以下、松岡正剛の千夜千冊 意表編580夜 2002年7月15日の全文を引用する。優れた文章だからではない。その逆で、唾棄すべき文章だからだ。
〇東洋大学に奥井潔という英文学の先生がいた。そのシニカルで挑発的な知的刺激を受けたくて、駿台予備校四谷校にいっとき通ったことがある。受験英語にはほとんど役に立たなかったが、そのかわりグレアム・グリーンやサマセット・モームの短編が透き通るような瑞々しさで堪能できた。
しかし、それはまだ表面上のことで、実際にはなんといってもその美を弄ぶピンセットの先の妖しい毒舌が繰り出すペダンティックな言葉に酔わされた。その奥井センセーがどういう話の順序かは忘れたが、ある昼下がりに『アンナ・カレーニナ』の話をした。「君たちはアンナ・カレーニンという女を知らないだろうね。読んだ者はいるかね?」と、例の挑発的な口調で話し始めたのだ。誰も手をあげなかった。だいたい予備校で読書履歴を問われるなどとは誰も思ってはいやしない。
すると奥井センセーはニヤリと笑って、「あのねえ、大学へ行くのもいいが、アンナ・カレーニンと出会えるかどうか、そのほうがずっと君たちの人生には大きなことなんだよ。わかるかな、この感覚。歓喜がいっさいの後悔を消し去ると思えたとき、アンナ・カレーニンは決断をするんだね」と続けたのである。
〇ぼくはボーッとして聞いていた。「アンナはすべての社会と人間の辛辣を感じて、死ぬんだよ。爆走する列車にみずからの身を投じて、死ぬんだね。女が愛や恋で死ぬなんて、尋常じゃない。それにくらべたら男なんて弱いもんだよ。好きな女に振られたくらいで、すぐに苦しい、辛い、死ぬ死ぬと言い出すが、女はそういう心の深みを体で飲み込むもんだ。知ってるかな、そういう女の深さを。いや深さというより、これは女のね、美しくも苦い味というもんだ。そのアンナ・カレーニンが死を選ぶんだね」。
女も知らなければ、その深さも苦さも、そういうことをまったく知らないぼくは、もうひたすらボーッとして聞いていた。かまわず奥井センセーは続けている。
「アンナは人妻なんだな。北方の大都ペテルブルクの社交界の美貌のスターだよ。夫のカレーニンは政府高官でね、社会の形骸を体じゅう身につけて面子を気にする男だね。君たちもこうなったらおしまいという男だよ。そういう身にありながらアンナはヴロンスキーという貴公子のような青年将校に恋をするんだな。女は青年将校にこそ惚れる、その凛然というものにね、ハッハッハ」。
人妻。青年将校。凛然。女は男の凛然に惚れる‥‥?? ぼくのウブな頭はクラクラしはじめていた。
「まあ、君たちには女はわからんだろうね。青年将校こそが男の中の青い果実なんだよ。2・26事件の青年将校なんて、日本人の男の究極だよ。そうだろ。美しい女はそれを見逃さない。しかも人妻はね。しかしねえ、君たちにはキチイがせいぜい理想の娘というところだろうな。キチイは青年将校に惚れるんだが、アンナとヴロンスキーが昵懇になったので諦める。まあ、読んでみなさい。キチイの娘心よりもアンナの女心がわかるようになったら、たいしたもんだ」。
奥井センセーがあと何を言ったか、おぼえていない。まるで別世界の話を浴びせられたようなものだった。ただそのときのアンナの印象が忘れられなくて、白樺派が依拠したトルストイなんて読むものかと思っていたぼくは、数日後に夢中に『アンナ・カレーニナ』にとりくんでいた。
〇 読みはじめて驚いた。いつまでたってもアンナ・カレーニンが出てこない。さきほど手元の文庫本で調べてみたらやはり130ページまで登場しない。
おそらくこんな小説はほかにはあるまい。ヒロインの動きがふつうの長さの小説なら終わりに近いほどの場面になってやっと始まるわけだから、それだけでも前代未聞である。とくにぼくは奥井センセーの挑発に乗ったわけなので、それこそすぐにアンナ・カレーニンに出会えるものと思っていたのだが、開幕このかたオブロンスキー家の出来事やキチイの愛くるしい姿にばかり付き合わされる。たしかに奥井センセーが言うように、これではうっかりキチイに惑わされてしまう。焦(じ)らされたというのか、裏切られたというのか、ぼくは呆れてしまった。
ところが、いったんアンナが出現したとたん、物語の舞台はガラリと一変する。青年士官ヴロンスキーの焼きつくような気概と恋情とともに、われわれは漆黒のビロードの、真紅のドレスの、いつも身を反らすように立つ人妻の、知も愛も知り尽くしていながら夫カレーニンだけには厭きているにもかかわらず、男にも子供にも通りすがりの者にも愛される絶世の美女アンナ・カレーニンの魅力の囚人になっていく。
