2015年08月28日

民主制か独裁制か

民主制か独裁制か

今季のテレビ・ドラマでフジテレビの夜ドラマがどれも低視聴率で残念な結果になったようだが、ただ、ドラマの失敗を、演技者のせいにするのは、どうかと思う。今時、演技の下手な人間はいない。ミスキャストということはあるかもしれないが、それは企画側の問題だろう。とにかく低視聴率というのは、同じ時間帯の他局の番組との関係も考慮に入れるべきだろうが、基本は、企画と脚本の失敗だろう。役者につけをまわすのは最低である。

で、ここからは、フジテレビの問題ではなく一般論。実際、テレビ局のことは、何も知らないので、あくまでも一般論として考える。脚本と特定しなくても企画一般と考えていいのだが、なにか企画について担当者あるいは関係者が会議などで相談するとき、ふたつのパターンがあるだろう。ひとつは独裁制。

強力な発言権とか権限をもっているリーダーがいると、誰も、その意見とか決定に反対できなくなる。過去の成功例が、そのリーダーに自信と威厳をあたえている場合、誰も反対できなくなるし、また過去の栄光にすがるような、古臭い企画をリーダーが、悪びれもせず出してくるという、救い難い状況になる。関係者も、こんな屑企画、うまくいくわけがないと心の中で思っていても、口にできない。

こんなとき関係者や担当者が自由にものが言えたら、ひどい企画は没になるか、欠陥を改善されて、最終的によい企画が生まれるかもしれない。みんなで自由に意見が言えることで、良いアイデアも浮かぶかもしれない。柔軟な対応も生まれる。独裁制は硬直化する傾向にあり、変化する現実に十分に対応できない。

だが独裁制に対する民主制にも問題がある。関係者全員が、対等の立場で、自由にものを言えるとなると、斬新な企画、革新的な企画、冒険的な企画が生まれにくくなる。集団で考える場合、付和雷同的に間違った方向、望ましくない方向に突っ走る可能性もあるが、真に民主的な関係が確立する場合、その弊害として、絶えず少数意見や反対意見が出て、最終的に妥協案、中道案しか通らないことになる。民主制は、冒険を抑圧するのである。

こうなると、やはり誰か力のある人が英断し、それに誰もが従うことで、事態を打開できる道も開かれるということになるかもしれない。ならば、独裁制のほうがいいのかということにもなるが、しかし、独裁制が、そもそもの問題の発端であったのだが。独裁制が問題の解決にもなるということになる。

要は、バランスの問題で、強力なリーダーの間違った判断に対して、関係者が自由に意見を言えれば、失敗はふせげるということと、民主制により誰もが自由に意見を出せると、妥協案とか中道案しか通らなくなり、冒険的改革が遠のくということだ。そして、そのバランスを誰が、どうとるのか。もちろん相談形態のどれがいいのか、独裁型が民主型か、それを決める上位機関があれば、そこにまかせれば、的確な判断によって、独裁と民主のバランスを決めるだろう。問題は、そんな上位機関などないか、あっても同じことが、そこで繰り返されるし、また時間のロスでもあろう。そのため決めるのは、いま、ここでしかない。

となると、独裁型の場合は、民主制に切り替えるのが望ましい場合が多いのだが、反乱があって切り替わるよりも、独裁者が自己判断で、みずからを一メンバーに降格させるか、独裁制の終焉をもたらすという自己否定が望ましいだろう。この自己否定は、独裁者だからこそできる英断ともいえるが、同時に、独裁者なら絶対にしないだろうということも言える。

民主型の場合には、特定の誰かに一任する、合議のうえ、独裁者を決めることが解決につながることがある。この場合、下から民主的に選ばれる独裁者だから、契約と信頼によるもので、独裁者も暴走はできないとしても、民主制の自己否定が民主的に可能化どうかはむつかしいし、中道的あるいは中途半端な独裁制は、その可能性と活動が制限されてしまう恐れもあるだろう。

この問題は、むつかしいのだが、独裁制とか民主制といった価値判断の強度がきわめて大きな観点での考察には、抵抗もあるので、価値判断の強度を下げて、つぎに考えてみたい。【9月12日に掲載】
posted by ohashi at 06:24| エッセイ | 更新情報をチェックする