2014年08月18日

イデオロギーとしてのシェイクスピア

8月17日に朝日新聞の読書欄--ニュースの本棚--に、河合祥一郎氏が「シェークスピアと日本人 英国だけのものではない」というエッセイを寄せている。

私はシェイクスピアは英国だけのものではないと思うし、シェイクスピアが世界中でいろいろなかたちで上演されるのは素晴らしいことだと思うし、そうした試みを全面的に支援すべきだと思うし、またそれを楽しみ、そこから学ぶべきだと思うのだが、しかし、シェイクスピアを上演し、またシェイクスピアを観たり読んだりして楽しんでいる受容者にとっては、どうでもいいことかもしれないのだが、「英国だけのものではない、世界のシェイクスピア」というのは、英国では昔から言われていて、イデオロギーが、べったり、ねっとりはりついている、手あかがついたどころではない、汚物まみれの考え方なのだ。

私は大学でシェイクスピアを教えているが、シェイクスピアをイデオロギーとして扱う、汚い仕事からは完全に身を引くことをずいぶん前に決意して、実行しているのだが、河合氏は、むしろ、その責任感の強さから、汚い仕事でも誰かが率先してすべきという考えのもとにと、推測するのだが、イデオロギー性をあえて承知の上で、汚い仕事をされていて、これに対しては、お世辞でも、皮肉でもなんでもなく、頭が下がる。たとえイデオロギー的な汚れ仕事でも、誰かがしないいけない。そうしないとシェイクスピアをめぐる文化(そのすべてがイデオロギー的ではない)の火が消えるからであろう。繰り返し言うが本当に頭が下がる。

たとえばマスコミ、新聞とかテレビなどでシェイクスピアについて語るときには「シェークスピア」と表記しなければならない。ほとんど、いや、すべて翻訳では「シェイクスピア」と表記している。学会名は「日本シェイクスピア協会」である。私のシラバスには、というか私だけではないが、ほとんどの大学のシラバスでは「シェイクスピア」と表記している。河合氏が紹介している本も、たとえば小田島雄志『シェイクスピアの人間学』もふくめて、「シェイクスピア」である。河合氏自身の著書あるいは翻訳でも「シェイクスピア」と表記している。それがマスコミは、自分を何様と思っているのか知れないが、「シェークスピア」とずれた表記にしている。河合氏も、新聞紙上では「シェークスピア」と表記せねばならない、あるいはもしそう表記しなかったら書きなおされるだろう。マスコミの傲慢さは、これをもってしても明確なのだが、河合氏には、ほんとうに御苦労さまとしかいいようがない。

まあ、それはともかく、「世界のシェイクスピア」のどこがイデオロギーなのかということについては、詳しく語っていない。そこで、参考に、次回から翻訳を連載しようと思う。原稿用紙にすると70枚くらいの論文である。

最初は、シェイクスピアの生誕の地、ストラットフォード・アポン・エイヴォンにある噴水給水塔記念碑についての来歴が語られる。最後は、世界のシェイクスピアのイデオロギー性の話である。どんな展開になるのか、お楽しみにと言うことだろう。

ちなみにポランスキー監督の映画『ゴースト・ライター』(2010)は、CIAが英国の首相の政治的見解までもコントロールしてきたという話だったが(同じことは日本でも言えるのだが)、あの映画のなかでトム・ウィルキンソン扮するCIAの大物エージェントが、本拠地と言うか隠れ蓑にしている重要な場所というのが米国イェール大学の演劇クラブという設定になっていて、私は、震えがきそうになった。イェール大学は言わずと知れたCIAのエージェント養成大学でもあり、この映画、本気じゃないかと戦慄が走ったことを覚えている。イェール大学の演劇クラブというのを覚えておいてほしい(架空の存在だが、それらしきものはある)。やがて、そこから「世界のシェイクスピア」コンセプトが生まれてくるからである。
posted by ohashi at 02:11| コメント | 更新情報をチェックする