これだけでも、トルストイという魂胆のすさまじさを思い知らされたものである。
〇聞きしに勝る作品である。アンナ見たさに不純な動機で読んだぼくには、こんな作品とはまったく想像ができなかった。なんというのか、圧倒的なのだ。
かつてドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』について書いたものである。「文学作品として完璧なものである」。またそれにつづけて「現代ヨーロッパ文学のなかには比肩するものがない」とさえ言い切った。トーマス・マンすら唸ったようだ、「全体の構図も細部の仕上げも、一点の非の打ちどころがない」。こんな絶賛はめったにありえない。
これはよほどのことである。およそ文学作品が「完璧」であるとか「一点の非の打ちどころもない」などと評価されたことはない。しかも『アンナ・カレーニナ』は大長編なのだ。新潮文庫で上484ページ、中633ページ、下551ページ。全8部全1668ページの堂々たる大河小説である。それが「一点の非の打ちどころもない完璧な作品」と激賞される。
実際にもトルストイは書き出しだけで17回(これはよくあることだが、それにしても17回は多い)、全般にわたってはなんと12回の改稿をくりかえした。完成まで5年、その何十本もの細工刀で彫琢された芸術的完成度はトルストイにおいて最高傑作となったばかりか、ドストエフスキーやマンが言うように、近現代文学がめざしたあらゆる作品の至高点を示した。しかし、どうしてそんなことが可能になったのかということになると、われわれはお手上げになる。レオナルドやゲーテやベートーベンを漠然と思い浮かべるしかなくなっていく。
チェーホフがその点については、わずかにこんなヒントを書いている。「『アンナ・カレーニナ』にはすべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです」。すべての問題を正確に書くとは、すべての人間を正確に書いたということでもある。そんなありえないことがおこったのである。トルストイにはそれができたのだ。ぼくは白樺派が何に憧れたか、ちょっとだけだが見当がついたものだった。
〇しかし、ぼくはチェーホフの水準にはとうてい達しなかった。奥井センセーの挑発のままにひたすらアンナ・カレーニンの幻影を追って読んだにすぎなかった。
高校3年生が完璧に描かれた人妻の愛と死の境涯を追跡したところで、徒労に終わるだけである。ドストエフスキーならまだ哲学できる。ぼくはトルストイの前にはずっとドストエフスキーを読んでいたのだが、そこでは程度の差はあれ、ともかくいろいろなことを考えた。それがドストエフスキー文学というものだ。
ところがトルストイはすべてを書いている。アンナの崇高な嫉妬もキチイの可憐な失望も、ヴロンスキーの端正な冷淡も、オブロンスキーの裏側にひそむ良心も、カレーニンの面子を貫く社会的倫理観も、すべてをあますところなく書いた。書き残さなかったものがない。
ぼくは何も考えつけないままに、打ちのめされていた。
この、何もすることがなく感銘してしまうという感覚は、その後に何かに似ているように思えた。それが何なのか、ずいぶん掴めないままにいたのだが、スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を見終わったとき、ふと、「ひょっとすると、これなのかな」と思った。
丹念に描かれた映画こそが『アンナ・カレーニナ』の読後感に似ているのだ。映画館に入り、またたくまに2時間・3時間の人間と風景と街区のドラマに見入って、その映画が終わってしまったときの、あの何も発することができなくなってしまった感覚である。音楽を浴び、カメラのままに惑わされ、セリフとともに感情を掻きまわされ、部屋の一隅に入る光に誘われ、食器とフォークがたてる音が迫り、ただただ身を頑なにして映画館に座りつづけたあの感銘である。
だとすればトルストイは完璧な映画監督なのである。しかし、トルストイは音楽を使わなかった。眩しい光も使わなかった。トルストイはひたすら言葉と文章だけによって、全身没頭感覚をわれわれの「眼」に見えるようにした。
