映画は、これは連続殺人犯を追う話だというか、そこに落ち着くまでがけっこう長くて、どういう方向にすすもうとしているのか、最初は、よくわからない。ただ、基本的路線がみえてくるようになると、人物たちを、スターリン体制下のソ連という、困難な抑圧状況に置くことで、操作や謎解きを、二重三重に難しくする仕掛けが講じられていることもみえてくる。そこが面白いところだと思われるのだが、ただ、困難な状況における、犯罪とその解決、そのなかにおける男女の関係の深化という物語ジャンルの場所として、第二次世界大戦下での市民生活とともによく選ばれるのが抑圧体制下のソ連である(たとえばストッパードが脚本を書いた映画『ロシア・ハウス』など)。しかし、その時、困難な状況をいかに打破するか、その歴史的社会的道義的意味とはなにかを考えたり訴えたりする要素が、背景に追いやられてしまう点、物足りなさというか、違和感が生まれる。たとえば第二次大戦下、米軍による連日の空襲にさらされ、国民生活が内外の敵によって圧迫されている東京において連続殺人犯を捜査する小説があるとすると、そこまでしなくとも、どっちか一つの物語にしてくれという願望、あるいは東京大空襲下の市民生活を背景に使わないでくれという批判は、生まれるような気がする。
同じことは、この作品についても言えるだろう――たとえこの映画が、あるいは原作が、「ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔」と呼ばれた実在の連続殺人犯アンドレイ・チカチーノをモデルとしているとしても。
『イタリアは呼んでいる』のなかで、主役のトム・ハーディは、何を言っているのかわからないと、そのせりふ回しというか口調を揶揄されていが、この映画では、ロシア訛の英語をぼそぼそとしゃべっていて、簡単な内容なら、聞き取れるが、難しい内容となると、よく聞き取れない。とはいえハリウッド映画におけるトム・ハーディは、バットマン映画の悪役としての面、あるいは新生マッド・マックスだけではなく、『欲望のヴァージニア』のトム・ハーディでもある。このことは映画の最初のほうで、反逆罪で追われる獣医アナトリー・ブロツキーをジェイソン・クラークが演じていて、クラークとトム・ハーディとの共演から思わず『欲望の……』を思い出したからでもあるのだが(あの映画はトム・ハーディがなかなか死ななくても面白かったが)。またトム・ハーディは、今作で将軍を演じているゲイリー・オールドマンとは、『裏切りのサーカス』でも共演しているのだが、あのころの、やさ男のトム・ハーディの面影は、この作品にはない(とはいえ、トム・ハーディは、『ダークナイト・ライジング』でゲイリー・オールドマンと共演していた)。
ある映画関連のサイトに一般人が投稿できるものがあって、そのなかに
「殺人事件は起こらない」という、現代の私達からすると荒唐無稽な理屈が平然とまかり通っていたことに、まず驚かされます。
と書いている**がいて、こっちのほうが驚かされた。
「楽園(あるいは社会主義体制というユートピア)には殺人事件などあるはずがない」というスターリン体制下での公式見解ゆえに、殺人事件が事故扱いにされ、連続殺人犯が野放しにされるという状況が起こるのだが、「「殺人事件は起こらない」という、現代の私達からすると荒唐無稽な理屈が平然とまかり通っていたことに、まず驚かされます」とは、ほんとうによくも言ったものだ。最近も、いじめで自殺した中学生の事件が、大きく取り上げられているが、詳しい事情はさておき、中学生からのいじめ被害のうったえを、学校側はとりあげていない。実際、これまでのいじめによる自殺事件は、「いじめなどあるはずがない、いじめなどなかった、まったく気づかなかった、いじめなど聞いたこともなかった」という学校側の姿勢にも原因があった。「現代の日本の学校教育という楽園には、いじめなど存在しない」ということが、いじめ被害者を生んできた。「楽園に殺人などない」というかたちで社会主義の体面を保とうとしたソ連の体制はひどいものだが、「いじめなど気づかなかった、存在しなかった」という現代日本の学校側の姿勢もまたひどいものだと気づかないのはどうしてなのか。
