最近名前が変わったイオンシネマ板橋は、24区内にあるロードショー中心のシネコンなのだが、同時に、ありがたいことに、単館上映映画も時々公開してくれて、その恩恵に浴している。『スプリング・ブレイカーズ』は、渋谷のシネマライズに行かなくとも、見ることができる。渋谷が遠いところに暮らしている住民にとって、これは、ともてありがたい。『スプリング・ブレイカーズ』の予告編をみたときから、ハーモニー・コリン監督の新作をみるしかないと思ったのは、たぶん渋谷のシネマライズでクローネンバーグの息子が監督して映画を観たときのことだと思う。
ハーモニー・コリン監督の新作(2012)は予想以上の作品で驚き当惑しつつ満足した自分がいた。スプリング・ブレイカーズとはスプリング・ブレイクSpring Break(春休み)を謳歌している学生たち(旅行をしたり羽目を外したり)のことで、仲良し(あるいは不良も含む)4人組の女の子たちが、春休み、退屈な学園生活に別れを告げて若者たちが集まる避暑地に行く。だかそこには誘惑の罠が待ち構えていた。というストーリー展開。実際中盤までは、そのように進む。事態が危ない方向に進むのは、彼女たちがドラッグ服用のため逮捕されたあと、謎の男が保釈金を払ってくれてからである。ジェイムズ・フランコ扮するこの男、見るからに怪しいドラッグ・ディーラーといういでたちで、彼との交流を通して女子学生たちは犯罪者の世界へと誘われ、後戻りできなくなって、おそらく破滅するだろう、と私たちいや、すくなくとも私は予想した。
ところが違う。ネット上に「題材はいいのに後半からあれ?って感じ。 (投稿日:7/11)」と題された映画評をみつけた。以下選択的に引用する。
今を輝くアメリカのティーンたちに人気絶頂の女の子ら4人が出てるってことで……観にに行きました。ヴァネッサハジェンズどーしたの?ハイスクールミュージカルの時とイメージ違いすぎて、最初セレーナゴメスの役とごっちゃになったくらい!でも内容はひたすらはじけまくりのドラッグとセックスに溺れまくりの若者たち。それとあのオズはじまりの戦いに出てたフランコがあんな飛んだ役してるとは、気づきませんでした。4人で一緒にいるとこまでいいんだけど、段々現実離れし【てゆき】おかしな方向に? ……誰かが書いてたけどBarとかでスライドショーに使うならいいくらい、内容は全然深くない。
ハーモニー・コリン馬鹿にしちゃダメで、内容が全然深くないのは、あなたの映画ですよ。
そのフェイス/セレーナ・ゴメスは事態の深刻さに気付き、家に帰りたいという。残り三人は、能天気に残るといい、ゴメスを帰らないように説得する。彼女が泣いて哀願してもジェームズ・フランコは返そうとしないし、残り3人は危険な状況に無頓着であり、見ていてはらはらする。それ以前にセレーナ・ゴメスは家族には「ここにきて楽しく、よい人たちのとのつながりができ、自分を見つけることができた」と電話している。こんな毎日の酒とドラッグの馬鹿騒ぎに、自分探しの答えなどあるやずもないと観ている者は思う。その彼女も仲間とともに警察に逮捕され、誰がどう見ても怪しい男に保釈金を払ってもらい、彼に犯罪者世界を引き回されるに及んで、ようやく現実に目が覚めた。おそらく彼女一人だけが危機を察知している。最終的に帰宅をしつこく要求する彼女は願いがとおって、ひとりバスに乗る。もし彼女の両親なら、あるいは彼女くらいの娘をもつ両親なら、彼女がその地を離れることができって、思わず、やった~とガッツポーズをとっているにちがいない。そのくらい観ていてホッとする。だが彼女は安堵して帰宅の途につくのではなく、バスの座席でなにか絶望している。友達を危険な状況に置いて自分だけ帰ったことに対する罪悪感なのか全く元気がないのだ。まあ、そんなものかと思うが。同じことがもう一度起こる。
コティ/レイチェル・コリンの覚醒は、腕に銃弾が当たった時である。ギャングどうしの抗争のなかで相手方が撃った銃弾の一つが彼女の腕に当たる。その痛みと恐怖のなか、彼女は帰宅を決心する。そしてフェイスが帰って行ったのと同じ路線バスに乗る。観ている側は、これで彼女も助かったのだと安堵する。拍手喝采したい。彼女の友人、悪の二人組女たちはジェイムズ・フランコと破滅すればいいのにと思ってしまう。しかし、彼女もまたフェイスと同様、沈痛な面持ち憂鬱に沈んでいる。彼女にとって罪悪があるのだろうか。友人二人を残してきたことの。
しかし、私たちはここで、悪の誘惑があり、その破滅へと彼女たちがまっしぐらに進んでいたが、一人、二人と、そこからエスケープすることができたというように考えてきた。そちらに期待の方向を設定した。しかし、そうではないこと、この期待の方向は、最終的に見事に裏切られることによって、私たちは、みずからのパースペクティヴを修正せねばならないことを悟るのである。その修正ができない限り、内容がないだの、永遠の春休みの代償だとのありきたりな、それこそ内容のない感想を述べるしかなくなってしまう。
スプリング・ブレイカーというのは、春休みSpring Breakから来ているわけだが、しかし、このブレイク、ブレイカーには、休暇、休日、休みというのんびりした平和なイメージのほかに破壊・決壊・断絶という凶悪なイメージもある。ブレイカーには休日を満喫する者という意味のほかに「破壊者」のイメージもあろう。スプリングは、そのまま春としてもいいが、スプリング・ブレイカーには、生命のみなぎり、再生の季節でもある春を壊すという意味も全くないとは言えないだろう。春=生命と破壊・断絶=死、生と死、この二重のイメージがスプリング・ブレイカーには共存している。
