2025年04月23日

『サイード自身が語るサイード』

今年度の「書物復権2025 復刊書目」(参加出版社:岩波書店、紀伊國屋書店、勁草書房、創元社、東京大学出版会、白水社、法政大学出版局、みすず書房、吉川弘文館)が決定し、私が2006年に紀伊國屋書店から刊行したサイードのインタビュー本、『サイード自身が語るサイード』(エドワード・W・サイード+タリク・アリ)が、その一つに選ばれた。

そのこと自体、嬉しいのだが、また光栄なことなのだが、サイードの著書(インタヴュー)を読みたい読者がいるということは、今なお出口がみえないガザの紛争のせいでもある(それだけではないとしても)とを思うと複雑な気持ちになる。

新装版が5月下旬発売されるとのことなので、どんな装丁になるのかわからないが、とりあえず手元にあるクリーム色に近い白い紙に黒い文字が印字された質素な、簡素な、しかしそのぶん上品な装丁の2006年版をぱらぱらとめくって一部を読んでみた。

その帯には「不屈の知識人が/自らの軌跡をたどる」「活字を通して肉声に触れるサイード入門」とあって、まさに帯の惹句どおりの内容だと改めて認識した。自分でいうのも何だが、これは優れた「サイード入門書」である。

2006年当時のことを思い出すと、インタヴュー集だからといって、ただ機械的に「です・ます」調で訳すのは、文章が単調になって、かえって読みにくいのではないか。とはいえ、リアルな話し言葉で臨場感を演出するというのも、もっと読みにくくなるのではないか(また、そのような表現にするには時間も労力もかかる)、そう考えたあげく、「です・ます調」で統一するが、一部、「である調」の文章語表現にして、内容を把握しやすくする工夫をほどこした。

映画『レッドオクトーバーを追え』(1990ジョン・マクティアナン監督)ではロシアの潜水艦の乗員たちは、艦長役のショーン・コネリーをはじめとして全員が最初はロシア語を話しているのだが、いつのまにか英語で話すようになる。注意していると、どこでロシア語から英語にきりかわったかわかるのだが、ただぼんやりと聞いていると、気づくと台詞が英語になっている。このような工夫は、この映画に限ったものではないが、それと同じような効果を狙って、「です・ます調」の文章が気づくと「である調」にかわるように工夫した(また「ですます調」に必ずもどるのだが)。

とはいえいま読み直すと、その工夫が成功したかどうかは定かではない。読者の判断にゆだねるほかはないのだが。

2006年版の帯には「丁寧な訳注・年譜・著作リスト・人名索引付き」と小さく印字してある。小さすぎ。もっと大きく印字してもいいと思う。

訳注・年譜・著作リスト・人名索引は、いまからみると、きわめて充実している。このような丁寧な訳注は今の私にはできない。そのエネルギーが枯渇している。

もちろん、わかりきった訳注も多く、私の前後の世代の読者には必要ないものかもしれないが、若い読者には便利なものだと思う。また、あまり知られていないことについての説明も充実していて、これは、どの世代の読者にも便利なものだろう。この訳注をもってして、本文は、サイード入門書たるに十分な資格をもっていると断言できる。

またさらに自画自賛になるが、独自に作成した年譜もこまかいコメント付きで、伝記などには書かれていないことにも触れている。いまからみても、年譜の内容についてとくに変更の必要性を認めない。よく調べて書いたと、われながら感心した。

2006年に出版の本だから、サイードの著作リストには、本書刊行時から現在にいたるまでのサイード関連の翻訳書についての情報はない。今回の書物復権2025 は、刊行時の内容にいっさい手を加えないことになっているので、しかたないが、本書にリストアップされているサイードの著作について2006年以後に刊行された翻訳書のリストを次回の記事に挙げておく。2006年版をお持ちの読者も、今回の書物復権2025で購入される読者も、そのリストで情報は網羅的で完璧なものとなろう。

なお著作リストのすべての文献に、その内容を紹介するコメントがついている。これなどもはじめてサイードに接する読者にとっては、ありがたい情報源となろう(自画自賛だが)

索引は人名索引だが、ほぼすべての人名に生没年が入っている。人物説明は訳注にあるが、生没年だけでも有益な情報である。

肝心な内容のほうだが、話題はけっこうあちこち飛ぶが、全体としてみると、サイードというまさに「不屈の知識人」の人となり、またその「軌跡」が、これ一冊、このコンパクトな一冊(本文160ページ)で、実によくわかる。これからサイードの本を読もうとされる読者、あるいはすでにサイードの本をいくつか読まれている読者も、ぜひ、本書を読んでいただきたい。参考になることが、この小さな本にはてんこ盛りである。

ひとつ付け加えると、「ポリティカル・コレクト」を、2006年の私は「政治的適正」と訳している。いまでは「政治的正しさ」という訳語が一般的になって、私の「政治的適正」という訳語は定着しなかったようだ(この訳語でも問題はないのだが)。そのためサイードの『文化と抵抗主義 改訳新版』(みすず書房、2025)では、「政治的適正」をやめて「政治的正しさ」とした。

