2025年01月30日

『室町無頼』

映画館で予告編を見る限り、大泉洋の時代劇は、さほど観たいとも思わなかったし、そもそも、あまりよくわからない室町時代が舞台であること。ポジティヴな期待をかきたてる唯一の要因といえば、それは入江悠監督・脚本の映画だということだった。

だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。

そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。

大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。

ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。

物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。

昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。

おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。

『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。

映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。

ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。

ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。

【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】

一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。

文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。

『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。

【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
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2025年01月28日

『ボーダーランズ』

TVガイドWeb によるストーリー(Web2025.1.27)
最旬!動画配信トピックス
「ボーダーランズ」見どころを紹介! ケイト・ブランシェットら個性派チームのぶっ飛び逃避行
 
世界中で愛される大人気ゲームを原作に、惑星・パンドラで繰り広げられるスリルとユーモアの旅を描いたアクションアドベンチャー映画「ボーダーランズ」がPrime Videoで配信中。ホラー映画の名手であるイーライ・ロスの監督最新作としても、名優のケイト・ブランシェット主演作としても話題の本作に、注目が集まっている。

物語の始まりは、主人公の賞金稼ぎ・リリス(ケイト・ブランシェット)が宇宙一の大物実業家・アトラス(エドガー・ラミレス)に娘の捜索を依頼されるところから。彼の娘であるタイニー・ティナ(アリアナ・グリーンブラット)が惑星・パンドラで行方不明になったようで、彼女を見つけ出して連れ戻すよう指示される。報酬に満足して依頼を受けたリリスは、自らの故郷でもあるパンドラへ。だが、簡単に思えた任務の裏には、宇宙を揺るがす壮大な陰謀が潜んでいた――。【以下略】

まあ、観てみて面白かったのだが、しかし、アメリカでの評判はすこぶる悪い。今年度の栄誉あるゴールデンラズベリー賞にノミネートされていて、3月1日には受賞するかもしれない。記事にあるように人気のビデオゲームの映画化なのだが、そうした映画としては歴代最悪から二番目の興行収入らしい。

アマゾンのプライムビデオをパソコンとかテレビの画面、タブレットや携帯の画面などで観ていると、充分に面白いのだが、映画館の大きなスクリーンで観ると、さすがに安っぽさが目についてしまうのだろうか。

配役にも問題があるかもしれない。ゲームでは22歳という設定のリリス(主人公)を、映画では55歳のケイト・ブランシェットが演じている。映画のなかではもう若くないというようなことをケイト・ブランシェットは述懐するし、また中高年の女性が主人公で悪いということはないが、ただ、どうみても若い女性という設定のようなので、中高年の女性が女子高校生のコスプレをしているような痛々しさがある。ケイト・ブランシェット自身は、このハードなアクション役をけっこう気に入っているようなのだが、しかし、誰もが、彼女に対して仕事を選んだらと言いたくなる。あるいはケイト・ブランシェットの無駄遣いという気がしてならない。

もう一人の無駄遣いはケヴィン・ハートである。Netfixオリジナルの映画『Lift/リフト』(2024)ではお笑いを封印した役柄で、それはそれでよかったのだが、今回は、お笑いが中途半端。一輪車ロボットのクラップトラップが、ケヴィン・ハートが演じてもいい、うっとうしい色物のロボットだったが、その声をジャック・ブラックが担当していて、お笑いは彼が独占している観がある。そのためケヴィン・ハートはティナ姫を守る兵士くずれのボディガードだけれども、100%のヒーローかというと、その小柄な容姿がややコミカルで、結局、ヒーローなのか道化なのか、どっちつかず。さらにいえばティナ姫を守る巨漢のクリーグと小柄なローランド/ケヴィン・ハートという凸凹コンビも、その特徴をよく活かしていない。ケヴィン・ハートの無駄遣いである。

ジェイミー・リー・カーチス演ずる科学者タニスは、オリジナルのゲームでは、おそらくぶっ飛んだ科学者なのだろうが、映画版ではごくふつうの科学者にすぎない。彼女は、リリス/ケイト・ブランシェットとは母と娘ほどの年齢差なのだが、実年齢では10歳くらいしか離れておらず、しかも映画の中ではタニスとリリスは同じ年齢あるいは同じ世代にみえる。