もちろんこれはたんなる言葉遊び(意味の二重性の過剰なまでの強調)であって、それがどうしたのかと言われるかもしれないが、この言葉の二重性は、春休みの馬鹿騒ぎのなかにある凶悪さとシンクロしているかにみえる。羽目を外した馬鹿騒ぎには、たんに青春を謳歌する若者たちのエネルギーの発露というにとどまらない、なにか破壊衝動のようなもの、純然たる無償の破壊性と死の欲動のようなものがある。避暑地の海岸に集う若者たちは、たんに春休みになり学園生活から解放され青春を謳歌する学生たちだけではない。地元の不良グループから麻薬の売人たち、ストリートギャングら、普段の学生生活ではお目にかかることのない闇の勢力が湧き出て学生たちのところに迫ってくる。そして明るい無意味な馬鹿騒ぎが、闇の勢力の饗宴へと反転する。永遠の春休みとは、永遠の享楽へと身を捧げることなのである。それも地獄の大王に仕えるように、悪魔の奴隷となるかのように。そしてそれが自分の中にある破壊しつつ破壊されたいと言うSM衝動の発見へとつながるのである。4人組は、自分を発見したと家族に告げる。そこに嘘はない。自分のなかに死を破壊者を発見したのだから。ただ、その自己発見に耐えられるかどうかによって、4人の運命が決まる。
フェイス/セレーナ・ゴメスとコティ/レイチェル・コリンが先に自分の家に帰るべくバスに乗る。私たちは、安堵のため息をつきながら、彼女たち二人の無事の帰還を喜ぶ。だが彼女たちは無事の帰還・脱出を喜ぶどころか、うなだれている。まるで敗残者のように。そう彼女たち二人は脱出成功者というよりも目的地に到着しなまま返された落伍者なのだ。彼女たちは、春休みのカーニヴァル的乱交のなかに浮上する死の腐臭にたじろいで逃げ出したのである。残った二人は、そういうことはなかった。そもそも春休みの旅行資金をねん出するためにダイナーに強盗に入るくらいで、しかも武器は水鉄砲とトンカチで、一度も発砲することなく(水鉄砲なので)、その迫力で客から金をまきあげた二人組である。なかばプロと言ってもいい。その彼女たちがジェイムズ・フランコ扮する麻薬の売人に騙されて誘惑されるかにみえるが、それは逆で、彼女がたちがジェイムズ・フランコを利用しているのである。しかも強がってはいるが臆病者のジェイムズ・フランコとは異なり、彼女たちは、肝っ玉が据わっていて、フランコのかつての親友で現在はライヴァルで町を牛耳っている黒人のボスを、放置しつつ、手下を射殺し続け、最後にボスに辿り着く。彼女たちの春休みはそこで、終わるのである。
まるでゲームだともいえる。彼女たちの最初の課題は、資金集めであり、そのためにダイナーで強盗をするという命令を科せられる。見事それに成功した彼女たちは、やがて、警察に逮捕されるが、保釈され、保釈金を出した麻薬売人にどう対処するかで、さらなるステージに上がることができる。この売人は、彼女たちが春休みの精神である死と破壊衝動を全面的に発露させるための試練のなかでは、とるにたらない脇役、あるいはすぐに超えられる障害にすぎない。それに気づかず、まるで悪魔であるかのように恐れて、リタイアしたのがフェイスであった。そもそも悪魔あるいは悪の代理人は、麻薬の売人ではなく彼女たちであることに気付くべきなのだ。コティは肉体的苦痛によって覚醒という逃げ道に赴くことになり、第二の落伍者となった。その程度の苦痛など意に介さず、さらに大きな苦痛と打撃を相手に与えるべくリヴェンジするのが春休みの破壊精神なのである。そしてリヴェンジのとき、あっけなく射殺されるフランコを目撃して、頭の鈍い私たちも、ようやくさとるのである。このリヴェンジも、またこのリヴェンジに至る全体的仮定も、主役はジェイムズ・フランコではなく彼女たちだった、と。うまくいけば4人組が、カーニヴァル的春休みの精神を体現して、破壊の魔女へと変貌を遂げるはずだった。そうでなければ彼女たちの春休みは終わらなかったのである。
ハーモニー・コリンを馬鹿にしてはいけない。美しい映像、音楽とのシンクロ、攻撃的なまでの鮮明さ、そうした映像表現のなかに、同時に、薄暗い闇のなかから現れんと息をひそめているような、いや、もう半分以上、出現しているような、破壊衝動が、犯罪と死の腐臭を感得できる。前半の羽目をはずした馬鹿騒ぎは、後半の犯罪を呼び覚ます儀式だったのである。そしてアメリカ社会が、アメリカの芸能界が、アメリカの映画界が、永遠の春休みとはいえなくても、永遠のカーニヴァルならば、それはまた死と破壊衝動を呼び覚まし、絶え間ない犯罪を召喚する儀式なのでもあると言えるかもしれない。
いまでも居酒屋に行くと、馬鹿騒ぎをしている大学生に居合わせて嫌な思いをすることがある。彼らは、仲良しグループが集まって、自然と盛り上がるならまだしも、なにか音頭をとるリーダーがいて、無理やり学生たちを盛り上がらせている。あんなものはうるさくて、ただ迷惑なだけだと思っていたが、その思いは、かわらないが、ああすることで個を集団のなかに埋没させ、凶悪な衝動を発露させることが、馬鹿騒ぎ的宴会の目的そのものであることが、今回の映画を通して理解できた。もちろんその果てに来るのは犯罪的破壊衝動であることはまちがいのだが。
