木村拓哉主演の『グランメゾン・パリ』は、わざわざ正月早々映画館まで足を運ぶまでもない映画だと酷評しているネット記事があった――この映画の大ヒットを予測できないキムタク・アンチが勝手なことを書き散らかしていて、おそらくその記事の筆者は大顰蹙をかったにちがいない。『グランメゾン・パリ』はヒットしただけのことはある、お金のかかった豪華な、そして正月に観る価値のある映画である。これにくらべたらドキュメンタリー映画『ねこしま』は、わざわざ映画館でみることはない、テレビかネットの配信でみればいい映画である。
とはいえ71分のドキュメンタリー映画、けっこう楽しんだのだが。
マルタ島は人口45万に対してネコが10万匹いると字幕に出ていた。ただネット上の紹介記事ではネコが100万匹とあって、どちらがほんとうなのかわからない(映画のナレーションは聞きそびれた)。ただ、ネコが多いことはたしかなのだろう。映画は、ネコに餌やりをしたりネコを保護する人たちへのインタヴューで構成されていて、ネコといっても野良ネコあるいは保護ネコがメインで、ネコがたくさんでてくるが、絵そのものはとくに際立っているということはない。あくまでもインタヴュー中心。
そのインタヴューだが、住民(というかマルタ共和国の国民というべきだが)は、みんな英語を話している。国民がみな英語を話せるわけではないだろうから、限定的な人たちにインタヴューしていることになる――と思っていたが、マルタ共和国は、マルタ語と英語が公用語であることを知らなかった。国民の8割が英語を話せるとのこと。ということは英語が話せる話せないでインタヴューの対象を選ぶ必要はないということだ。行き当たりばったりに話を聞いても、あるいは特定の役割を担う人たちに話を聞くにしても、相手は、みなふつうに英語を話すということになる。
基本的に野良ネコStray Catsの世話をする人たちに話を聞いている。ただ近所に居座っているネコに餌をやる人、ネコ村を設けて餌をやっている人からヴォランティアで保護活動をしてキャット・パークを経営している人、あとは巨大なネコの彫刻をつくり彩色しているアーティスト、またネコに餌をやっていて新聞にとりあげられていた少年とか、英国から移住してきて多くのネコたちの世話をしている元女優といった多彩な人たちとネコとのかかわりが語られてゆく。
印象的だったことのひとつは、保護ネコの里親にネコを紹介しても、ネコをネズミ捕りのために倉庫とか閉店後の商店で飼っているという場合には、そのネコを里親から奪い返すことだった。あくまでも家族の一員として扱わなければ、里親の資格はないという理由だった。
あと、怪我をし老いぼれて汚くて元気のないネコの引き取り手を募集したときのこと。さすがに、このネコを引き取る人はいないと思ったのだが、高齢の女性がそのネコを喜んで引き受けていた。若くて元気のいいネコだと、飼い主の自分が高齢で先に死んだら可哀そうだが、この年老いたネコはおそらくほぼ同時期に自分といっしょに死ぬことになろうから、死ぬまでいっしょに暮らすということだった。老いたネコと老いた人間はともに伴侶になる。
もちろんこの映画は感動というよりは考えさせられることのほうが多かった。キャット・フードを決まった場所に置いておくと野良ネコが食べにくるのだが、べつに食い散らかすというわけではないが、街にキャットフードの食べ残しがあふれていると衛生面でどうだろうかという懸念はある。日本でも鳩に餌やりをする人間が絶えることがなく、住民や自治体が頭を悩ませているが、ネコに餌やりをする人々も、日本で鳩への違法な餌やりと同等のことをしているのではないかというのは言い過ぎだろうか。ネコへの不妊治療も、それが保護されたネコが受ける特権的処置であることが前提となっているようだが、また確かに不妊治療をしないと、ほんとうに町中にネコがあふれてしまうと思うのだが、しかし、動物の繁殖に関する干渉というむつかしい問題が残る。
またこの映画から伝わってくるのは、ネコの保護や世話をしている人たちはヴォランティアで、お金も人手も足りないのである。日本人なら誰もが思いつく表現で、実際にこの映画を観た人がネット上でも語っていたのだが、ほんとうにこの映画に登場するヴォランティアの人たちは忙しくて「ネコの手も借りたい」ほどなのだ。ネコとのつきあい、それも野良ネコの保護の未来はけっして明るくはない。
とはいえネコが多いマルタ島の光景には、島そのものが歴史ある風光明媚な観光地でもあることもあって、癒されるし、正月にのんびりとみる映画としては、べつに正月ではなくてもいいのだが、おすすめの一本ということになる。
そしてこれは付け加えておかねばならないのだが、ネコ好きに悪い人はいないために、この映画は、ただそれだけで心温まる映画であることを保証されているのである。現実でもそうだろうが、とりわけ文学的・文化的にも、ネコ好き人間の好感度は常に爆上がりなのである。