またリリス/ケイト・ブランシェットの前に、生き別れになった母親がホログラムとなってあらわれるのだが、母親のほうが娘よりも若くみえるのは、設定をくずすことになる。

全体にこじんまりまとまりすぎてしまい、たとえば『マッドマックス』のような荒野での大追跡劇が、あるにはあるのだが、すぐに終わってしまい、あとは廃墟のなかでのドタバタで終わっている。物語は宇宙全体を巻き込む大事件であるのだが、大事件とは裏腹の矮小化された事件の羅列になっている。

とはいえ目まぐるしいアクション場面はそれなりに見ごたえはあるし、このグループで宇宙をところせましと飛び回るという往年のスペースオペラ的(『スター・ウォーズ』的といったほうがわかりやすいか)展開あるいは続編も見込めそうだと思うのだが、しかし、映画のはじめのほうで予想される展開はそうではなかった。

冒頭からケイト・ブランシェットによるナレーションは、設定を説明するのだが、どこか斜に構えていて、こんなくらだらいことを誰が信ずるかというアイロニカルな語調が際立っていて面白く、しかも冒頭登場するリリス/ケイト・ブランシェットは、賞金稼ぎだが、中高年女性で、人生にも仕事にも疲れ、すべての事象を距離を置いてみているのだが、それでいて有能きわまりないという、なかなか魅力的な役柄だった。彼女に仕事を依頼しに来る人間をうっとうしく思い、そのボディガードをさっさと射殺してしまうところも、変にジャンル映画におもねったりしないリアルな人物像となっていて期待がたかまった。だが期待は期待だけで終わり、実現することはなかった。
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2025年01月25日

満票の思い出 あと二つ

前日の記事のつづき

Nobody’s Perfect.
昔読んだのでタイトルも忘れてしまったし、またいろいろなアンソロジーに掲載されるような有名な作品ではないと思うのだが、小松左京のSF短篇に、航空会社とか鉄道会社などのために、事故を起こす仕事をしている会社を扱った作品があった。事故と言っても軽い事故であり、あえて人為的に起こす事故なので、死傷者などゼロの事故である。なぜそんなことをするのか。

たとえば航空会社が安全運航を心がけ、会社設立から現在に至るまで墜落事故ゼロを誇っているとしよう。これは実際に起っていることである。たとえば新幹線は開業当初から現在に至るまで大きな事故は起こしていないし、事故による死傷者は出ていない。そういう信頼性の高い運輸関係の会社は、しかし、いつか大事故を起こすのではないかという不安が、事故ゼロがつづけばつづくほど大きくなる。定時運行・事故ゼロというのは人員輸送業務にとって理想的であり完璧な状態だが、理想的であり完璧であればあるほど、人間は不安になる。いつか大きな事故が起こるのではないか、と。

そこでこうした不安を解消するために、小さな事故を起こす。たとえば航空機がエンジンから火を噴いて離陸できなくなるだけでなく、機体に火が燃え移って丸焼けになりかねなかった事故を起こす。それで安心をする。航空会社も完璧ではない。整備不良かどうかわからないが、とにかくなにか事故を起こす。そうすると利用客のほうは、やはりこの優良な航空会社も小さな事故は防げなかった、だから安心をする。端的にいって、よいことづくめだと、悪いことがおきないかと不安になるのだ。また過失あるいは瑕疵があることで、会社側に安全意識が高まり、次に事故を起こすことはあるまいと、利用客は安心するともいえる。

(なお人為的に起こす事故が、大惨事寸前の大事故だと、会社に対する不安が高まり、逆効果になるので、あくまでも小さな事故に限られる)。

前回、教授会で私が推薦演説をした人事候補者は満票で選出されたことを書いた。そのときあまり満票が続くので、最後の推薦演説の時は、1票か2票、白票とか反対票が入るのではないかと心配したが、そのようなこともなく、研究室で提案し、私が推薦演説を担当した人事案件はすべて満票での選出に終わったのだが、満票続きだったので私も最後まで満票かどうかほんとうに不安になった。前回と同じことを繰り返すが、候補者に問題があったのではなく、投票する人間が、スイッチを間違えて反対票を入れてしまうようなアクシデントがあるのではないかと心配したのである。またたいてい満票で選出されるので、私の連続満票は偉業でもなんでもなく、ありふれたことであった。

話を戻そう。会社の求めに応じてこうした些細な事故を人為的に起こすのを仕事している会社が生まれるというSFだった。実際に、そんな会社はないだろうが、気持ちはわかる。完璧な状態というのは気味が悪いのだ。欠陥があったり事故があったりすると、それが軽微なものであれば、安心できる。そしてそうした人為的な事故に対する需要はこれからますます増えるのではないかと思う。小松左京のSF短篇にあったのような事態はこれからほんとうに起こるにちがいない。

