンス・トーク
演出家の上村聡史と、翻訳者の広田敦郎の対談だったが、興味深い事実や解釈をいろいろ聞かせてもらい、刺激的なトークであったことは、まちがいなく、もう少し話を聞きたかったと正直思った。たとえばこの芝居の初演が、エビを焼く匂いがただよってくるようなパブの二階にある小劇場であって、劇中に同様な小劇場の描写があって、それとシンクロするというのは、メタドラマ的部分にもあらためて意識を向けさせてくれることになった。
ただし、この作品のはじめのほうで、訪問客をもてなそうとオーヴンをつけたのだけれども、それがなかなか熱くならない。また電子レンジも壊れていて熱くならないというような設定なのだが、それを翻訳者の広田氏も、演出家の上村氏も重視していて、そこにクリスティ(主人公の老美術史家・政治活動家の女性)の現在を暗示する象徴性を読みとっていた。このへんを読み取るか読み取らないかが、この芝居を理解する鍵になるのだというような主旨の発言もあった。
そこを重視するのは、鋭いと思うし、また、重視したいのであれば、その判断は大いに尊重されるべきだが、だとしたら、象徴性を読み間違えてはいないか。含意とか象徴性に対するリテラシーが、この二人は著しく欠けているといわざるをえない。
オーヴンが熱くならないのは、主人公の女性がポンコツになったり、昔の情熱を失った、あるいは端的に年老いたからではない。彼女は、先ほども書いたように、クルド人支援のデモに遠くから駆け付けるほどの情熱を、体力を、意欲をもっている。彼女はいまも熱い人だし、彼女が円熟して仏様にならずにいまなお熱い人だから、バースデーパーティの席上があんなに激しい追及と弁明の場になったのではなかったか。彼女は瞬間湯沸かし器とはいわないまでも、まだホットである。
ところが、彼女が人をもてなそう、料理をつくろうとして電気オーヴンにスイッチをいれるとオーヴンが熱くならず、料理ができない。つまり彼女がいくら不正を訴え、救済や解放を訴えても、世間が熱くならず、冷たいままなのである。彼女はホットだし、情熱も政治意識も少しも鈍化していないのに、世間が時代が、かつてのように熱くなることをやめてしまった。熱くなるのはださい、かっこ悪い、笑っちゃう、と、時代がいま、そうなっているからにほかならない。熱くならいオーブンは、彼女のことではなく、時代や状況のほうなのだ。
戦争法案の対する反対の声をあがっている、改憲して戦争のできる国にしようとする安倍政権に反対する熱い声はあがっている、しかし、日本の社会は、がたがきたオーヴンのように熱くならない。クール・ジャパンという馬鹿スローガンがこれほど不気味に響くことはない。広田と上村にいっておきたい。象徴性をとりちがえるな。ただ、このふたりの勘違いにもかかわらず、というか、勘違いがあっても、芝居そのものは演技者たちは、それにまどわされずにいた、それはそれでよかったのだが。