筒井康隆『敵』が出版されたのは1998年1月で、75歳の元大学教授の日常を描くこの作品を、出版当時はさして読みたいとも思わなかったのだが、今回、映画化されたのを機に読んでみた。気づくと私自身が主人公の75歳という年齢に近づいてきた。元大学教授というのも同じ境遇である。
吉田大八監督の映画『敵』(2023年製作、一般公開2025年)と、筒井康隆の小説『敵』とは、原作と映画化作品という関係ではあるものの、それぞれ独立した作品として、どちらがオリジナルで、どちらがアダプテーションかを考えることなく、ふたつのパラレルワールドを展開する同等の作品としてみても面白いのではないかと思う。
映画では主人公を78歳としているが、おそらくこれは主役を演ずる長塚京三の映画撮影時の実年齢にあわせたのだろう。
細かなことをいえば、小説では主人公が要求する講演料は最低でも20万円なのだが、これは相当の売れっ子の元教授でないともらえない額である。おそらく筒井康隆は50万とか100万あるいはそれ以上の講演料をもらっているのだろうから、まあ大学をやめたしがない元教授だから20万円くらいかと考えたのだろうが、高い。実際、映画では10万円以下の講演は引き受けないということになっているが、それでも高い方だと思う。ちなみに私は、私ごときの一回の講演に10万、20万円だすというような依頼は絶対ひきうけない。安ければ安いほど引き受ける。それが老人の美学である。もし私が安い講演あるいは無料の講演依頼を断ったとしたら、それは講演料が安いからではなく、体力の問題であったり、準備期間が少なすぎるとか、講演内容に問題があるからにすぎない。ただし私に講演依頼などくることはめったにないのだが。
あと1997年の小説だと、ネット環境がいまと違いすぎていて、敵がやってくるという情報は、いったいどこで話題になっているのか、私はしたことがないのでよくわからないのだが、いまでいうオープンチャットルームみたいなものか。ラインとも違うようだけれども。
映画版ではさすがに小説出版時の1998年の時点でのネット環境の再現はあきらめて、あやしげな迷惑メールとして「敵」情報が伝えられるにすぎない。
また主人公はパソコンで原稿を書いているので、出来上がった原稿は、そのまま編集者にデータファイルとして送信すればすむのだが、映画では、わざわざ主人公宅まで編集者が原稿をとりにきて、その場で目を通す(小説にはなかった場面であるが)。私自身の場合でも、いまでは編集者に一度も直接会うこともなく翻訳本を上梓するのはふつうのことになっているので、あれは一昔前の時代のことだとノスタルジックな思いすらしてしまった。
映画のなかで鍋料理の場面は、ひとつのクライマックスみたいになっていて、その場に、設定上、参加できなかった俳優が残念に思っていたというトークをネットかなにかで観たのだが、小説のほうは、「ああいう不条理にどこまで耐えられるか、自分を試しただけだよ」と主人公に言わせているのだが(「珍客」の章)、映画のほうは、そこまで不条理ではないが死人が出て、小説よりも深刻な事態に発展する。
というのも小説のほうは、そんなに人は死なない。主人公の妻はすでに死んでいるが、主人公の教え子たちは、鍋料理の場で死ぬ一人を除いて、みな健在である。映画のほうは、主人公の知人が死んだりいなくなったりする。そのため死の影が小説よりも大きい。また映画のほうがホラー的要素が強くなっている。
ちなみに小説では、鍋料理の場で、ほんとうに人が死んだのかどうかわからないともいえる。小説もこの段階で、現実か妄想か、主人公にも読者にも区別がつかなくなる。映画のほうも、どこかの時点で、これは妄想らしい(とくに敵に関するエピソード)と観客も気づくことになると思うのだが、現実と妄想、虚構と事実、外界と内面との境界があいまいになって……。そして映画の最後を迎えることになる。
小説も同じで、現実の中で事件化される敵の存在は、ネット上でのフェイクニュースみたいなものと思えてくるのだが、それがいつしか主人公の内面から湧き出てくる恐怖の存在となってゆく――というか、それは映画のほうか。敵の襲来によって難民となった人々が主人公の家のなかに黒く汚れた群衆となって到来するのだが、それはまた一瞬の幻覚ともなっている。
映画のほうは、現実の背後にある死の世界が次第に存在感を増してゆき、主人公のおだやかで変哲もない日常がそこにとりこまれていくという展開をするが、小説のほうは、死に直面した主人公が息を引き取る前に、その毒を精神内から出し切るという、デトックス物語ともなっている。そしてそのデトックス過程で主人公の思いがさく裂。いうなれば、後半は主人公の脳内劇場となってゆく。
小説ではボブ・フォッシー監督の映画『オール・ザット・ジャズ』について触れられるが、死が迫る演出家がみずからの人生を振り返るとき、それがミュージカルの場面となって去来するというこの映画は、この小説の世界と通底している。小説でも死を覚悟する主人公の頭のなかでは、教え子や三人の女性(死んだ妻、恋愛感情を抱いた教え子、そしてクラブ「夜間飛行」を手伝っている女子大生)への性的妄想がさく裂する――まさに『オール・ザット・ジャズ』の世界のように。さらにそれは脳内劇場へと変貌をとげて、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台に主人公たちを出演させるのだ。このへんは小説を読んでいて圧巻なのだが、映画ではその方向にはすすまない。小説では、『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーのように主人公は愛する人たちに別れを告げる。
正確に言えば、また会いたいという思いをいだきつつ、主人公は死んでゆくのだが、映画ではこの再会の思いを引き受けることになって、主人公は死んでも死なないというか、別モードで生き延びる。いっぽう小説のほうでは、主人公は死ぬ。というか、小説では、死を描くことは容易だし、実際、多くの小説は死を描いてきたし、そもそも文学は死を描くためにこそあるといってもいいのだが、しかし死について描く文学自体は死ぬことはない。そもそも文学あるいは小説は、どのように死ぬのか。
有名な例だが、演劇の場合、舞台で登場人物が死んでも、それは死を演じているだけで、演じている俳優が死ぬわけではない。もし事故とか病気で、舞台で俳優がほんとうに死んでも、観客はそれを演技としてうけとめるだけである。舞台では俳優がほんとうに死んでも、ほんとうに死んだとは受け入れらない。ならば、演劇において虚構とか演技ではない死はどのように表象するのか。
そんなものは表象しなくていいといえばそれまでだが、逆にいうと、俳優は舞台では死ねない(たとえ現実には公演中に亡くなる俳優は多いし、舞台で死ねれば本望という俳優も多いのだが)。なにをやっても演技と思われるだけである。ならば俳優にとって死は、干されて劇場に呼ばれなくなること、あるいは劇場を後にしてどこかへ消えることである。
実際、物語の世界をすべて劇場での出来事に置き換えたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』では、ヒロインの死は、蒸気機関車に轢かれるというメロドラマティクの死ではなくて、出番が終わったので、先に失礼するというかたちで劇場を後にするヒロイン役の俳優の行動によって示されていた――なんというアンチクライマックス、しかし、そうでもしないと〈人生は芝居、人間は俳優、世界は劇場〉というこの映画のコンセプトのなかで死を表象できないのである。
小説の場合はどうか。簡単に理論化できるわけではないので、『敵』に即して考えれば、まずこの主人公の元大学教授は、自分の死を、自分でコントロールしようとしている。ふつうなら、あるいは私が想定している自分の死は、事故などによる不慮の死でなければ、病気で死ぬことだろうが、この主人公は病死の可能性をリアルに考えていない。そこが不思議なところ。主人公が望むのは自死である。その方法なども考えている。
しかし小説では、主人公は予行演習はするものの、その後、とくに病気もケガもせずに、いつのまにか意識が遠のいていって死んでいる。その間、敵に関する記述が多くなる。また映画でも同様に後半になって敵による影響が現実あるいは主人公の意識に入り込んでくる。そのために、どうやら主人公は身体的な病気とか体力の衰え以前に認知症をわずらって死んでゆくのではないかと思われる。敵の存在におびえるのは認知症の徴候である。また認知症になったら先は長くないともよく言われる。
だが若年性の認知症にならなくても、人は死ぬときには誰でも認知症になる。現実と幻想との区別がつかなくなる。過去と現在が入り混じる。自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。そうして意識が混濁するなか死を迎える。私自身、そうして死んでゆくだろうと思う。認知症になったから死ぬのではなく、死ぬから認知症になるのである。
筒井康隆氏は新書『老人の美学』(2019)の中で、『敵』を出版した頃、森毅氏と対談したときのことに触れ、森毅が、モダニズム小説というのは過去と現在をいったりきたり、現実と幻想との区別がないような書き方をしていて、認知症的だというコメントをしたことを伝えている。