はっきり言って、この文章を読んで吐き気がした。松岡正剛のこのサイトは、それなりにすばらしいサイトだと、好き嫌いを通り越して、称賛していたのだが、これはひどい。松岡正剛も、最初のほうに出てくる奥井潔という予備校講師も、『アンナ・カレーニナ』を読んでいない。読んでいないから、こんなひどい文章が書けるのだ。もちろん私は超能力者ではないから、彼らがほんとうに絶対に読んでいないとまでは見抜けない。しかし、彼らは、まるで読んだことがないかのような書き方をしている。読んだことがあるなら、松岡も奥井も、別のことを書きそうなものである。『戦争と平和』で決闘に勝ってしまったピョートルの言葉を引用すれば「なんたる愚劣」。『ライ麦畑』のホールデンの口癖を使えば、松岡も奥井も、フォーニーである。似たものどうし、馬鹿ペアである。松岡の文章を読むと、ほんとうに吐き気がする。
もちろん私もずいぶん昔に読んだ本だから、その大半、いやほとんどは忘れているから、松岡=奥井ペアを、読まずに語るなと非難できないのだが、それでも一度でも読んだら、絶対に忘れないことがある。
通常、これはアンナ・カレーニナという子持ちの中年女性の不倫物語だと予想するだろう。しかし実際に読んでみると、アンナの物語のほかに、彼女の兄の妻の妹キティにプロポーズする男が、自分の領地で、理想的な共同体を作り上げるというレーヴィン物語が並行してすすむ。
本当に二つの物語が交互に進む。そして読んでいるのが中学生の頃の私である。中学生にとって、中年の子持ちのオバサンの不倫話が面白いわけがない。その部分は、筋の流れがわかる程度に読み飛ばしたといいたいところだが、中学生である。適当に読み飛ばすという技術をまだ身に付けていない。つまらないなと思いながらも一字一句、目は通した。ただ、つまらないと思いつつ。実際、中盤からは、このおばさん、絶対に捨てられる、もう捨てられているじゃないかと退屈しながら、はやく終わればいい、はやく死ねばいいと思いながら我慢して読んで、レーヴィンの章になるとほんとうに一生懸命読んだ。松岡・奥井の馬鹿コンビは、レーヴィンの章を読んでいないというか、作品を読んでいない。映画くらいをみてそれで話をしているのだ。ほんとうに吐き気がする。
このレーヴィンの部分は、確かに、何が書いてあったかは忘れたが、その社会思想、理想的な共同体のありようについての思索と実験は、中学生の心に滲みた。正直、詳細な議論は忘れたし、また中学生の私にはむつかしかったかもしれないが、ただ、学ばせてもらった。おそらく今の私の社会思想あるいはユートピア思想の原基になるものは、トルストイのこの『アンナ・カレーニナ』におけるレーヴィンの思想だと思う。もちろんレーヴィンは、中学生にも、トルストイの思想と重なっていることは、理解できた。そして松岡や奥井のようにではなく、トルストイを『アンナ・カレーニナ』を最初から最後まで読んだ人たちは、このレーヴィンの思想については感銘をうけたはずである。またレーヴィンをめぐる物語も興味深い。キティと結婚してからは、レーヴィンの領地経営も軌道にのり、またキティの驚くべき成長あるいは彼女の本来の人間性の発露によって、物語自体も未来志向の希望に満ちたハッピーエンドに向かう。一方、アンナ・カレーニナの物語は、未来がなく、破滅に向かってまっしぐらに進んでいくようになる。そう、松岡とか奥井のような詐欺師、うそつきとちがって、ほんとうに『アンナ・カレーニナ』を読んだ人たちは、主人公はレーヴィンであって、アンナ・カレーニナは端役であると断言することが多いのである。
中学生の私はレーヴィンの部分しか、興味をもって読めなかったのだが、もうすこし大人になると、アンナの不倫物語についても、その情念と愛欲と破滅のドラマのほうが面白くなるはずである。おそらく現在の若い世代には--彼らは理想を失った世代(失礼)かもしれないので--、レーヴィンの悪戦苦闘と揺るがぬ理想は、なんら興味をひかないかもしれない(それこそ奇跡のリンゴにおける無農薬リンゴの育成と同じくらいか、それ以上の苦闘と苦悩があるのだが、このリンゴ物語に感動する現在の若い世代も、それがリンゴではなく理想社会となるとにわかに興味を失うにちがいない)。また私が読み返す勇気がないのは(まあ、時間もないことは確かだが)、中学生ではなくなってから現在に至る私は、アンナ・カレーニナの不倫話についても強く惹かれることはまちがいので、そのぶんレーヴィン物語への関心が薄らぐのではないか、それはまたレーヴィン物語に感動した少年頃の私を裏切るような気がしてならず、読み直していない、勇気が出ないのである。