今回の『サイード自身が語るサイード』のなかで「政治的適正」という表記に違和感を覚えた読者は、それを「政治的正しさ」と読み替えていただければと思う。

ただ私は基本的に臆病者なので「政治的適正」という訳語は、私の独創ではなく、誰かがすでに使っていた訳語であり、それを採用したことは伝えておきたい。けっして、私の独創でも独断的使用でもないのだが、2023年に刊行した『アニマル・スタディーズ』(平凡社)のなかで監訳者としての私は、「政治的適正」という訳語で本文全体を統一したのだが、どこかのバカが、それをまるで誤訳であるかのように扱い、「政治的正しさ」と訳すように偉そうに指摘してきたことがあって、その***を私は絶対に許さないのだが、その***も最近はあちこちで評判を落としているのようなので、私も、怒るのはやめている。

というか今年の2月に出版したサイードの『文化と帝国主義 改訳新版』の新たな訳者あとがきでも、旧版(2巻本)の訳者あとがき同様、私は怒っているのだが、『サイード自身が語るサイード』での訳者あとがきでも、つまり2006年版のあとがきのことだが、私は怒っている。基本的にはサイードに対する誤解と無理解に対して。また『文化と帝国主義』ではサイードへの誤解や無理解に対してだけでなく、現在、ガザで起こっていることに対して。

怒るのはやめようと思っても、現実が悲憤をやむを得ぬものとして生起させる。この悲劇的状況には、いまのところ出口がみえない。

なお付け加えるのなら、サイードについて、アラブのテロリストとまではいかなくても、アラブ出身の三流の研究者あるいは左翼評論家として、右翼のみならずリベラルからも見下していいというへんな差別意識を持っている者(日本人だけに限らない)はけっこういるのだが、生前の本人は、10代の頃からアメリカで暮らしアメリカの教育を受け、アメリカのエリート大学の教養と才知あふれる紳士的な大学教授であって、見下すどころか仰ぎ見るような存在である。サイードに対する批判者で、サイード以上の教養の持主といえる人間を私は知らない(おまえのことだぞ――あ、怒っている)。

サイードが訪日したとき短期間話す機会をもてたのだが、新宿の京王プラザホテルで話を聞いたとき、滞在中、病気にもかかわらず、夜、東京でのクラシック音楽のコンサートに出かけていることがわかった。あいにく、音楽は、私の父と妹の領分で、音楽の話題でサイード氏ともりあがることができなかったのは、かえすがえすも残念なことだったのだが。

『サイード自身が語るサイード』のインタヴュアーはタリク・アリである。タリク・アリはもっと紹介されてしかるべきだと、本書刊行時に2006年に若い読者からコメントをもらったのだが、その通りだと思う。本書の訳者あとがきでは、『インドを支配するファミリー--ネルー・インディラ・ラジブ』(1987)を紹介しているが、ネットで少し調べてみてもタリク・アリの翻訳はあと本書だけのようだ(トロツキーに関する啓蒙書は翻訳されたのだろうか。翻訳されていても、いまは絶版だろう)。

【なお恥をさらせば、訳者あとがきでタリク・アリの翻訳(『インドを支配するファミリー』)を紹介しているが、実は、サイードの『文化と帝国主義』が、その本について触れていた。それを翻訳者である私はまったく気づいていなかった。『文化と帝国主義 改訳新版』では、タリク・アリのこの本の文献情報をしっかり入れている。実は、改訳新版を準備中に、タリク・アリのこの本について、自分がすでに、およそ20年前、『サイード自身が語るサイード』の訳者あとがきで触れていることにまったく気づいていなかった。ぼけ老人である。】

実際のところタリク・アリの旺盛な執筆活動は21世紀に入っても衰えることを知らない。Winston Churchill: His Times, His Crimes (Verso,2022)は絶対に読もうと思っている一冊(読んでないのか)。その小説群を読むチャンスがあるといいのだが、残念ながら、タリク・アリの戯曲にしか出を出せない状態にある。The New Adventures of Don Quixote(2015)は絶対に読もうと思っている(まだ読んでないのかい)。

政治・文化評論、歴史書、小説、戯曲と、多くのジャンルで卓越した仕事をしているタリク・アリは、まさに現在のイギリスの巨人的作者だが、幸か不幸か、本書『サイード自身が語るサイード』では、聞き役にまわっていて、サイードにできるだけ多く語らせようとしている。本書の原題は「エドワード・サイードとの対話」Conversations with Edward Saidだが、タリク・アリとの対話という本が出版され翻訳されてもおかしくない――実際、 Conversations with Taliq Aliという本は存在するのだが。

とまれ、サイードの服装のセンスのよさの紹介からはじまる本書が、エドワード・サイード入門のみならず、現代の文化と歴史への、ガザの惨状への入門となり、平和な明日への道標となってくれることを、翻訳した私としては願わずにはいられない。
posted by ohashi at 01:38| コメント | 更新情報をチェックする