そういわれてしまえば、まさにその通りなのだが、認知症的世界の客観的相関物は、モダニズム小説だけではない。フローリアン・ゼレール戯曲『Le Père 父』(2012)は日本でも翻訳上演されたと思うが観ていないのだが、ゼレール自身が監督した映画『ファーザー』(The Father, 2020)もコロナ渦で映画館では観ておらず配信で観たのだが、その映画において、認知症になった高齢男性の視点からみた世界は、モダニズム小説というよりも不条理演劇いやホラー映画そのものだった。強度な認知症になれば被害妄想のなかで苦しむことになり、出口なき覚醒なき悪夢の世界に閉じ込められて死んでゆくとしても、誰もが死の直前には認知症的になるとすれば、待っているのは悪夢の世界だと思うと気が滅入る。
『敵』は小説版ではモダニズム小説、映画版ではホラー色の強い作風になっているのは、ともに、認知症的世界の表象の二形態ということになるのだろうか。
ただし映画版では主人公は死んでも死ななない。どいうことかは映画を観てのお楽しみということになるのだが、小説版では、主人公は死ぬ。三人称の小説だが、基本的には疑似一人称の小説である『敵』は、主人公の内面を描いているので、死の瞬間も外面ではなく内面から描いている。そのため死は外的に、あるいは臨床的に死にましたと描けないのだが、そのぶん、まさに死を内側から描くという挑戦的な文学的試みが実現する。
それは『敵』の文体とも関係する。この文体をどういうふうに考えてはよいのか、私自身、正直なところよくわからないのだが、先の対談を回顧するなかで筒井氏はエンターテインメント小説ではなく「モダニズム小説」を、純文学を書こうとしたと述べている(「『敵』はモダニズム文学の美を狙っていると同時に主人公渡辺儀助の老人としての生活の美を描こうとしているのだ」)。そのため、その文体は癖ではなく意図的にこしられたものだろう。では、その特徴は何か。
読点(、)が極端に少ない文章となっている。読者が読み間違ったり読み取れなくないように最小限の読点はあるが、句点(。)以外、読点は極端に少ない。人間の意識の流れのなかでは単語の流れや羅列はあっても読点はない。そのため読点のない息の長い文章はそれ自体で主人公の内面のつぶやきの直接的な表象かもしれず読者としても自分が主人公の内面に入り込んでそのつぶやきをじっくり聞いているようなあるいは自分で言葉を内語として発しているようなそんな思いにとらわれるのかもしれない。もちろん、それ以外の効果もあるとしても、今は思いつかない。
もうひとつは擬音語とか擬態語がすべて漢字で示されている点も特徴のひとつだろう。たとえば「雨が使徒使徒と降る」というように書かれている。実際、見慣れない漢字の羅列に出会うと、それを音読みして、なんとか意味が分かる場合もあれば、音読みしてもなんの擬音語か擬態語かわからないところもある。
よくわからないということをお断りをしたうえで、私見を述べれば、これはワープロとかパソコンで原稿を書いているときの過剰な変換や誤変換をそのまま再現しているのではないだろうか。もちろん私のパソコンは「雨が使徒使徒と降る」という誤変換はしないが、ただいかにもワープロ・パソコンで書いたときのような文章らしさを醸し出しているのではないだろうか(先に触れたように映画では主人公はパソコンで原稿を書いている)。
これはパソコンでうまく文章を返還できない(あるいは初期のパソコンの限られた文章作成能力)へのパロディではなく、なにか非人称的な力が、主人公渡辺儀助の意識のなかで、あるいは作家自身のなかで働いている、もしくは侵入しているのかと思われる仕掛けではないのか。
いまでいえばAIあるいは生成AIによって書かれた文章という趣がある。ことわっておくが、主人公がAIに乗っ取られているとか、主人公など最初からいなくてAIが書いているだけというホラーを考えているわけではなく、なにか文章の一部が勝手に漢字変換されてしまうことで、非人称的な力が顕在化したことが感得されるということだ。そしてその非人称的な力とは、言語の力かもしれないし、無意識の力かもしれないし、自我がコントロールできない老いや老齢による変化かもしれないし、究極的にはそれは死への譲渡過程のはじまりなのかもしれない。
この小説において敵は、北方から侵略してきて日本人の多くを難民化する脅威的存在だけではなく、名指されぬものとして存在している。主人公を死へと追いやる、すでに主人公の内面に侵入している名もなき敵がいるのだ。
ところで主人公がいつから認知症になって死を迎えるのかについて、敵についての妄想がひどくなったことと認知症の進行とがパラレルになっているという暗示から、認知症、衰弱、死という連関が想定されているように思われるのだが、今回、映画を観ながら別の可能性も考えた。
これは私の認知症的妄想といわれれば反論もできないが、映画のなかで、主人公が自死の予行演習をしたとき(小説でははっきりと書かれていないとはいえ)、あのとき事故でほんとうに死んでしまったのではないだろうか。予行演習以後の出来事は、死の直前に主人公に記憶や情感や欲望や希望が入り混じったもの(all that jazz)が去来したことの記述ではなかったか。
ニコス・カザンザキスの小説『最後の誘惑』(映画化もされたが)では、十字架にかけられたイエス・キリストは、十字架から降ろされ、ひそかにマグダラのマリアに助けられ彼女と結婚をして子供や孫に恵まれいままさに大往生するときに、そこで我に返って、これまでのことは死の直前に悪魔がみせた誘惑の偽りの人生であったことを悟り、誘惑に勝って死ぬという内容だが、『敵』でも主人公は薄れゆく意識の最後の瞬間に目覚め、予行演習ではなく真の死に直面し、確実に死ぬことを悟るのではないだろうか――もちろん、それで悪あがきをするのではなく、おだやかに死を迎え入れるのだが。
とはいえすべてではないとしても、一部を、AIが書いたような文章は、主人公の死をどのように表象するのか。それは言語と文章表現の崩壊というかたちをとる。実際、小説『敵』は、主人公の日常と所感とを、きちんと、ほぼ同じ字数の章で展開する、整った、まさに端正な小説である。そこにあるのは淡々とし平穏な日常の報告の身辺日記的エッセイであり、また決して深入りすることはないが同時に浅薄でも通俗的でもない知的なエッセイである。しかし、それが最後になると、たとえば、AIがみずからの文章の情報データを放出するかのように、これまでの文章のキーワードをすべて列挙しはじめる――もちろんこれは、主人公の混濁した意識が生み出す記憶の断片としても読めるのだが(さらにいえば、脳内に潜む敵をすべて吐き出すデトックスの試みとも読める)。
そしてやがてページに大きな空白が生まれ、雨の「使徒使徒」という、擬音語だが擬態語だかしれない漢字のみが、白いページの中に、さならが一粒雨のように印字されることになる。
言語表現が、あるいはエクリチュールが息絶えようとしている。主人公の意識/書き手の文章に侵略して一部を乗っ取ろうとしたAIも、主人公/書き手が、死んでしまうとき、宿主が枯れてしまうとき、なにも生成できずにみずからも消滅するしかないようだ。
ただ、この末尾のイメージは、先ほど触れた映画『ファーザー』の主人公(アンソニー・ホプキンズが演ずる)の最後の述懐を思い起こさせる。認知症になった主人公は、木々の豊かな葉が枯葉となって落ちてゆくように、自分のなかからすべてのものが失われてゆくともらす(主人公はそこで死ぬわけではなく、また映画は、病室の外の木々の豊かな緑を映し出しているが)。『敵』のなかで主人公がみる光景は雨あるいは雪がしずかに降る光景である。それはまた喪失と消滅の、瞬時に消えるのではなく、ゆっくりと存在を喪失してゆくという光景であり、それは光景をみているあるいは幻視している主人公の意識と同期している。
死を扱った映画、このブログでもふれた『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(ペドロ・アルモドバル監督2023年)では、ジョイスのDubliners(『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリンの人びと』『ダブリナーズ』などの訳題あり)のなかの「死者たちThe Dead」から二度ほど引用され、ジョン・ヒューストンの映画化作品の一場面が実際に映画のなかで引用される。映画をみていたとき、「死者たち」のどこにある引用かわからなかったが、調べてみてというか思い出して、最後の一節だとわかった。
雪がかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。
ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳、(岩波文庫2004)「死者たち」(末尾)より
この光景(ジョン・ヒューストンの映画の最後の場面でもある)は『敵』の終わりを彷彿とさせる。筒井康隆『敵』は、死の表象をめぐる挑戦的試みでもあると同時に、死の表象の忘れかけていた鉱脈を掘り当てくれた貴重な作品であるように思う。
私も雨か雪の降る景色を眺めることができればいいな。
2025年02月21日
自由が丘の不二屋書店
すでに新聞で報道されていたが、ネットでは閉店後の写真入りで、つぎのようなニュースを伝えていた。
東京都目黒区の自由が丘界隈は、私の生活圏でも行動圏でもないので、本来、知ることのない書店なのだが、以前、自由が丘で人と待ち合わせたとき、早めに到着して時間があまった私は駅前の書店にはいって書籍をみてまわった。それが不二家書店だった。
