今回の公演パンフレットのなかで野田学氏が「演劇における近親相姦」と題して、『オイディプス王』にはじまる近親相姦劇を見開きにページの短いスペースの中できちんと紹介していて(最後は個人的経験になるのがやや残念だが)参考になる。強いて言えば、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』だって、近親相姦の話でしょう、触れてほしかった。また、世田谷パブリック・シアターでの2017年3月の再演が決定したワジディ・ムワワド(藤井慎太郎訳)『炎 アンサンディ』についても(新国立劇場とは関係ないのかもしれないが)触れていないのは惜しい。近親相姦は戦乱状態のなかで起こる。サラ・ケインの作品を出すのなら、こっちも出してほしかった(触れるスペースはあったはず)。
ちなみに戯曲『炎 アサンディ』は、日本では映画版(『灼熱の魂』)のほうが先にきて、それで衝撃を受けた。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作で、その後ハリウッド・デヴュー作『プリズナー』(2014)は普通に面白い作品だったが、『複製された男』(2014)で、ハリウッドからは消えたのかもと思っていたが(いくら原作が有名でも、一般観客には、あの映画は不条理すぎる)、『ボーダーライン』(2016)で復活か--とはいえエミリー・ブラントの使い方が悪くて、期待された彼女の男っぽい魅力が出ていない。野田氏はネタバレを恐れて『アンサンディ』について触れるのを控えたのかもしれないが、いまさらネタバレもないので、言えば、『アンサンディ』の映画化『灼熱の魂』をみたときの私を含め知人の感想は、まるでギリシア悲劇だというもの。
そうギリシア悲劇と近親相姦とは相性がいい。野田氏が真っ先に触れた『オイディプス王』が、代表作だろう。アリストテレスが『詩学』(内実は悲劇論)のなかで『オイディプス王』を中心的に扱ったのは、形式分析のためだったと思われるし、近親相姦の内容とは関係なかったと思われるのだが、選ばれた代表的悲劇が近親相姦物であることは、のちにギリシア悲劇→悲劇→近親相姦という連想方向を確定した感がある。ギリシア悲劇といえば近親相姦(実際、『オイディプス王』だけが、ギリシア悲劇のなかで近親相姦を扱っているわけではない。他にも多くの作品がある)。そうなると近親相姦物の悲劇は、どこかギリシア悲劇という母型を連想させる、地中海ギリシアの土地の匂いをもたらすのである。
シェイクスピアの悲劇もまた近親相姦的テーマに貫かれている。『ハムレット』は母親との近親相姦(兄弟愛の近親相姦もある)。かもしれない。『リア王』は父親と娘。『オセロー』は『マクベス』は夫婦愛の話だが、そこにも父親と息子、父親と娘の近親相姦的関係がにおわされる。レヴィ=ストロースがかつてオイディプス神話についての構造分析において述べた言葉を借りれば、「過大評価された親族関係」がそこにみられるのである。そして悲劇は近親相姦テーマと相性がいい。
またシェイクスピアの時代、それこそエリザベス朝においても近親相姦とギリシア悲劇とのつながりは重視されていた。ギリシア神話のカナケ―の近親相姦物語がある。
風神アイオロスの娘カナケーは、兄弟のマカレウスと近親相姦の恋に落ちたとされる。この物語はエウリーピデースが悲劇『アイオロス』で上演し、その後、オウィディウスが『名婦の書簡』で取り上げ、ヒュギーヌスも断片的に触れている。それらによると、カナケーとマカレウスとの間に子供が生まれたが、赤子が泣いたためにアイオロスに見つかり、赤子は山に捨てられて狼に食わされる。カナケーはアイオロスが送ってきた剣で自殺し、マカレウスもまた自殺する。日本版ウィキペディアの説明を丸写しなのだが、
さらにウィキペディアから引くと、
関連文献として。アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波文庫(1953年)『ギリシア悲劇全集12 エウリーピデース断片』岩波書店(1993年)ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年)『ヘシオドス 全作品』中務哲郎訳、京都大学学術出版会(2013年)
があり、これらにカナケ―の物語が記されている。
イタリアの人文学者スペローネ・スピローニは1542年パドュアの文学・哲学アカデミーのために『カナケー』と題する悲劇を書き上演する。1546年に出版。この悲劇は論争を呼ぶ。ギリシア悲劇の復興という観点から近親相姦を取り上げるのは妥当な選択としても、オイディプス王の場合、知らずに母子相姦となるのに対し、この兄と妹は、意識的に近親相姦のタブーを犯す。その点をめぐる非難とスペローニからの反論は、スペローニの死後1797年に論争集が出版されるほど注目を集めていて、イタリア語が堪能だったかもしれないフォード(劇中でアナベラが歌う歌詞の原文は日本語ではなくイタリア語である)は、この論争について知っていたかもしれない。もちろん知らなったかもしれないが、フォードの狙いもまた、スペローニと同じであったとはいえよう。
ギリシア悲劇の同時代における復活。題材は近親相姦。スペローニはギリシア神話のカナケーの物語を利用した。フォードは、スペローニの例にならったか、独自で考案したのかもしれないが、兄と妹の近親相姦を題材とした。ギリシア悲劇の同時代における復興。もちろんそこに情念のほとばしりなり、センセーショナリズムの目論見、スキャンダラスな反応に対する意識などあったのだろうが、同時に、そこにアカデミックな関心があったこともまた忘れてはならないだろう。アカデミックな関心だけが、忘れられているのである。
このことはArden Early Modern Dramaのなかの’Tis Pityのなかのイントロにも書いてある。珍しい知識ではない。またこう書いたからといって、野田氏や、「近親相姦+未婚者淫行+姦通」という文章をパンフレットに寄せている中野春雄氏が無知だということではない。
野田学氏も、また、私が、学会のウーマンラッシュアワー村本大輔と呼んでいる中野春夫氏(本人の性格が「ゲスキャラ」というのではなく、中野氏の文章の想定される作者は、今回のパンフレットの文章も含め、まぎれもなく「ゲスキャラ」である)も、こうしたことを知らないわけではないだろう。ただ、あわれ彼らは商業演劇の宣伝係り。チャールズ朝演劇をエリザベス朝演劇と昭和の時代の命名にかえ、フォードのアカデミックな関心を無視して、ただ希釈されたセンセーショナリズムへと走る。あわれ彼らは娼婦。ということでしかないのだが。
つづく
2016年06月29日
『あわれ彼女は娼婦』2
posted by ohashi at 10:48| 日記
|