コンピュータというかAIがいろいろな管理をおこなうようになると大事故は皆無になるだろう。このパーフェクト状態は、慣れるまでには相当時間がかかる。1世紀くらいかかるかもしれない。その間、パーフェクト状態に対する不安は募る一方であろう。事故のない交通機関はおそらくもうすぐ実現するだろうが、事故のない交通機関は人類史上、例を見ない事態であって、なにか事故でも起こってくれないと心配になる。

パーフェクトな状態はパーフェクトではない。これはおそらくAIには理解できない人間の心理なのである。

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満票信仰の呪い

昔、昔、ある学会(学術団体)が、運営方針とか活動内容を決めるときに、全会員出席の総会において、全員が賛成票を投じなれければ、議案を承認しないことをルールとしてした。

その話を聞いたときに、私はなんというバカな学会なのだと思った。総会で一人でも反対したら、議案は否決されてしまい、下手をすると、何も決まらないまま終わってしまうのではないか。

なにか変な満票信仰みたいなものにとりつかれているのではないか。そうでなければ、そんな馬鹿なことをよく決めたものだと、あきれかえった。

しかし、それは学会設立当初に決めたルールであったという。なぜという私の質問に、直接明民主制を導入したかったからだということだった。それはけっこうだが、なぜ多数決の議決にしなかったのかという問いには答えてもらなかった。やはり満票信仰のせいだろうか。私が質問した相手は、すでにその学会を辞めていたのだが。

たとえば理事会(10名前後の理事)で何かを決めるときに全会一致を原則としてもいい。理事会が会員に何かを提案するとき、理事会のなかで意見の不一致があってはたまらない。だから理事会では全会一致の原則を守り、総会では多数決で決める。それならなんら問題もないのだが、総会において全会一致の原則を貫こうとしても無理ではないかと思った。当然の心配だが、学会設立メンバーは、気にも留めなかったようだ。

総会において一人でも反対したら議案は否決されることになる。実にあやうい議事進行であり学会運営なのだが、ただ、常識で考えた場合、一人でも反対したら否決というとき、それでも反対票を投ずるのは相当に勇気のいることである。とくに私以外のすべての会員が賛成している議案に対し、私が確信をもって問題ありと考えたとしても、反対の1票を投ずる勇気はない。したがって総会で全員一致ではないと議案を承認しないというのは、ある意味、全体主義である。そんな規則であれば、自由に反対意見あるいは少数意見を述べることも、反対の意思表示もできないではないか。こんなひどい同調圧力はない。おまえが反対すれば、この学会全体が音を立てて崩れるのだと脅されたとき、異議申し立てなどできるわけがない。

総会における全会一致で議案を承認するという方法は、調和と合意を重んじていながら、実は、ひどい強制である。直接民主制における少数意見の尊重であるかにみえて、少数意見の抑圧である。全会一致でないのなら、自由に反対意見や異議申し立てができる。たとえそのような反対意見は否決されたとしても、それが未来において有効な意見となる可能性は高い。

とにかく、総会における全会一致の原則を考えた学会設立メンバーは全員が善意のバカであり悪意のバカでもあったのだろう。

実際、その学会はどうなったのかというと、総会で必ず反対意見を述べる会員がいて、結局、なにごとも正式に決まらなくなった。それだと学会がすぐにも解体してしまうので、暫定的な決定による運営方式となった。またそれだけでなく、組織・運営が、全会一致の賛成が得られず合意のないまま、考えられる限りのいびつなかたちになって変則性が常態となるという目も当てられないものになった。

私は、あきれかえって、その学会を辞めたが、私が辞めてからほどなくして、その学会も解散した。満票信仰の呪いとしかいいようがない。総会で全会一致で解散に同意したのだろうか。解散の動議は満票で承認されたのだろうか。おそらく満票での同意を得られないまま、解散したのか解散できなかったのか、宙づりのまま、それでも消滅することになったのだろう。いまでそんな学会があったことなど誰も覚えてない。
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2025年01月24日

満票の思い出

米野球殿堂は21日(日本時間22日)、今年の殿堂入りメンバーを、メジャー通算3089安打を放ったイチロー(51)=本名・鈴木一朗=を選出した。全米野球記者協会(BBWAA)の有資格投票者394人のうち、1人の記者だけが票を投じず、得票率は99・7%。マリアーノ・リベラさん(元ヤンキース)以来、史上2人目の満票選出はならなかった。