中に入ると私は驚いた。私の知らない本、それも私の興味の範疇に見事に入る本が、目に入ってきた。聞いたこともないような出版社の本というのなら驚かないが、誰もが知っている出版社の本であることに驚き、こんな面白い本を出していたのかと思わず手に取った。
他の大型書店では観たことのない人文関係の本で、しかも、同じような、有名な出版社から出ている、だが私が知らなかった本がもう一冊目に入った。この書店の品ぞろえにはただただ感服した。驚きと興奮がとまらなかった。
そんな書店が消えるのは残念なことである。閉店を少しでも遅らせ、売り上げに少しでも貢献できなかったことに対してほんとうに後悔している。
ちなみに私はその本をその場で購入しなかった。その二冊の本の著者と書名をしっかり頭にたたきこんで、帰宅後、アマゾンで注文した。私のような人間がいるから、書店の閉店を加速させたといえるのである。忸怩たる思いでいる。
「これまでありがとう」東京・自由が丘の不二屋書店、102年で幕
朝日新聞社 2月23日
20日午後8時半過ぎ、自由が丘駅(東京都目黒区)前にある不二屋書店の明かりが消え、102年間の営業に幕を下ろした。親子3代で守り続けたが出版不況の波には勝てなかった。
【中略】
最終日の朝、店主の門坂直美さん(74)は「今日もいつも通り始まった。いつも通りに終わりたい」と話していたが、閉店時には店の前に300人を超える人が集まり、駅前広場まであふれた。最後のお客さんの会計を待ってあいさつに出ると、人垣から「これまでありがとう」と感謝の言葉が飛び交った。【以下略】
東京都目黒区の自由が丘界隈は、私の生活圏でも行動圏でもないので、本来、知ることのない書店なのだが、以前、自由が丘で人と待ち合わせたとき、早めに到着して時間があまった私は駅前の書店にはいって書籍をみてまわった。それが不二家書店だった。
中に入ると私は驚いた。私の知らない本、それも私の興味の範疇に見事に入る本が、目に入ってきた。聞いたこともないような出版社の本というのなら驚かないが、誰もが知っている出版社の本であることに驚き、こんな面白い本を出していたのかと思わず手に取った。
他の大型書店では観たことのない人文関係の本で、しかも、同じような、有名な出版社から出ている、だが私が知らなかった本がもう一冊目に入った。この書店の品ぞろえにはただただ感服した。驚きと興奮がとまらなかった。
そんな書店が消えるのは残念なことである。閉店を少しでも遅らせ、売り上げに少しでも貢献できなかったことに対してほんとうに後悔している。
ちなみに私はその本をその場で購入しなかった。その二冊の本の著者と書名をしっかり頭にたたきこんで、帰宅後、アマゾンで注文した。私のような人間がいるから、書店の閉店を加速させたといえるのである。忸怩たる思いでいる。
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2025年02月20日
『エマニュエル』
オドレイ・ディワン監督 2024年 フランス映画
前作『エマニュエル夫人』の原題は『エマニュエル』で今作も前作と同じ『エマニュエル』。「エマニュエル夫人」というのは日本で勝手につけたタイトル(もっとも「夫人」であることはまちがいなかったが)。
ただそれにしても1974年の前作に登場したシルヴィア・クリステルは当時21歳。清純さのなかにエロスをにじませるまばゆいばかりの若いエマニュエルの面影は、今回の35歳のノエミ・メルランのエマニュエルにはない。ノエミ・メルランの顔はきつい。シルヴィア・クリステルにあったあどけなさは(たとえそれが淫乱さの引き立て役であったとしても)、ノエミ・メルランには望めない。彼女はむしろ禁欲的なイメージ、エロスとは対極にある存在であるかにみえる。
実際、『燃える女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督2019)のノエミ・メルランのほうが、ずっとよかったというか、そこでは彼女は同性愛的感情に覚醒するのではなく覚醒させる側だったのだが、またそこではレズビアン映画の古典ともいえる格調のたかさが際立っていたのだが、今回の『エマニュエル』において、彼女はエロくないし、そもそも何をやっているのかよくわからない。彼女は誰を愛しているのかわからないし、誰から愛されているのかも不明。
最初から結論をいえば、ノエミ・メルラン版の『エマニュエル』は他動詞的ではなく自動詞的である。自慰的といえばそうかもしれないし、また自律的といってもいい。とにかく愛しもしないし愛されもしない。ただ欲望を開花させるだけである。まあそこが、人工中絶のために奔走する主人公を扱う『あのこと』の監督オドレイ・ディワンの真骨頂というべきかもしれない。相手がいないのである。
もうひとつ今回の『エマニュエル』では、すべてが脳内劇場のできごとであるとみることもできる。冒頭のシーンで香港へ向かう旅客機のトイレでのセックスは、いきなり奔放なエロス全開かと思うのだが、機内における彼女の性的妄想にすぎないのではという可能性が残る。実際、彼女のその後の言動は、妄想の沼にはまるようなところがあるというか、すでに沼にはまっているところがあり、香港に向かう旅客機のなかではじまっていたと推測できるのだ。
彼女の妄想癖は二つの要因によって加速する。ひとつは性的欲望の抑圧による反動によって。そもそも彼女は香港のホテルのステータスのランクが下がったことの原因を突き止めるために派遣された監査官のような立場にあり、本部の指示に従って、香港のホテル支配人(ナオミ・ワッツ)の問題点を探ることになる。支配人のホテル運営にとくに難があるとは思われないが、支配人はエマニュエルに対し、ホテルという空間をエロティックでリラックスできる祝祭的な場として演出していると語る。おそらくそれがホテルの評判を下げた原因ではないかと思われるし、本部もそのことをエマニュエルに確認させようとしている。エマニュエルは、いうなれば、スーパーエゴの指令によって、エロティックな欲望のありかをつきとめることで、性的欲望の抑圧に加担しているとでもいうべきか。
最終的に彼女は、ホテル経営に何ら問題はないと報告するのだが、おそらくそれは本部の意向にそぐわない報告であり、ホテル支配人ではなく彼女自身が解雇されるだろうが、同時にそれはスーパーエゴの支配を離れ、彼女が無意識の性的欲望を解放したことも意味している。
それがある意味、彼女の脳内における精神的変化であるとすれば、いまひとつは彼女をとりまく環境から発散するエロスである。彼女の性的欲望が周囲の環境と同期するか、もしくは周囲の環境が彼女の性的欲望を喚起するといってもいい。
香港という東洋の神秘とエロスの場。1974年の『エマニュエル夫人』もそうだったが、アジア(タイのバンコクだったか)がオリエンタルなエロス解放の場となったように、いま香港の高級ホテルだけでなくその路地裏もまた危険なエロスを発散する。あるいはもっと正確にいえば、オリエンタリズムによって東洋が、実際はどうであれ、西洋の眼からすると危険な死と隣り合わせのエロスの場となる――と、そのように妄想されるのだ、ちょうど、危険きわまりない遊びが行なわれている秘密のクラブと西洋からの訪問客たちが考えている場が、実際にエマニュエルが危険を承知で行ってみると、ただの雀荘だったというエピソードが如実に示しているように(なおこの雀荘は裏で売春斡旋業をしているようなのだが)。
そしてホテルそのものもまた、すでに支配人の言葉どおりに、エロスの解放の場となっている。嵐の夜、ホテルの地下が浸水して水浸しになるエピソードが濃厚に漂わせているように、ホテルの身体は下半身がうずき濡れているのである。
こうした二つの要因――抑圧的な使命に対する反発と、エロティックな環境――によってエマニュエルは徐々に自分の性的欲望を解放するのだが、しかし、同時にそれは直接的な肉体的経験というよりも、雰囲気に酔っているというか、あるいは自慰的な妄想にひたることでしかない。
彼女は神秘的な日本人の男性ケイ・シノハラ(ウィル・シャープがいい味を出しているのだが)に惹かれてゆくのだが、彼が宿泊しているホテルの部屋のバスルームで、彼女は不在のケイ・シノハラ/ウィル・シャープを思いひとり浴槽に入る。おそらくそれは彼女の片思いというよりも妄想によるマスターベーションということだろう。
エマニュエルがケイ・シノハラと結ばれることになって映画はクライマックスを迎え終わるのではという予想は、ある程度、的中して、彼女はケイ・シノハラの手引きで香港の夜の性的世界に導かれ、そこの若い男性と肉体的に結ばれることになる……。いや、ケイ・シノハラとではないのか。彼は、エマニュエルを香港の男性との性行為へと導くことで消えてゆく消滅する媒介者ということだったのか。
いやそうではなく、エマニュエルと香港の若い男性とがセックスをするその場に、ケイ・シノハラは消えずに残っている。それだけでなく、ケイ・シノハラは、エマニュエルと香港の若い男とのセックスの指南役として、あれこれ指示を出すのだ。なんだ、これは。
結局、エマニュエルが、香港ではじめてセックスをする見知らぬ男性は、その場にいて二人のセックスを見守っているケイ・シノハラの身代わりなのである。彼女のセックスは、ケイ・シノハラを念頭においたマスターベーションにすぎない。そしておそらくこれが、この映画が到達するひとつの洞察なのである。エロスは、遠いもの、手に入らないものへの妄想によって最高の強度の達するのだということ。マスバーベーションほどエロティクなものはないと洞察。