ただ、もっと大人になると、言い換えると文学研究者としての立場からすると(とはいえそれは一般読者と大きく変わるものではないが)、あるいは松岡とか奥井が、もしほんとうに読んでいたとすれば、絶対に考えずにはいられなかった問題としては、トルストイがアンナの物語とレーヴィンの物語を、交互に書いたその意図はどのへんにあるかということである。おそらく、それについて自分なりの解答をみつけないと、ほんとうに読んだとは言えないだろう。
対比というのはすぐに思い浮かぶ、凡庸な解答である。かたや不道徳な不倫物語で破滅しかなく未来なき物語、かたや人間的思いやりと理想をつらぬく道徳的な、そして未来のある物語。両者を並置することで、それぞれの不道徳性や道徳性が際立つことになる。単純だが力強い、凡庸だが安定した、二項対立が生ずるということなのか。トルストイのどっしりとした分厚い本の特質としては、これ以上、揺るがぬ構成はないということになる。
しかし脱構築的に、二つの物語は、正反対であるかにみえて実は同じなのだと考えることはできないか。アンナとレーヴィンは、正反対の生き方をする二人ではなく、ともに同じような生き方をする分身関係にある、と。レーヴィンの物語をトルストイが書きたかったことはまぎないないだろう。しかし、もしそうなら、その引き立て役として、わざわざアンナ・カレーニナのことを、あれほど詳しく力を入れて書いただろうか。たとえ最初は引き立て役だったとしても、アンナは最終的に独り立ちして登場人物に、あるいは主人公に成長したともいえるだろう。確かに不倫物語は19世紀ヨーロッパ小説のなかでは王道を行くものであったし、本格的な不倫小説を書くという意図がトルストイにわかなかったとしたら、そちらのほうが謎である。フローベールの『ボヴァリー夫人』がすぐに思い浮かぶが、それとともに「ボヴァリー夫人は私だ」と語った作者自身の言葉も思い浮かぶ。アン・カレーニナ自身も、レーヴィンの分身であり、レーヴィンがトルストイの分身だとしたら、アンナ・カレーニナはトルストイ自身でもあろう。
脱構築的に考えれば、つまりレーヴィン=アンナと考えれば、理想の共同体を構想することは、アンナと同様に、社会から冷遇され、社会から孤立して苦悩することである。理想をつらぬくことは、当時の社会にあっても、21世紀の現在においても、不道徳であり堕落であり、あってはならない腐敗なのである。もし理想を貫くことが奨励され、また多くの人が理想をつらぬき、理想の共同体をつくろうとしたら、日本人のほとんどが、ちょび髭をつければヒトラーに良く似ている宰相に日本を引き渡すことなどないだろう。理想的共同体を作ろうとすることは、不倫と同じく、スキャンダラスこの上もない、悪逆非道の行為なのである。
一方、アンナもまたレーヴィンだと考えれば、18歳から愛のない結婚を続けるアンナにとって、ヴロンスキーという青年将校が、どれほど中身のない人間であっても、それは関係なく、彼との不倫のなかに、結婚生活いや彼女の人生のなかで見出すことができなかった理想的な人間関係を見たのである。彼女もまた理想的な共同体をつくろうと努力するのであり、それが実現したかに見えた瞬間、社交界による冷酷なつまはじきに状態に陥ってしまう。彼女にとって、欲望を貫くこととは、理想的人間関係を実現することであり、それは不道徳どころか道徳的行為なのである。彼女は不道徳の不倫ゆえに死んだのではない。理想を求める道徳的行為によって死へと追いやられたのである。かくしてレーヴィンの道徳性は、社会から不道徳だとみられることであり、アンナ・カレーニナの道徳性もまた、社会から不道徳だとみなされることに起因する。あるいはこうも言える。理想をつらなくことは、不倫と同じように、自分の欲望に忠実であることであり、それは、なににもまして快楽である。理想の追求は禁欲的なことではなく、むしろ快楽そのものなのだ、と。
たとえばこのように二つの物語の関係を見極めるとき、トルストイの『アンナ・カレーニナ』は、転向右翼のドストエフスキーには書けない深淵を私たちに見せてくれるのだと言えないだろうか。
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