マジで申し訳ない。ミステリのつもりで借りて読んだのに事件が全く起こらず起きるのは上流階級と思われる男女の狭い世界のあれこればっかりで、あれ、いつ首は切られるのかな…と思って最後まで読んで勘違いしてたことに気づいた。登場人物全員がなんかおかしくて変な世界観だったわ。主人公の男が自分は最高だといきってたのにだんだんその世界がまやかしだったと気づく話かな。ミステリのつもりでずっと読んでたせいでよくわからなかった。すみません。
という感想がネット上にあったのだが、クリスチアナ・ブラントの小説あるいは猟奇殺人物の小説とまちがえたということだが、まちがえて読んだ感想をわざわざネット上に載せるというのはどうしたものだろう。
もうひとつ、こんな記事もあった。
アイリス・マードックの小説はできるだけ読んでコメントを書こうと思って読んだのですが、本書はがっかりするものでした。ひたすらワインとウィスキーと痴情のもつれが主題で、男3、女3の主要登場人物が、最終的にはほとんど全部の相手と関係を持ちます。マードックの作品の特徴は、物語が7割以上進んだ時点で、すべての伏線を回収しつつ、圧倒的な力ではっとさせられるような結末へ導くところにあると思うのですが、本書に関しては9割以上進んでもいっこうに着地点が見えません。最初から最後まで「AはXと関係を持った。次にYと関係を持った。それから自分の本当に求めるものはZの愛であると気付き、最終的にZの元へ行った」というつまらない話に終始しています。後期の作品に見られる、物語のスケールの大きさや、知的で刺激的な部分もあまりなくて、マードックはこんな凡庸な小説も書くのか!とさえ思いました。
前後にパラグラフがあるコメントの一部だけを切り取ったのだが、せっかくマードックの小説のファンになろうとするのだから、たとえ予想外の内容だったとしても、つまらないと切り捨てるよりも、つまらないようにみえて実はと、その魅力を掘り下げてもよいのではないだろうか。
私はマードックの小説の熱心な読者ではないが、たしかに『切られた首』は、ロマネスク色の強い作品が多い彼女の小説のなかでは、大人のラブコメというか、ドラマでいうとシェイクスピア劇というよりも王政復古喜劇に近いものがあって、異色作である。
予想もつかない展開があって、たしかに、上記のレヴュウアーが述べているように「AはXと関係を持った。次にYと関係を持った。それから自分の本当に求めるものはZの愛であると気付き、最終的にZの元へ行った」というような話になっているのだが、これがつまらないというのなら、小説全般を読まないほうがいい。
この小説、不倫の連鎖と一種のドタバタ劇に終始しているかにみえて、最後に、深いところに落としていくのは、さすがにマードックという感じがする。
上記のレヴューアーは『切られた首』という、ぶっそうなタイトルがどうしてこの大人のラブコメについているのか、なにも考えていない。それから現代の眼からみれば、もうあたりまえになっていて、とくに気にもならない、どちらかというと軽薄さを助長するような設定だと思うのだが、ワイン輸入業会社の社長である主人公の女性秘書ふたりがレズビアンであったり、主人公が自分のなかにある同性愛的感情を吐露したり、きわめつけとして近親相姦カップルが登場したりする。
こうした要素が、王政復古喜劇の枠組みのなかに埋め込まれているために、そこから倒錯的な欲望のドラマへとつながることはない。倒錯的欲望ですら、ある種のアクセサリーもしくはめくらましあるいは催淫効果をもたらすものとして機能している。現代の風俗喜劇の表層的愛の枠組みのなかで主人公はやがて真の愛を発見してゆく。それは表層的風俗喜劇ではなしえない愛のカタチとなる。つまり、もっと深い、死と直結するような、欲望の闇へといざなうような愛である。それは現代のロンドンからは生まれない危険な神秘的なオリエンタルな愛であり、もっといえば、それは「日本」の愛である。
ちなみにコトバンクにある日本大百科全書(ニッポニカ)の『切られた首』A Severed Head
をみてみると、
イギリスの女流作家、J・I・マードックの長編小説。1961年刊。知識人階級の男女が織り成す綾(あや)取りのように巧緻(こうち)な色模様のドラマ。登場人物は、主人公葡萄酒(ぶどうしゅ)商マーティン・リンチ・ギボン、彼に離婚宣言する妻アントニアとその愛人の精神分析医、その医者の異父妹、またマーティンの愛人、弟などで、自殺、近親相姦(そうかん)などを折り込んで複雑な男女関係を展開する。世界の中心は自分だと思っていた男の世界観の崩壊を、喜劇的に洗練された文体で描いた円熟期の作品。[出淵 博]
『工藤昭雄訳『切られた首』(1963・新潮社)』
とあって、出淵先生の署名入り記事は、実にこの小説を的確に要約している。ただし「日本」が出てくることにふれていない。それはこの小説の美点というよりも欠点とみなされたのかもしれないが。