ケイ・シノハラは、ほんとに存在したのかどうかわからない。彼女の妄想のなかだけの存在だったのかもしれない。最後の場面、彼女と見知らぬ男とのセックスの場にいるケイ・シノハラは彼女の妄想のなかだけの存在かもしれない。おそらく、香港のホテルも、香港も、そしてアジアも、オリエントも。
そしてこの妄想をエマニュエルが仕切っている。彼女が構築している。彼女は欲望を利用されるのではなく、欲望をみずから発見し操縦している。自動詞的な欲望は、誰に利用されるわけでもなく、誰に奉仕するわけでもなく、自由なのである。それが女性にとってのひとつの望ましい欲望のかたちである。禁欲的な欲望と自由奔放な欲望との合体。それがこの映画が到達する第二の洞察ではないだろうか。
前作『エマニュエル夫人』の原題は『エマニュエル』で今作も前作と同じ『エマニュエル』。「エマニュエル夫人」というのは日本で勝手につけたタイトル(もっとも「夫人」であることはまちがいなかったが)。
ただそれにしても1974年の前作に登場したシルヴィア・クリステルは当時21歳。清純さのなかにエロスをにじませるまばゆいばかりの若いエマニュエルの面影は、今回の35歳のノエミ・メルランのエマニュエルにはない。ノエミ・メルランの顔はきつい。シルヴィア・クリステルにあったあどけなさは(たとえそれが淫乱さの引き立て役であったとしても)、ノエミ・メルランには望めない。彼女はむしろ禁欲的なイメージ、エロスとは対極にある存在であるかにみえる。
実際、『燃える女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督2019)のノエミ・メルランのほうが、ずっとよかったというか、そこでは彼女は同性愛的感情に覚醒するのではなく覚醒させる側だったのだが、またそこではレズビアン映画の古典ともいえる格調のたかさが際立っていたのだが、今回の『エマニュエル』において、彼女はエロくないし、そもそも何をやっているのかよくわからない。彼女は誰を愛しているのかわからないし、誰から愛されているのかも不明。
最初から結論をいえば、ノエミ・メルラン版の『エマニュエル』は他動詞的ではなく自動詞的である。自慰的といえばそうかもしれないし、また自律的といってもいい。とにかく愛しもしないし愛されもしない。ただ欲望を開花させるだけである。まあそこが、人工中絶のために奔走する主人公を扱う『あのこと』の監督オドレイ・ディワンの真骨頂というべきかもしれない。相手がいないのである。
もうひとつ今回の『エマニュエル』では、すべてが脳内劇場のできごとであるとみることもできる。冒頭のシーンで香港へ向かう旅客機のトイレでのセックスは、いきなり奔放なエロス全開かと思うのだが、機内における彼女の性的妄想にすぎないのではという可能性が残る。実際、彼女のその後の言動は、妄想の沼にはまるようなところがあるというか、すでに沼にはまっているところがあり、香港に向かう旅客機のなかではじまっていたと推測できるのだ。
彼女の妄想癖は二つの要因によって加速する。ひとつは性的欲望の抑圧による反動によって。そもそも彼女は香港のホテルのステータスのランクが下がったことの原因を突き止めるために派遣された監査官のような立場にあり、本部の指示に従って、香港のホテル支配人(ナオミ・ワッツ)の問題点を探ることになる。支配人のホテル運営にとくに難があるとは思われないが、支配人はエマニュエルに対し、ホテルという空間をエロティックでリラックスできる祝祭的な場として演出していると語る。おそらくそれがホテルの評判を下げた原因ではないかと思われるし、本部もそのことをエマニュエルに確認させようとしている。エマニュエルは、いうなれば、スーパーエゴの指令によって、エロティックな欲望のありかをつきとめることで、性的欲望の抑圧に加担しているとでもいうべきか。
最終的に彼女は、ホテル経営に何ら問題はないと報告するのだが、おそらくそれは本部の意向にそぐわない報告であり、ホテル支配人ではなく彼女自身が解雇されるだろうが、同時にそれはスーパーエゴの支配を離れ、彼女が無意識の性的欲望を解放したことも意味している。
それがある意味、彼女の脳内における精神的変化であるとすれば、いまひとつは彼女をとりまく環境から発散するエロスである。彼女の性的欲望が周囲の環境と同期するか、もしくは周囲の環境が彼女の性的欲望を喚起するといってもいい。
香港という東洋の神秘とエロスの場。1974年の『エマニュエル夫人』もそうだったが、アジア(タイのバンコクだったか)がオリエンタルなエロス解放の場となったように、いま香港の高級ホテルだけでなくその路地裏もまた危険なエロスを発散する。あるいはもっと正確にいえば、オリエンタリズムによって東洋が、実際はどうであれ、西洋の眼からすると危険な死と隣り合わせのエロスの場となる――と、そのように妄想されるのだ、ちょうど、危険きわまりない遊びが行なわれている秘密のクラブと西洋からの訪問客たちが考えている場が、実際にエマニュエルが危険を承知で行ってみると、ただの雀荘だったというエピソードが如実に示しているように(なおこの雀荘は裏で売春斡旋業をしているようなのだが)。
そしてホテルそのものもまた、すでに支配人の言葉どおりに、エロスの解放の場となっている。嵐の夜、ホテルの地下が浸水して水浸しになるエピソードが濃厚に漂わせているように、ホテルの身体は下半身がうずき濡れているのである。
こうした二つの要因――抑圧的な使命に対する反発と、エロティックな環境――によってエマニュエルは徐々に自分の性的欲望を解放するのだが、しかし、同時にそれは直接的な肉体的経験というよりも、雰囲気に酔っているというか、あるいは自慰的な妄想にひたることでしかない。
彼女は神秘的な日本人の男性ケイ・シノハラ(ウィル・シャープがいい味を出しているのだが)に惹かれてゆくのだが、彼が宿泊しているホテルの部屋のバスルームで、彼女は不在のケイ・シノハラ/ウィル・シャープを思いひとり浴槽に入る。おそらくそれは彼女の片思いというよりも妄想によるマスターベーションということだろう。
エマニュエルがケイ・シノハラと結ばれることになって映画はクライマックスを迎え終わるのではという予想は、ある程度、的中して、彼女はケイ・シノハラの手引きで香港の夜の性的世界に導かれ、そこの若い男性と肉体的に結ばれることになる……。いや、ケイ・シノハラとではないのか。彼は、エマニュエルを香港の男性との性行為へと導くことで消えてゆく消滅する媒介者ということだったのか。
いやそうではなく、エマニュエルと香港の若い男性とがセックスをするその場に、ケイ・シノハラは消えずに残っている。それだけでなく、ケイ・シノハラは、エマニュエルと香港の若い男とのセックスの指南役として、あれこれ指示を出すのだ。なんだ、これは。
結局、エマニュエルが、香港ではじめてセックスをする見知らぬ男性は、その場にいて二人のセックスを見守っているケイ・シノハラの身代わりなのである。彼女のセックスは、ケイ・シノハラを念頭においたマスターベーションにすぎない。そしておそらくこれが、この映画が到達するひとつの洞察なのである。エロスは、遠いもの、手に入らないものへの妄想によって最高の強度の達するのだということ。マスバーベーションほどエロティクなものはないと洞察。
ケイ・シノハラは、ほんとに存在したのかどうかわからない。彼女の妄想のなかだけの存在だったのかもしれない。最後の場面、彼女と見知らぬ男とのセックスの場にいるケイ・シノハラは彼女の妄想のなかだけの存在かもしれない。おそらく、香港のホテルも、香港も、そしてアジアも、オリエントも。
そしてこの妄想をエマニュエルが仕切っている。彼女が構築している。彼女は欲望を利用されるのではなく、欲望をみずから発見し操縦している。自動詞的な欲望は、誰に利用されるわけでもなく、誰に奉仕するわけでもなく、自由なのである。それが女性にとってのひとつの望ましい欲望のかたちである。禁欲的な欲望と自由奔放な欲望との合体。それがこの映画が到達する第二の洞察ではないだろうか。
posted by ohashi at 13:07| 映画
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2025年02月18日
『Broken Rage』
アマゾン・プライムヴィデオで配信中の北野武監督・脚本・主演の映画『Broken Rage』は、Wikipediaによる紹介を引用すると
ちなみに、Wikipediaのこの項目には、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 ご協力ください」と間抜けな注意書きがある。概要という見出しなのだが、これはりっぱなあらすじで、これ以上、何を付け加えるというのだろうか。またこの↑概要は、多くのねたをばらしている。
前半30分がシリアス編、後半30分がセルフ・パロディのギャグ・コメディ編となるが、前半と後半で同じ物語を共有しているので、絨毯の裏表ともいえるのだが、ただ、それをいうなら前半は、あるいは最初は、悲劇(実際にはハッピーエンディングのシリアス劇)、二番目は茶番でということになろうか。
この茶番の部分は、正直言って観ていてつらく恥ずかしくなったし、多くの視聴者もそう感じたようだが、ただ、観ているうちにあまりのくだらなさで大笑いしたことも事実。ひとつひとつのギャグは面白くもなんともないのだが、それを何度も畳みかけるとおかしくてたまらなくなるというやつだろうか。
