それなのにベルリン映画祭でアルフレッド・バウアー賞(銀熊賞の一部)を2013年にもらうとは。トロフィーは熊のはずだが、映画のなかに熊は出てこない。
熊が出てこない映画だが、熊つながりで、コメントを。とはいえ、映画は、けっこう衝撃的な映画だった。
三大映画祭週間で渋谷ヒューマントラストで上演中。映画の内容については、そのチラシにこうある
原題:VIC+FLO ont vu un ours 英題:VIC+FLO saw a bear
元囚人のヴィクトリアは60代の女。人生をもう一度まともに戻そうと、保護司ギョームの保護の元、田舎の砂糖小屋に居を構えた。刑務所時代の仲間にして、親密な関係にあったフロレンスと共に。しかし、二人の到来は集落の人々に違和感をもたらし、彼女らに隠遁生活を送らせる。そして、二人が背負う過去が幽霊のように付きまとい、それが結局 二人の命を悲劇的な危機にさらすことになる
監督・脚本:ドゥニ・コテ
出演:ピエレット・ロビテーユ、ロマーヌ・ボーランジェ、マルク=アンドレ・
グロンダン、アンドレア・アーノルド
2013年/カナダ/95分
ということだが、男性監督が撮るレズビアン映画というのは、違和感がないわけではない。映画そのものに違和感があるわけではない。というか序盤が終わり、レズビアン映画だとわかるようになってからは、いかにも定番のレズビアン映画ジャンルの映画だとわかる。ひとりはバイセクシュアルでもあるのだが、二人は元囚人である(正確には一人は仮出所中)という設定にもなっていて、いかにもありがちな話になっている。さらに映画をみているときには気付かなかったが、チラシの映像を見て気付いたのだが、森の木につるしてあるハンモックの布がレインボーカラーに染められていた。あるいは保護観察官をまじえて三人で町に出て、水族館や博物館を見学するシークエンスでは、魚と水、そして電気・ディーゼル機関車の展示、すべて同性愛のシンボルである(と、あとで気付いた)。また三人が入るアジア系のレストラン――そうしたエスニックなおしゃれな店があるという現実効果というよりも、アジア系の店が、同性愛者三人が入るにふさわしい店という記号性を発揮しているとみることができる(非ヨーロッパ人や非ヨーロッパ系文化は同性愛的イメージが付着する)。それから忘れてならない、ごみ箱に入れというエピソード。同じ匂いがするというコメントは、最初、保護観察官を侮辱するためのものと思ったが、それもあるのだろうが、彼がゲイであるということの指摘だった(これもあとで気付いた)。と、まあ、同性愛を示す記号がちりばめられている。もちろん保護観察官は除き、二人の女性は最初からレズビアンであるとわかるから、レインボーカラーのハンモックなど意味がないのだが、記号と装飾として、同性愛的シンボルを多用している。
これはどういうことかと言えば、たとえば、誰がどう見ても、親子である写真に、親子というキャプションをつけるようなもので、よくいえば、被写体から自明性をはぎ取り、被写体の意味をあらてめて問うような異化的手法あるいはメタ的仕掛けかもしれない。この映画は、レズビアンあるいはクィア映画の表象可能性を内省し可能性を押し広げているかもしれない。悪く言うと、いかがわしくなる。うるさく特定のジャンルに押し込めようとしている。あるいは偽物感が漂う。うまくいけば対象の非オーセンティック感、偽物感、模倣の成果というものが、対象の可能性に対する距離をおいた内省と考察へと変貌をとげてゆくかもしれないのだが。
繰り返しになるが、男性監督によるレズビアン映画は、いかにもレズビアン映画でございますという押しつけが、嘘っぽさとなって鼻につくが、そこが刺激となって、レズビアン映画、あるいはクィア映画についての再考をみちびくかもしれないし、それはまた映像の二重性つまりリアリズムとシンボリズムとの合体へと映画そのものを変貌させるかもしれないということだ。
元囚人が同性愛者となる、あるいは監獄における同性愛的世界とその流出ということだけでなく、犯罪者や犯罪者の集団というのは、たとえ出所したあとでも同性愛的な要素とつながる面があるのではないか。いま、クィア短編集のためにシャーロック・ホームズの短編を訳しているが、ホームズ物に限らず、あまたの犯罪者たちには、クィアな影がある。彼らは監獄に入る前からクィアである。
さらにはこの映画では、元囚人に対して向けられる不信の眼や差別的な蔑視のみならず、凶悪な憎悪をこめた眼差しも感じ取れることによって、同性愛者に向けられる暴力的迫害をスクリーンから感じ取れるようにしている。暴力的迫害は、たまたま二人の女性が元囚人つまり元犯罪者だったから、ついてまわるというだけでなく、つまり二人の行為のみならず、同性愛カップルであるという二人の存在にもついてまわることになる。だとしたら、出所した61歳の初老の女性が、半身不随の叔父を訪ねていく序盤から、そこで展開する風景は、まぎれもなくリアルな田園風景であるとしても、同時に、死の国、これから人間を死者の世界へといざなう象徴性、それも凶悪な象徴性も帯びることになる。
まぎれもない自然の森とそのなかにたたずむコテージ。だか、それはまた深い象徴性をおびていた。そしてこの二重性こそ、クィア物語がクローゼット時代から開発した美学の延長線上にあるのではないだろうか。