(呉美保監督2015)は、私が、上半期(といっても、私の上半期は4月からはじまるのだが)で見た映画のなかではベストなもののひとつ。
呉美保監督の『そこのみにて光輝く』(2014)は、昨年度、高く評価された映画だったが、私的には、近藤龍人撮影監督の映像はすばらしものがあったけれども、ああいう話が大好きな私なのだが、どういうわけか、あまり感銘を受けなかった。原作は読んでいないが、三部作のうちのひとつでもある『そこのみにて』だけで函館観を出さなくてもよかったのかもしれないけれど、たまたま函館出身の人に、あの映画のどこが函館らしいところなのかと聞いてみた。そもそも観光案内映画ではないから、いかそうめんとか、五稜郭などを出す必要は全くないと思うのだが、しかし、同時に、日本のどこの港町でもよいような気がしたので。すると、売春をあっせんする、場末のスナック街のようす、あれが函館的だといわれ、え、そうなのと絶句。一人しか聞いていないので、その答えのみ真実とは言えないかもしれないが。
『きみはいい子』のほうは、重いテーマといえば、それですむのかもしれないが、こんなに心が痛い映画は、最近見たことがない。と同時に、痛すぎるけれども、こんなに面白い映画も最近みたことがない。
原作は重いテーマを扱いながらも、最後に一筋の光がさしこむような短編の連作からなる小説とのことだが、原作を読んでいないので、なんともいえないものの、映画のほうは、おそらく、原作よりも、もうすこし、人物を突き放して提示しているようにみえる。群像劇なので、誰が主人公とか中心人物とは言えないのだが、同時に、誰もが最終的に悪人ではないとしても、心の闇をかかえていたり、また、未熟な部分があったりと、欠陥人間たちである。しかも皮肉な状況にもことかかない。
典型的なのは、独り暮らしで、アルツハイマー症状が出ている年老いた女性が、スーパーで、意図的ではないものの知らぬうちに万引きをしていて、それを店員に発見され、事務所に連れていかれる(その後、どうなったのかはわからない)。のちに、その年老いた女性は、隣に暮らしている自閉症の少年が、家の鍵をなくして、自宅に入れないで困っているのを見て、その子の母親が帰宅するまで、自分の家で、休ませる。日ごろから、その子とは声を交わす仲であり、老婆にとって彼は戦争中に死んだ自分の弟のようだという思いがある。やがて、その自閉症の子(演ずるは加部亜門君、自閉症の子を演じさせたら、日本で最高の自閉症役者だと思う)の母親が引き取りに来る。と、それは先日、老婆を万引きの現行犯としてスーパーの事務所に連れ行った店員だった(富田靖子が演じている)。ああ、なんて痛い。まあ、そのエピソード、最終的には、その子に希望をもたらすような結末にはなっているのだけれど、そこにいたるまでが痛すぎる。
まあ、こういうエピソードの連続であり、そこでは児童虐待あるいはいじめ、それにいたるような親子関係の問題が容赦なく暴かれる。高良健吾扮する若い小学校教員の苦悩も、彼自身に問題がないわけではないが、十分に共感と同情を寄せることができるようになっている。
なかでも圧巻は、彼がクラスの全員に出す「宿題」で、翌日、宿題の成果を聞く場面は、おそらく、みればわかるのだが、生徒たちの表情も、素になっていて、あれはフィクションではなく、ドキュメンタリーになっている。つまり「宿題」(それが何かは映画をみてもらえればと思うのだが)は、映画の舞台となっている架空の小学校の架空の生徒たちに課したものではなく、映画のなかで、そのクラスの生徒たちを演ずる子役たちに課したものだとわかる。そのため宿題の成果の報告は、シナリオにそっての演技ではなく、本物なのである。そして高良健吾だって素になって応答しているのだが、そのやりとりを聞いていると、「みんないい子」だと思えてくる。映画のなかの、救いのない状況に、心を痛めるしかない観客にとっても、ここには救いがある。「みんないい子」だと、ほっとするところでもある。宿題の内容にも大きくかかわるのだが、子供たちの素の表情が、ほんとうにいいのだ。
痛い映画だが、結末では、6月なのに桜の花びらが散り、なにか冬が過ぎて春が到来したことを告げるようなところがある。現実には、春ではなくても、象徴的に春が到来してくるのだ。
とはいえ結末(オープンエンディングなのだが)に対して、明るい希望を見出す感想がネット上にけっこうあって、私が悲観的すぎるのかと心配になるくらい、おめでたい人が多すぎる。あの結末、土壇場での救出劇とハッピーエンディングか、さもなければ最悪の場合死傷事件か、どちらかだろう。もちろん、映画は、どちらか、わかないかたちで終わる。結末は、観客の想像力にゆだねられる。だが、これは正しい言い方ではない。観客が自分の好みの結末を想像して、それで満足して終わるということなどないからである。結末のポイントは、観客が、負の可能性を、あそこで救われずに死んでいくか、死に巻き込まれていく子供がいるかもしれないという可能性を、脳裏にふと想起させることにある。全体的にハッピーエンディングに向かう映画そのものにおいて、ふと悲劇を想起すること、悲劇の可能性を忘れないようにすること、それが映画のオープンエンディングの意味だろう。
最終的に、結末の直前まで、映画のなかのメディアが報じているような親からの虐待によって殺される児童とか、いじめによる自殺という事件は起こっていない。希望の光は着実に見えている。しかし、事態は予断をゆるさない。いつ、子供が殺されても、子供が自分から死んでもおかしくない、切迫した状況にあること、扉をあければ地獄がまっている、あるいは地獄は門口にまで迫っている、映画の結末は、扉を隔てて地獄が接している可能性を想起させるとともに、扉を閉ざすのではなく、開けることを強く示唆している。それこそが、死んでゆく子供たちに手を差しのべることになるからだ、と。