ただ同じ物語の反復というのは興味深かった。いわゆる、今流行りともいえない前から流行っているタイム・ループ物に属する映画だとみたらどうだろう。
ただし、タイム・ループ物では、同じ事件、同じ物語を繰り返されるとき、当事者は、前の回の記憶がある。つまり同じ事件が展開しているという記憶がある(たとえそれは全員ではなくても、主人公あるいは重要人物には出来事が反復していることが認識できる)。
しかし『Broken Rage』においては登場人物は、前半と同じ物語、同じ事件を反復しているという意識はまったくない。となると、これはタイム・リープ物というパラダイムでは把握できない構成であるとわかる。
同じ事件、同じ物語を反復したのである。なぜ、そんなことをするのか。
ホン・サンス監督・脚本の『正しい日 間違えた日』(2015)は、同じ出来事を前半と後半で反復する、ある意味、異色作。
映画監督の主人公が観光地で女性と出会い、大学で少人数の学生やファンを相手に講演をするといった出来事(ホン・サンス監督の映画ではおなじみの私小説出来事)が、前半と後半で繰り返される。ただしまったく同じではなく、後半では、登場人物と展開は同じだが、カメラアングルやカット割りを変えたり、新たなエピソードを加えたり、出来事の時間も長くして、前半よりも掘り下げた内容となっている。ということは前半だけでは物足らなくて後半を取り直した。後半はセカンドテイクなのである。
どちらが「正しい日」で、どちがら「間違った日」なのかははっきりしないが、ふつうに考えると、最初のテイクがよくなかったから、つまり完成に達しなかったから、もう一テイク撮ったということになろう。2回目が、反復回が、完成もしくは完成に一歩近づいた回ということになろう。
もちろん映画撮影の場合起こりうることだが、最初撮ったシーンが気に入らない、あるいは失敗とみなされ、何度も、撮り直してみて、結果的に最初のシーンが一番よかったということもあろう。繰り返せば繰り返すほどよくなる場合と、反対に繰り返すごとに悪くなるということもある。
そのような可能性を常に念頭に置きつつ、一般的には、繰り返す以上、後続回のほうが改善されているとみるべきだろう。ゲームのようにリセットしてやり直すことでよい結果がでるとみることができる。
だが『Broken Rage』では、完成された30分の短編映画(北野監督のこれまでの映画の集大成というか簡約あるいは凝集版)という前半に対して、同じ物語を提示する後半は、改善された向上したというよりも、改悪、悪化したようにみえる。完成された前半を後半で覆したかのようだ。前半が間違えた日、後半が正しい日となってハッピーエンディングとなるというよりも、前半は完成した正しい作品、二番目つまり後半は間違った茶番というほうがぴったりくる。
しかし反復の理由は結果はどうであれ完成への挑戦であり、前半はまちがった日であり後半は正しい日であるという意味付けは残る。『Broken Rage』では、まちがった失敗でもあるような後半が、前半の改善版ともいえる。なぜか。
いまはもう読まれなくなったと思うが、私が英文科の学生の頃に読んだオルダス・ハクスリーのエッセイに、「悲劇と全体的真実」というのがあった(‘Tragedy and the Whole Truth’, Music at Night(1931)所収)。
私などこれを読んだ最後の世代ではないかと思うが、このエッセイのなかでハクスリーは悲劇というのは定められた破局的結末にむかってすべてが収斂するよう、夾雑物を一切排除した展開をするのに対し、喜劇は、夾雑物や筋とは無関係な要素を積極的に取り入れ脱線をもいとわないルースな展開をする。
だから喜劇は未完成な劣悪な芸術というのではなく、実はそこが喜劇の素晴らしいところであって、喜劇は、悲劇では表象できない人生や世界の不確定要素を表象できる。悲劇が純粋かつ狭小な真実の提示をめざすとすれば、喜劇はあらゆる可能性を考慮する全体的真実を提示するのである。
たとえばとハクスリーはシェイクスピアの『オセロー』を例にだす。オセローの妻となったデズデモーナが、あとから別の船で到着した夫オセローを出迎えに桟橋を走ってくるときに、よもやつまずいて、倒れ、スカートがめくれあがってパンツまるみえという、はしたない姿をさらけだすことはないだろう。そんなアクションなり描写があれば、悲劇作品がだいなしになる。
ハクスリーが念頭に置いているのはフィールディングの『トム・ジョーンズ』である。そこでは主人公の恋人が再会に駆けつけるもののけつまずきパンツ丸見えになる。しかし喜劇的要素満載の『トム・ジョーンズ』ではその描写で作品世界がゆらぐことはない。さらにいえば、転んではしたない姿になるということは現実には起り得る。しかし悲劇は、そうした可能性を取り入れることはできない。悲劇のほうが現実に対する間口が狭いのである。それに対して喜劇的なものは、あらゆる可能性を吸収できる。喜劇は全体的真実に開かれているのである。
こう考えると、『Broken Rage』は、完成度の高い、それゆえ夾雑物や不純な要素を排除している前半部に対して、排除された可能性、作品の完成を阻止するような否定的可能性を積極的に取り込んだ後半部をぶつけてきたといえるだろう。前半部は現実の多様な可能性を排除し、後半部は現実の多様な可能性をとりいれている、つまり後半部は全体的真実に迫ろうとしているのである。
実際、『Broken Rage』では主人公は何度もけつまずく。座ろうとする椅子が壊れていて、壊れたテーブルごとひっくりかえる。そのひとつひとつが茶番的笑いの種かもしれないが、同時にそれは、前半部でかっこいい殺し屋を作りあげるために排除された、かっこわるい可能性(ただし現実には常に起こりうる出来事)の一コマなのである。
『Broken Rage』の後半は、あるいは二度目は全体的真実が開示される場である。となると、初回をパロディ化し、初回の完成度を揺るがすような第二回は、その実、全体的真実への作品を開き、初回の完成度を上回る全体的真実への開かれを実現しているのである。
実際のところ、第一回で謎なまま取り残された要素(Mとは誰か)が、第二回の最後で判明する。第二回は、正しい日、真実が開示される日でもあったのだ。
概要
殺し屋の男"ねずみ"は謎の男『M』からの依頼で闇金経営者・大黒、暴力団組長・茂木をはじめ、数々の暗殺を重ねていた。しかし、依頼を受ける喫茶店を警察に押さえられ、刑事・井上、福田らから取調べを受ける。
”ねずみ”は暴力を交えた苛烈な取り調べを受けるが、頑なに背後関係を吐かない。そこで、井上、福田らから過去の罪を全て揉み消し、新しい身分、住居と死ぬまで困らない報酬を保障する代わりに覆面捜査官となって麻薬組織への潜入を持ちかけられる。
刑事らの手引きにより、対象の麻薬組織のボス・金城の前で強力な腕っぷしを披露し、組織に引き入れられて即座にボディーガードに抜擢される。更には金城を狙った暗殺者を拳銃を抜く暇も与えず射殺し信頼を得る。
しかし、肝心の薬物取引の現場を押さえる機会がなかなか訪れず、焦れた刑事らによって、混ぜ物入りの麻薬が縄張り内で発見されたという偽情報を”ねずみ”から金城に報告し、内部不和を招く。組織内で薬物をパッケージ化する田村へ疑いの目が向けられ、金城による直接かつ大規模な取引が行われるように仕向けることに成功したのだった。
そして当日、遂に刑事らは多数の警官と共に取引現場に押し入り、その中で”ねずみ”は手筈通り、刑事により射殺されたように見せかけ、自由を手にするのであった。
……という内容を、前半はバイオレンスドラマ、後半ではセルフパロディのストーリーコントとなり最後に前半では語られなかったネタバらしがある。
ちなみに、Wikipediaのこの項目には、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 ご協力ください」と間抜けな注意書きがある。概要という見出しなのだが、これはりっぱなあらすじで、これ以上、何を付け加えるというのだろうか。またこの↑概要は、多くのねたをばらしている。
前半30分がシリアス編、後半30分がセルフ・パロディのギャグ・コメディ編となるが、前半と後半で同じ物語を共有しているので、絨毯の裏表ともいえるのだが、ただ、それをいうなら前半は、あるいは最初は、悲劇(実際にはハッピーエンディングのシリアス劇)、二番目は茶番でということになろうか。
この茶番の部分は、正直言って観ていてつらく恥ずかしくなったし、多くの視聴者もそう感じたようだが、ただ、観ているうちにあまりのくだらなさで大笑いしたことも事実。ひとつひとつのギャグは面白くもなんともないのだが、それを何度も畳みかけるとおかしくてたまらなくなるというやつだろうか。
ただ同じ物語の反復というのは興味深かった。いわゆる、今流行りともいえない前から流行っているタイム・ループ物に属する映画だとみたらどうだろう。
ただし、タイム・ループ物では、同じ事件、同じ物語を繰り返されるとき、当事者は、前の回の記憶がある。つまり同じ事件が展開しているという記憶がある(たとえそれは全員ではなくても、主人公あるいは重要人物には出来事が反復していることが認識できる)。
しかし『Broken Rage』においては登場人物は、前半と同じ物語、同じ事件を反復しているという意識はまったくない。となると、これはタイム・リープ物というパラダイムでは把握できない構成であるとわかる。
同じ事件、同じ物語を反復したのである。なぜ、そんなことをするのか。