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私は文学理論に関心があるのだが、ここでいう文学理論は、読むための理論であって、書くための理論ではない。私に関心のある文学理論をいくら学んでも、小説や詩の一編すら書けないだろうが、ただ、研究者や批評家にはなれる。しかし書くための理論というものもないことはない。アメリカの大学には昔からある創作課程が日本の大学に設けられるようになって久しく、そこでは書くための理論が教えられているだろうし、また小説の書き方のような本はけっこうあって、これらは正直言って、思想・哲学の分野に通ずる文学理論からみると、格下にみられているのだが、書くための理論も、文学理論として考慮すべきであると私は考えている。
そうした書くための理論のなかで、よく取り上げられるのが、作中人物の好感度を上げるための手法として、動物好き(ペット好き)にすることである。たとえどれほど残忍な連続殺人犯でも犬好き・ネコ好きならば、その人物の性格に奥行きができ、読者からの同情も集めるかもしれない。動物好きはキャラクター設定において有効な働きをしてくれる。
東野圭吾『悪意』(講談社文庫2001)は、記録とか語りの真実を虚偽をめぐるメタフィクショナルな仕掛けに満ちた推理小説だが、そのなかで犯人(職業は作家)は、捜査を混乱させるために、ある人物の性格について虚偽の情報を流す。それをつきとめた刑事が、こんなふうに話す―
今回私は少しだけ文芸の世界に触れてみたわけですが、作品を批評する言葉として、こういう表現を覚えましたよ。それはね、「人間を描く」という言葉です。その人物がどういう人間なのかを読者に伝えるということですが、それは説明文ではいけないそうですね。ちょっとしたしぐさや台詞などから、読者が自分でイメージを構築していけるように書くというのが、「人間を描く」ということなんでしょう?(p.354)
かくして犯人は、動物との接し方によって、ある人物の性格を「読者が自分でイメージ」できるようにする。端的にいって、ネコ嫌い、あるいはネコ殺しである。
人物をネコ好きにすることで、その人物の好感度が上がるとすれば、逆のことをすれば好感度は下落する。連続殺人犯が、子供の頃にペットを虐待したり殺したりしていたら、それだけでその人物に救いの手は誰からも差し伸べられないことになる。動物好きにするという性格づくりは、逆に使えば、性格を強力かつ有効に貶める手段となる。
動物、それもネコを使った性格付けの、有名かどうは知らないがとにかく印象的な場面が、エリオット・グールド主演、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1972)の冒頭にある。夜フィリップ・マーロー/エリオット・グールドがネコに起こされる。餌をくれということのようだが、キャット・フードをきらしていることがわかると、マーローはしかたく夜の街に車でキャット・フードを買いに出る。ここで観客はマーローについて自分でイメージをこしらえることができる。わがままなネコのためにキャット・フードを買いに出る!なんていい奴なんだ。
同じようにいい奴だったのは、この私である。私は動物をペットして飼ったことはないが、一時期、ネコと同棲していたことがある。ネコと同棲? なんだ、なにかの比喩かと問いただされそうだが、比喩でも暗号でもなく、ほんとうにネコと同棲していた。いっしょに寝ていた――人間ではなくネコと。(まあ、お前の性格からして男性であれ女性であれ、人間と同棲するのは不可能だろうから、嘘ではなかろうと嘲笑が聞こえてきそうだ)
ある夜、キャット・フードをきらしていることがわかった。ネコがせっついてうるさい。そのため私は深夜、駅前の商店街にキャット・フードを探しに出た。いまとちがって当時は、コンビニなどなかった。スーパーや店も11時頃にはどこも閉まっていた。ただ、かろうじて、小さな雑貨店が開いていて、食料品も売っていたその店でキャット・フードを購入できた。そして帰宅路を急ぎながら、『ロング・グッドパイ』のマーロー/エリオット・グールドになったみたいだと、妙に誇らしげに感じたことを今も鮮明に覚えている。
こんなエピソードを語って、自分の好感度を爆上げしようとするとは、なんと姑息な人間だと軽蔑されるかもしれないが、好感度を上げようとは思っていない。というのも、私はネコ好きどころか、結局、そのネコを捨てた度し難い人間だからだ。引っ越しすることになったが、ネコをいっしょには連れてゆかなかった。私は、人間からは嫌われたりして捨てられてばかりいたが、人間を捨てたことはない。しかしネコは捨てた。これは、いまも悔いてやまない罪である。