そもそも安保法制に抗議する目的で、連日、国会議事堂まえに多くの人々が集まっているのに、それを報道しない報道機関もあるという現実を、どう考えるのか。安倍政権という株主と富裕層にとっての楽園には、反対デモなど存在しないという姿勢を貫くメディアがある以上、誰が、昔のソ連のスターリン体制を批判したり、驚いたりできるというのか。
ちなみに上記の能天気なコメントは、映画関連のサイトに、いつも「賛否両論チェック」というのを最初に書いている投稿者のコメントだ。この「賛否両論チェック」というコメントを見ると、いつもうんざりするので、こいつの見ている映画だけは、誰が見るかと思うのだが、今回は気づかずに映画のほうを先に見てしまった。そもそも、そのサイトは5点満点で評価するサイトである。「賛否両論チェック」というコメントが、上から目線ではないかというようなことは言わないようにするが、賛否両論というのなら、通常(どんな作品に対しても、満点とか零点はないとすれば)作品に4点をつける観客もいれば、2点か1点しか付けない観客もいるということだろう。よいところもあれば、わるいところもある、両者が拮抗しているときに、「賛否両論チェック」ということが言える。圧倒的にすばらしい、あるいは圧倒的にひどい映画であれば、賛否両論とはならない。したがって賛否両論があるという場合は、繰り返すが、通常は、5点満点で4点をつける人もいれば、2点しかつけない人もいるということだろう。賛否両論チェックというコメントをつけていたら、5点評価ができない、もしくはみんな星三つで落ち着いてしまうということではないか。そんなこともわからないのは、おかしいとしかいいようがない。ちなみに今回の作品は、そのコメントによれば星二つ。そのため自動的に残念に思った人に分類された。本人は、上から目線かもしれないが、冷静にコメントしていて、ひょっとしたら「よかった」側に入ろうと思っていたかもしれないのだが、自動的に星二つは「残念だった」側に組み込まれたた。そこがちょっと面白い。
この映画でトム・ハーディの妻役のナオミ・パラスに、私が初めて会ったのは、『ドラゴン・タトゥーの女』【スウェーデン映画】だったが、この三部作の第一部は、原作では、けっこうな分量があった。映画化に際しては、長さを感じさせないつくりをされていて、映画そのものは、あっというまに終わった感じがしたが、今回の映画は、主要な事件は、短期間に起こっている(たとえば最後においても主人公が直前にうけた傷がなおっていないらしいことがわかり、また、子供たちの心の傷もなおっていないことがわかる)のだが、同時に、第二次世界大戦前にもさかのぼる長い時間を感じさせるドラマともなっている。ちなみにIMDbによれば、映画は編集前のものは5時間30分だったそうで、まあ、そのくらいの長さはあってもおかしくないと思った。完成版は、多くの要素が、丁寧に説明されるというよりも暗示されるままに終わっている。大河ドラマの総集編というところがないわけではない。
付記:たとえば第二次世界大戦中のドイツ軍のおそるべき報復部隊の話が出てくる。大戦中、ロシアを侵略するドイツ軍は、本体が進軍したあと、報復部隊が、そのあとに続き、ロシアの住民【民間人】を虐殺していった。ニキータ・ミハルコフ監督の三部作のうち『戦火のナージャ』(2010)にも、このドイツの絶滅報復部隊が登場している。この報復部隊の話が、どうなったのか、今回の映画では最後まで語られることはなかった。また、この映画のテーマのひとつは孤児なのだが、それはまたロシア/ソヴィエト文学の大きなテーマのひとつではないかと思いたることがあり(映画化もされたショーロホフの『人間の運命』)、刺激的な映画であった。