ホン・サンス監督・脚本の『正しい日 間違えた日』(2015)は、同じ出来事を前半と後半で反復する、ある意味、異色作。
映画監督の主人公が観光地で女性と出会い、大学で少人数の学生やファンを相手に講演をするといった出来事(ホン・サンス監督の映画ではおなじみの私小説出来事)が、前半と後半で繰り返される。ただしまったく同じではなく、後半では、登場人物と展開は同じだが、カメラアングルやカット割りを変えたり、新たなエピソードを加えたり、出来事の時間も長くして、前半よりも掘り下げた内容となっている。ということは前半だけでは物足らなくて後半を取り直した。後半はセカンドテイクなのである。
どちらが「正しい日」で、どちがら「間違った日」なのかははっきりしないが、ふつうに考えると、最初のテイクがよくなかったから、つまり完成に達しなかったから、もう一テイク撮ったということになろう。2回目が、反復回が、完成もしくは完成に一歩近づいた回ということになろう。
もちろん映画撮影の場合起こりうることだが、最初撮ったシーンが気に入らない、あるいは失敗とみなされ、何度も、撮り直してみて、結果的に最初のシーンが一番よかったということもあろう。繰り返せば繰り返すほどよくなる場合と、反対に繰り返すごとに悪くなるということもある。
そのような可能性を常に念頭に置きつつ、一般的には、繰り返す以上、後続回のほうが改善されているとみるべきだろう。ゲームのようにリセットしてやり直すことでよい結果がでるとみることができる。
だが『Broken Rage』では、完成された30分の短編映画(北野監督のこれまでの映画の集大成というか簡約あるいは凝集版)という前半に対して、同じ物語を提示する後半は、改善された向上したというよりも、改悪、悪化したようにみえる。完成された前半を後半で覆したかのようだ。前半が間違えた日、後半が正しい日となってハッピーエンディングとなるというよりも、前半は完成した正しい作品、二番目つまり後半は間違った茶番というほうがぴったりくる。
しかし反復の理由は結果はどうであれ完成への挑戦であり、前半はまちがった日であり後半は正しい日であるという意味付けは残る。『Broken Rage』では、まちがった失敗でもあるような後半が、前半の改善版ともいえる。なぜか。
いまはもう読まれなくなったと思うが、私が英文科の学生の頃に読んだオルダス・ハクスリーのエッセイに、「悲劇と全体的真実」というのがあった(‘Tragedy and the Whole Truth’, Music at Night(1931)所収)。
私などこれを読んだ最後の世代ではないかと思うが、このエッセイのなかでハクスリーは悲劇というのは定められた破局的結末にむかってすべてが収斂するよう、夾雑物を一切排除した展開をするのに対し、喜劇は、夾雑物や筋とは無関係な要素を積極的に取り入れ脱線をもいとわないルースな展開をする。
だから喜劇は未完成な劣悪な芸術というのではなく、実はそこが喜劇の素晴らしいところであって、喜劇は、悲劇では表象できない人生や世界の不確定要素を表象できる。悲劇が純粋かつ狭小な真実の提示をめざすとすれば、喜劇はあらゆる可能性を考慮する全体的真実を提示するのである。
たとえばとハクスリーはシェイクスピアの『オセロー』を例にだす。オセローの妻となったデズデモーナが、あとから別の船で到着した夫オセローを出迎えに桟橋を走ってくるときに、よもやつまずいて、倒れ、スカートがめくれあがってパンツまるみえという、はしたない姿をさらけだすことはないだろう。そんなアクションなり描写があれば、悲劇作品がだいなしになる。
ハクスリーが念頭に置いているのはフィールディングの『トム・ジョーンズ』である。そこでは主人公の恋人が再会に駆けつけるもののけつまずきパンツ丸見えになる。しかし喜劇的要素満載の『トム・ジョーンズ』ではその描写で作品世界がゆらぐことはない。さらにいえば、転んではしたない姿になるということは現実には起り得る。しかし悲劇は、そうした可能性を取り入れることはできない。悲劇のほうが現実に対する間口が狭いのである。それに対して喜劇的なものは、あらゆる可能性を吸収できる。喜劇は全体的真実に開かれているのである。
こう考えると、『Broken Rage』は、完成度の高い、それゆえ夾雑物や不純な要素を排除している前半部に対して、排除された可能性、作品の完成を阻止するような否定的可能性を積極的に取り込んだ後半部をぶつけてきたといえるだろう。前半部は現実の多様な可能性を排除し、後半部は現実の多様な可能性をとりいれている、つまり後半部は全体的真実に迫ろうとしているのである。
実際、『Broken Rage』では主人公は何度もけつまずく。座ろうとする椅子が壊れていて、壊れたテーブルごとひっくりかえる。そのひとつひとつが茶番的笑いの種かもしれないが、同時にそれは、前半部でかっこいい殺し屋を作りあげるために排除された、かっこわるい可能性(ただし現実には常に起こりうる出来事)の一コマなのである。
『Broken Rage』の後半は、あるいは二度目は全体的真実が開示される場である。となると、初回をパロディ化し、初回の完成度を揺るがすような第二回は、その実、全体的真実への作品を開き、初回の完成度を上回る全体的真実への開かれを実現しているのである。
実際のところ、第一回で謎なまま取り残された要素(Mとは誰か)が、第二回の最後で判明する。第二回は、正しい日、真実が開示される日でもあったのだ。
posted by ohashi at 12:13| 映画
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2025年02月16日
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
ペドロ・アルモドバル監督のこの映画The Room Next Door(2024)は「百合」の映画かというと、そうではあるが、そうでもない。少なくとも体裁上、これはがんで死んでゆく友人の女性をみとる女性の、友情物語で、そこにエクスプリシットなレズビアン描写はない。
がんで余命いくばくもないマーサ・ハント/ティルダ・スウィントンには娘がいることになっているし(実際、彼女の死後、その娘が登場する)、彼女の世話をする友達のイングリッド・パーカー/ジュリアン・ムーアにはボーイ・フレンド(ダミアン・カニンガム/ジョン・タトゥーロ)がいる。もっともジュリアン・ムーアにとって、ダミアン/タトゥーロは、マーサ/ティルダ・スウィントンからのおさがりなのだが。まあマーサとイングリッドは友達だが、同時に姉妹のような関係でもある。そして仲の良い、姉妹のような関係のふたりをレズビアンと呼ぶことには抵抗があるかもしれない――レズビアンがよくないということでは決してない。
だが、ふたりの女性のなかに、レズビアン的感情があることは、におわされているのではないだろうか。直接的ではなく、状況的に。マーサが購入するガラス張りの別荘は、湖を臨むところにある。物語は湖を背景にしている、水物語である。
そしてさらにマーサが自殺を遂げた後、刑事が、自殺ほう助ではないかとイングリッド/ジュリアン・ムーアを問い詰める。合衆国では自殺は刑事罰に問われないが、自殺ほう助は、そのかたちでの安楽死を認めている州でないかぎり、刑事罰に問われるようだ。そのためマーサ/ティルダ・スウィントンはイングリッド/ジュリアン・ムーアらに迷惑がかからないように、自分の判断で薬物を手に入れて一人で死ぬことにしたと遺書を残すのだが、警察は、イングリッドによる自殺ほう助を厳しく問い詰める。
それは当然といえば当然のことだが、だがその追及の異端審問的な厳しさに対しては、同性愛者に対する偏見と迫害を想起させるのに十分なものがある。そしてここからわかるのは、女性同士の友情、あるいは姉妹の家族愛の物語に、同性愛物語が影のように寄り添っていることである。
私がつねに指摘しているのは、水の物語ではなく、絨毯の裏表の関係である。同性愛物語と異性愛物語は、絨毯の裏表のように、表裏一体化している、つまり同じ図柄を共有している。
問題はなぜそんなことをするかである。もちろん同性愛物語に対する抵抗を緩和するあるいはなくすために異性愛物語をカムフラージュに使うということがあろう。異性愛物語は、同性愛物語を流通させるための通行手形、賄賂みたいなものとみることができる。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも、すでに述べたように異性愛者の女性ふたりの姉妹的友情という設定が異性愛物語を支持しているようにみえる。だが、ほんとうに異性愛物語として解釈されてしまわないような工夫もほどこされていて、マーサがかつてジャーナリストとして中東で取材したとき、カトリック教会の信者で明らかに同愛者であるアラブ人を登場させている。マーサとイングリッドは姉妹ようだと述べたが、実際には、二人の俳優は同年齢で、おそらく映画の中でも同年齢という設定だろう(姉妹ではない、姉妹愛ではない)。
そしてきわめつけは、マーサの娘である。マーサの死後、娘のミシェルがマーサが最期を迎えた家を訪れる。彼女は母親そっくりである。当然のことながらティルダ・スウィントンの一人二役なのだから。しかし、この一人二役には違和感がある。むしろティルダ・スウィントンに似た誰が別の俳優を使えばよかったのにとも思うのだが、ただ母親が死んでも、娘のなかに/として母親は生きているという「死と再生」あるいは「断絶と連続」のイメージを出したかったのかもしれない。またさらにいうと、母親とそっくりな娘は、まるでクローン人間のようである。そう、娘である彼女は、父親を必要とせず、母親から直接生まれてきた単性生殖の娘であるようにみえる。あるいはクローンのような娘であって、男を必要としない存在なのだ―ボーイズ・オン・ザ・サイド。