『切られた首』は、J・B・プリーストリーとマードック本人によって戯曲化され、さらに映画(1970)にもなった。ディック・クレメント監督の小説・戯曲と同名の映画で、リー・レミック、リチャード・アッテンボロー、イアン・ホルム、クレア・ブルームといった配役をみると、けっこう力のこもった本格的な映画だとわかる。けっして凡庸な小説の映画化などではない。その冒頭で、登場人物に似せた人形(指人形のようなもの)が次々と登場してオープニングを飾るのだが、あきらかにクレア・ブルームに似せた人形と思われるものが、日本刀を抱えているのである。「日本」、「日本刀」
「切られた首」というのは、未開人の「干し首」のような呪術的用途で使われる神秘的オブジェをいうのだが、そしてそこに人類学的意味が込められているのだが、それはまた、日本と日本刀に直結する。日本刀の用途は、たんなる武器ではなく、首をはねるものというのが西洋的理解であり、日本刀をふりまわす人類学者の女性(主人公が最終的に究極の愛のありかをみる女性)は、主人公の首を斬りそうになる、去勢するファムファタールである。死と去勢の恐怖によって、主人公は真実の愛を見出すかにみえる。
そしてひょっとしたら、現代の軽佻浮薄な英国人にもまた、そうした呪術的な深層とタナトス的欲望が宿っているのかもしれないと垣間見せることでこの小説は終わっていると私はj考える。
ところで、なぜマードックの『切られた首』かというと、翻訳をしていて、この作品について、その一部を要約的に言及するところがあり、訳注をつけることになった。翻訳情報と言及されている箇所なり部分を示すために、翻訳を読んでみた。一九六〇年出版の工藤昭雄訳のこの本はすでに絶版なのだが、古書としては出回っていて、それを購入した。原書は古いペンギン版でもっていたのだが、行方不明。
工藤昭雄先生は、教わったことはなく、かつての同僚であったのだが(いまは亡くなられた)、「さん」付けして呼ぶのがはばかられるほど威厳があった。威張っているとか厳格なということはなく、むしろ気さくな方だったが、これまでの実績からして(翻訳ではシェイクスピアから現代小説にいたるまでの訳業がある)、仰ぎ見るような方であることはまちがいなく、私にとっては「先生」と呼ぶしなかい存在であった。
その工藤先生の翻訳は、古い翻訳だが、さすがにうまい。会話文のところは、いまからみると、古臭いのだが、これは当時の日本の風俗と日本語の状況からして、それを反映しているので欠陥でもなんでもない。地の文、それもマードックの息の長い、いろいろな修飾がついている記述を、読んですっと頭に入るような美しくまた的確な日本語に訳されていて、私など足元にも及ばない翻訳技術の冴えをみせてもらった。
急いでいることもあって2日間で読んだのだが、いずれまた、じっくり時間をかけて、工藤先生の翻訳を読ませていただこうかと思う。
付記:
私は一度、日本でマードックに会ったことがある。私の学生時代のこと。神田神保町の書店、書泉グランテだったと思うのだが、1階の雑誌コーナーをみていた私は、ふと顔をあげると、そこにマードックがいたのである。写真でみるアイリス・マードックにそっくりな女性が夫君と思われる男性といっしょにいるではないか。私は何かの幻覚をみているのではないかとわが目を疑った。マードックが日本にいるのである。幻覚に違いない。とはいえ夢を見ているわけではないことはわかっていた。そこでそのふたりがなにをしているのか観察した。
二人はレジの店員になにか質問をしているようで、答えを得たらしく、すぐに書店を出た。私はそのあとをつけることにした。すると二人は坂をあがっていて、明治大学のキャンパスに消えていった。あとで調べたら、このとき、マードックとジョン・ベイリー夫妻は日本に来ていて明治大学で講演をしている。やはり私の幻覚でも見間違いでもなかったと、ちょっと安心した。これが私の日本におけるマードック遭遇事件だった。
追記1
この記事をアップした3月12日の午後2時から<ススキノ首切断事件>の裁判員裁判が開かれ、被告の父親に懲役1年4か月・執行猶予4年の有罪判決が言い渡されたことが報じられた。この事件と、今回の記事はまったく関係ない。マードックのこの小説では、誰も首を切られたりしない。
追記2
大学の英文科に入って一年次のときの英語の授業で、はじめて原書で読んだ文学作品というのは、記憶のなかに強く刻印されるのではなかと思う。私の場合、それはアーサー・ミラーの『セールスマンの死』であり、ジョイスの『ダブリン市民』だった。どちらもペンギン・ブックスの原書を買わされた。どちらも今の英文科学生にとっては、一年次で読むにはやや難しい作品ではないかと思うのだが、私の所属した英文科では、多少難しくても、どんどん読ませて英語に慣れるという方針が貫かれていたように思う。そしてもうひとつ、マードック、スパーク、オブライエンの三人の女性作家の短編を一冊にまとめた大学英語の教科書でも学んだ。マードックの作品は“Something Special”という短編(彼女の短編というは、そんなにないはず)で、Nothing Specialな日常のなかでSomething Specialなものを探すのだが、やはりNothing Specialだったというアイルランドでの日常を描くもので、ジョイスのダブリナーズにも通ずるものがある作品だった。授業で読んだせいもあって、大学一年次からマードックの名前と顔は知っていた。神保町駿河台での遭遇は、なにか因縁めいたものを感ずる。