だが同性愛的要素をこっそり忍ばせる、あるいは批判や差別をかわし、わかる人にはわかるという、やや消極的な理由だけが、この二重の光学の存在理由ではない。
同性愛は異性愛とは別物の異物的存在ではない。同性愛あるいは同性愛的感情は異性愛と区別がつかない、あるいは異性愛とからまりあっている。誰もが、あるいは異性愛者もまた、同性愛者あるいは同性愛的感情を明確に宿している。
同性愛者は、たんなる変態でもなければモンスターでもない。異性愛者と同じ人間であり、さらにいえば異性愛者と同じ精神や感情を共有している同胞である。異性に対して抱く同じ感情を同性に対して抱いてもなにもおかしくない。それは当然の感情であり、モンストラスなもの、変態的・倒錯的なものではない。だからこそ異性愛と同性愛は双子の兄弟姉妹のように見分けがつかないし、また分けて考える必要もないのである。
同性愛者は隣の家に、あるいは隣の部屋に住んでいる異物あるいは他者ではない。異性愛と同性愛とのあいだに境界などない。映画のタイトルになっている「隣の部屋」は、同性愛者に割り振られている差別的特別区画のイメージがある。だが、実際には、同性愛者はそこにいない。映画のなかでジュリアン・ムーアがいるのは、真下の部屋である――メタフォリカルな存在。それは隣の部屋ではない――メトニミーではない。同性愛者は異性愛者と重なり合っている――幽体離脱のように異性愛者とうりふたつで、異性愛者から生まれ出るのだ。
一見、同性愛差別を緩和するための措置とみえたもの、異性愛者に通告手形、あるいは賄賂のように手渡される異性愛的要素は、実のところ、同性愛のありかを示す真実の開示であった。
異性愛と同性愛、それは「あれか/これか」Either Orの関係ではない。「どちらもBoth」の関係なのである。
付記
ペドロ・アルモドバルの2023年の短編映画『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』Strange Way of Lifeは、カウボーイのエクスプリシットな同性愛を描いた、まさにゲイ映画の典型なのだが、そのなかで、何年振りかで再会したジェイク/イーサン・ホークを看病することになったシルヴァ/ペドロ・パスカルはこう語る。それが映画の最後の締めくくりのセリフともなっている。字幕はとてもうまく訳していた記憶にあり、それを超える訳はできそうもないので、原語のまま引用する:
たがいに、いたわり、まもり、なかむつまじくいる。同性愛も異性愛もない。
いや、昨年翻訳出版されたジェーン・ウォード『異性愛という悲劇』安達眞弓訳(太田出版2024)にあるように、むしろ異性愛のほうが冷酷で差別的で愚劣で愛と思いやりの要件を満たしていないかもしれないのだ。
がんで余命いくばくもないマーサ・ハント/ティルダ・スウィントンには娘がいることになっているし(実際、彼女の死後、その娘が登場する)、彼女の世話をする友達のイングリッド・パーカー/ジュリアン・ムーアにはボーイ・フレンド(ダミアン・カニンガム/ジョン・タトゥーロ)がいる。もっともジュリアン・ムーアにとって、ダミアン/タトゥーロは、マーサ/ティルダ・スウィントンからのおさがりなのだが。まあマーサとイングリッドは友達だが、同時に姉妹のような関係でもある。そして仲の良い、姉妹のような関係のふたりをレズビアンと呼ぶことには抵抗があるかもしれない――レズビアンがよくないということでは決してない。
だが、ふたりの女性のなかに、レズビアン的感情があることは、におわされているのではないだろうか。直接的ではなく、状況的に。マーサが購入するガラス張りの別荘は、湖を臨むところにある。物語は湖を背景にしている、水物語である。
そしてさらにマーサが自殺を遂げた後、刑事が、自殺ほう助ではないかとイングリッド/ジュリアン・ムーアを問い詰める。合衆国では自殺は刑事罰に問われないが、自殺ほう助は、そのかたちでの安楽死を認めている州でないかぎり、刑事罰に問われるようだ。そのためマーサ/ティルダ・スウィントンはイングリッド/ジュリアン・ムーアらに迷惑がかからないように、自分の判断で薬物を手に入れて一人で死ぬことにしたと遺書を残すのだが、警察は、イングリッドによる自殺ほう助を厳しく問い詰める。
それは当然といえば当然のことだが、だがその追及の異端審問的な厳しさに対しては、同性愛者に対する偏見と迫害を想起させるのに十分なものがある。そしてここからわかるのは、女性同士の友情、あるいは姉妹の家族愛の物語に、同性愛物語が影のように寄り添っていることである。
私がつねに指摘しているのは、水の物語ではなく、絨毯の裏表の関係である。同性愛物語と異性愛物語は、絨毯の裏表のように、表裏一体化している、つまり同じ図柄を共有している。
問題はなぜそんなことをするかである。もちろん同性愛物語に対する抵抗を緩和するあるいはなくすために異性愛物語をカムフラージュに使うということがあろう。異性愛物語は、同性愛物語を流通させるための通行手形、賄賂みたいなものとみることができる。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも、すでに述べたように異性愛者の女性ふたりの姉妹的友情という設定が異性愛物語を支持しているようにみえる。だが、ほんとうに異性愛物語として解釈されてしまわないような工夫もほどこされていて、マーサがかつてジャーナリストとして中東で取材したとき、カトリック教会の信者で明らかに同愛者であるアラブ人を登場させている。マーサとイングリッドは姉妹ようだと述べたが、実際には、二人の俳優は同年齢で、おそらく映画の中でも同年齢という設定だろう(姉妹ではない、姉妹愛ではない)。
そしてきわめつけは、マーサの娘である。マーサの死後、娘のミシェルがマーサが最期を迎えた家を訪れる。彼女は母親そっくりである。当然のことながらティルダ・スウィントンの一人二役なのだから。しかし、この一人二役には違和感がある。むしろティルダ・スウィントンに似た誰が別の俳優を使えばよかったのにとも思うのだが、ただ母親が死んでも、娘のなかに/として母親は生きているという「死と再生」あるいは「断絶と連続」のイメージを出したかったのかもしれない。またさらにいうと、母親とそっくりな娘は、まるでクローン人間のようである。そう、娘である彼女は、父親を必要とせず、母親から直接生まれてきた単性生殖の娘であるようにみえる。あるいはクローンのような娘であって、男を必要としない存在なのだ―ボーイズ・オン・ザ・サイド。
だが同性愛的要素をこっそり忍ばせる、あるいは批判や差別をかわし、わかる人にはわかるという、やや消極的な理由だけが、この二重の光学の存在理由ではない。
同性愛は異性愛とは別物の異物的存在ではない。同性愛あるいは同性愛的感情は異性愛と区別がつかない、あるいは異性愛とからまりあっている。誰もが、あるいは異性愛者もまた、同性愛者あるいは同性愛的感情を明確に宿している。
同性愛者は、たんなる変態でもなければモンスターでもない。異性愛者と同じ人間であり、さらにいえば異性愛者と同じ精神や感情を共有している同胞である。異性に対して抱く同じ感情を同性に対して抱いてもなにもおかしくない。それは当然の感情であり、モンストラスなもの、変態的・倒錯的なものではない。だからこそ異性愛と同性愛は双子の兄弟姉妹のように見分けがつかないし、また分けて考える必要もないのである。
同性愛者は隣の家に、あるいは隣の部屋に住んでいる異物あるいは他者ではない。異性愛と同性愛とのあいだに境界などない。映画のタイトルになっている「隣の部屋」は、同性愛者に割り振られている差別的特別区画のイメージがある。だが、実際には、同性愛者はそこにいない。映画のなかでジュリアン・ムーアがいるのは、真下の部屋である――メタフォリカルな存在。それは隣の部屋ではない――メトニミーではない。同性愛者は異性愛者と重なり合っている――幽体離脱のように異性愛者とうりふたつで、異性愛者から生まれ出るのだ。
一見、同性愛差別を緩和するための措置とみえたもの、異性愛者に通告手形、あるいは賄賂のように手渡される異性愛的要素は、実のところ、同性愛のありかを示す真実の開示であった。
異性愛と同性愛、それは「あれか/これか」Either Orの関係ではない。「どちらもBoth」の関係なのである。
付記
ペドロ・アルモドバルの2023年の短編映画『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』Strange Way of Lifeは、カウボーイのエクスプリシットな同性愛を描いた、まさにゲイ映画の典型なのだが、そのなかで、何年振りかで再会したジェイク/イーサン・ホークを看病することになったシルヴァ/ペドロ・パスカルはこう語る。それが映画の最後の締めくくりのセリフともなっている。字幕はとてもうまく訳していた記憶にあり、それを超える訳はできそうもないので、原語のまま引用する:
Silva: [to Jake] Years ago, you asked me what two men could do living together on a ranch.
I'll answer you now.
They can look after one another, protect each other. They can keep each other company.
たがいに、いたわり、まもり、なかむつまじくいる。同性愛も異性愛もない。
いや、昨年翻訳出版されたジェーン・ウォード『異性愛という悲劇』安達眞弓訳(太田出版2024)にあるように、むしろ異性愛のほうが冷酷で差別的で愚劣で愛と思いやりの要件を満たしていないかもしれないのだ。
posted by ohashi at 23:06| 映画
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2025年02月15日
『魔窟』
森功『魔窟-知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済 2024)を遅ればせながら読了した。一般書はKindleで購入するのだが、今回は書籍のかたちで今年の初めに購入し、なかなか読む時間をとることができなかったのだが、興味深い内容で、いよいよ読み始めたら、あっというまに読んでしまった。
まあ、こういうことだろうという予想通りの内容で、結局、学生やその父母が経営陣によって食い物にされているということだったが、ただ、それが取材によって白日の下にさらされた観があり、それはそれで衝撃的だった。
そもそも、たとえば太田光の裏口入学報道があり、名誉棄損の訴訟にまで発展したときでも、日大の側は何のコメントしなかった。在校生もいるし、また卒業生も多くいる。彼らの名誉を守るためにも、大学としては、自分のところは裏口入学など絶対にしていないと声明をだしてもよかったのではないか。おそらく在校生だったり卒業生だったら、それを望んでいたはずである。
結局、裏口入学などないと声明を出したら、事情を知る側から笑いものになるから出さなかったのだろう。どこの大学あるいは組織でも悪い奴はいる。そいつが裏口入学を斡旋しているということはあるかもしれない。しかし、発覚すればそれを処分すればいいのだから、とにかく裏口入学などしていないとなんらかのかたちで公言すればよかった。それをしなかった、あるいはできなかったのだから、組織だって裏口入学をやっていたことを暗黙のうちに認めたようなものである。
いっぽうでアメフト部の薬物事件では、林真理子理事長は、早々と、そのような事件はないと断言したのだが、実はそのとき事件は発覚していたのだから、単純に、嘘をつき隠蔽していたにすぎない。しかも、いずればれることを予期しなかったのだろうか。
太田光の訴訟とのきには、なんの声明も出さず、在校生・卒業生が汚名をきるにまかせ、薬物事件の際には早々と事実とは異なることを宣言して傷口を大きくし在校生・卒業生にまたも汚名をきせることになった。
経営陣は、ろくなことをしていないので、世間に堂々と顔向けできないため、隠蔽と虚偽によってひたすら逃走あるいは迷走するしかなくなっているのである。この経営陣は確かにひどい。憤りを感ずる。
私が、そんなふうに感ずるのは、短期間であれ日大で教えたことがあるからだ。アメフト部のグランドの横を週に一度通って日大文理学部のキャンパスへ赴いていた。そしてそのときの印象からすれば、日大の学生は、みんな勉強熱心で、努力家で、礼儀正しく、また人間的にも成熟した者たちばかりで、教師陣も、優秀で、教育体制あるいは研究体制も整っている。大学の学部・大学院の事務局も厳格かつ効率的に機能していて、どこからみても立派な大学である。
私は、どこか特定の大学を推薦したりほめたりすることはないが、もし私の親戚なり身内の者が、日大に行きたいという希望があれば、私は、良い大学だから入学試験に合格できるようがんばれとエンカレッジすることはまちがいない。
経営陣がいい加減だから、教育体制にも欠陥や不備があり、問題のある学生が多いと思われたら、学生たちが端的にいってかわいそうである。実際、この『魔窟』にも書かれているのだが、日大では学生の保護者たちが大学を告発している。せっかくよい教育環境が整えられているのに、ならず者のような経営陣によって食い物にされたら学生もたまったものではない。学生の保護者たちがいきどおるのも無理はない。
『魔窟』によれば、2024年度の日大受験生は、かなりその数を減らしているようだが(今年度はどうかはわからないが)、経営陣の迷走によって教育現場や学生たちのイメージが下がってしまうのは、ほんとうに心が痛い。しかも皮肉なことに、経営陣は、そのすべてではないが、その多くが日大の卒業生なのである。彼らは母校への愛がないのだろうか。母校の学生を食い物にして心が痛まないのだろうか。正常化の道はないわけではない。それは、どこかのテレビ局ではないが、トップが一刻も早くやめるしかないように思われる。
まあ、こういうことだろうという予想通りの内容で、結局、学生やその父母が経営陣によって食い物にされているということだったが、ただ、それが取材によって白日の下にさらされた観があり、それはそれで衝撃的だった。
そもそも、たとえば太田光の裏口入学報道があり、名誉棄損の訴訟にまで発展したときでも、日大の側は何のコメントしなかった。在校生もいるし、また卒業生も多くいる。彼らの名誉を守るためにも、大学としては、自分のところは裏口入学など絶対にしていないと声明をだしてもよかったのではないか。おそらく在校生だったり卒業生だったら、それを望んでいたはずである。
結局、裏口入学などないと声明を出したら、事情を知る側から笑いものになるから出さなかったのだろう。どこの大学あるいは組織でも悪い奴はいる。そいつが裏口入学を斡旋しているということはあるかもしれない。しかし、発覚すればそれを処分すればいいのだから、とにかく裏口入学などしていないとなんらかのかたちで公言すればよかった。それをしなかった、あるいはできなかったのだから、組織だって裏口入学をやっていたことを暗黙のうちに認めたようなものである。
いっぽうでアメフト部の薬物事件では、林真理子理事長は、早々と、そのような事件はないと断言したのだが、実はそのとき事件は発覚していたのだから、単純に、嘘をつき隠蔽していたにすぎない。しかも、いずればれることを予期しなかったのだろうか。
太田光の訴訟とのきには、なんの声明も出さず、在校生・卒業生が汚名をきるにまかせ、薬物事件の際には早々と事実とは異なることを宣言して傷口を大きくし在校生・卒業生にまたも汚名をきせることになった。
経営陣は、ろくなことをしていないので、世間に堂々と顔向けできないため、隠蔽と虚偽によってひたすら逃走あるいは迷走するしかなくなっているのである。この経営陣は確かにひどい。憤りを感ずる。
私が、そんなふうに感ずるのは、短期間であれ日大で教えたことがあるからだ。アメフト部のグランドの横を週に一度通って日大文理学部のキャンパスへ赴いていた。そしてそのときの印象からすれば、日大の学生は、みんな勉強熱心で、努力家で、礼儀正しく、また人間的にも成熟した者たちばかりで、教師陣も、優秀で、教育体制あるいは研究体制も整っている。大学の学部・大学院の事務局も厳格かつ効率的に機能していて、どこからみても立派な大学である。
私は、どこか特定の大学を推薦したりほめたりすることはないが、もし私の親戚なり身内の者が、日大に行きたいという希望があれば、私は、良い大学だから入学試験に合格できるようがんばれとエンカレッジすることはまちがいない。
経営陣がいい加減だから、教育体制にも欠陥や不備があり、問題のある学生が多いと思われたら、学生たちが端的にいってかわいそうである。実際、この『魔窟』にも書かれているのだが、日大では学生の保護者たちが大学を告発している。せっかくよい教育環境が整えられているのに、ならず者のような経営陣によって食い物にされたら学生もたまったものではない。学生の保護者たちがいきどおるのも無理はない。
『魔窟』によれば、2024年度の日大受験生は、かなりその数を減らしているようだが(今年度はどうかはわからないが)、経営陣の迷走によって教育現場や学生たちのイメージが下がってしまうのは、ほんとうに心が痛い。しかも皮肉なことに、経営陣は、そのすべてではないが、その多くが日大の卒業生なのである。彼らは母校への愛がないのだろうか。母校の学生を食い物にして心が痛まないのだろうか。正常化の道はないわけではない。それは、どこかのテレビ局ではないが、トップが一刻も早くやめるしかないように思われる。
posted by ohashi at 00:18| コメント
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