イチローに票を入れなかった記者は誰なのか、なぜ入れなかったのか。その理由について、開示してほしい、ひょっとしたら何かのミスで投票しそこねたのではと、いろいろな意見が飛び交っているようだが、アメリカ野球史上、これまで満票で選ばれて殿堂入りした選手は一人しかいなかったみたいで、どんなに優れた選手でも満票は奇跡に近いということだろう。その奇跡が今回起こらなかったのは残念だが、しかたのないことでもあるのだろう。

私は満票で選ばれて何かになったということはないが、教授会では私が推薦演説をした候補は満票で選出されていた。

これは奇跡でもなんでもなくて、人事委員会で対立候補を立てることなく一人に絞った候補者が、教授会での審議と選挙によって否決されることはないし、またそうした候補はたいてい満票で選出されていた。ここでいう候補者とは、新任の教員か、昇格する教員である。

私が退職してから何年もたつので、いまも同じ形式で人事選考をすすめているのかわからないので、あくまでも私が在職中のことである。またそれだから話して問題はないだろう。時効が成立していると思う。

私が所属している研究室で人事案件を起こす場合、研究室主任が教授会で推薦演説をする。主任は研究室メンバーのうち最年長者がなるので(事情によっては、この原則が守られないこともあるのだが)、私は在職中の最後の数年間、研究室主任として、教授会で推薦演説を行なった。

私が推薦演説を行なった人物は、満票で選出された。とはいえこれは珍しいことはない。ほとんどの候補者が満票で選出されるからだ。ただし、時々、数票の反対票か白票が入ることがある。もちろん、それくらいの数の反対票は候補者選出にまったく影響しない。全体で何票あれば選出決定かは規則に定められているし、数票の反対票があっても、全く問題ではないからだ。

ただそれでも自分で推薦演説をした候補者が満票で選出されるのは気持ちがいいものである。そして私の主任の任期中、最後の推薦演説をする時がやってきた。これまで満票での選出だったから、今回も満票であって欲しかったが、さすがに最後まで満票というのはないかもしれないと思った。

候補者に問題があるのではない。私自身よりも業績がはるかに多い、優れた候補者だったから、選出されることは100%確実である。ただ満票で決まるかどうか。反対票か白票が1票か2票入るのではないか。それもスイッチを押し間違えて反対票に入れてしまうようなミスをする者によって。もちろんひとりかふたりミスをしても選出されることは間違いない。だから選出は100%確実であるのだが、神様がいたずらをして満票にしてくれないのではないか。いままでが運がよすぎたのでは。そんな思いが渦巻いていた……。

そしてその結果、私が在職中、最後の推薦演説を行なった候補者は満票で選出された。もちろん候補者の優秀さが正しく評価された結果だが、最後まで満票であったことで私は安堵し自己満足にひたっていた。

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2025年01月10日

マルタのネコ

『ねこしま』Cats of Malta(サラ・ジェイン・ポルテッリ監督、2023年 マルタ映画、71分)

木村拓哉主演の『グランメゾン・パリ』は、わざわざ正月早々映画館まで足を運ぶまでもない映画だと酷評しているネット記事があった――この映画の大ヒットを予測できないキムタク・アンチが勝手なことを書き散らかしていて、おそらくその記事の筆者は大顰蹙をかったにちがいない。『グランメゾン・パリ』はヒットしただけのことはある、お金のかかった豪華な、そして正月に観る価値のある映画である。これにくらべたらドキュメンタリー映画『ねこしま』は、わざわざ映画館でみることはない、テレビかネットの配信でみればいい映画である。

とはいえ71分のドキュメンタリー映画、けっこう楽しんだのだが。

マルタ島は人口45万に対してネコが10万匹いると字幕に出ていた。ただネット上の紹介記事ではネコが100万匹とあって、どちらがほんとうなのかわからない(映画のナレーションは聞きそびれた)。ただ、ネコが多いことはたしかなのだろう。映画は、ネコに餌やりをしたりネコを保護する人たちへのインタヴューで構成されていて、ネコといっても野良ネコあるいは保護ネコがメインで、ネコがたくさんでてくるが、絵そのものはとくに際立っているということはない。あくまでもインタヴュー中心。

そのインタヴューだが、住民(というかマルタ共和国の国民というべきだが)は、みんな英語を話している。国民がみな英語を話せるわけではないだろうから、限定的な人たちにインタヴューしていることになる――と思っていたが、マルタ共和国は、マルタ語と英語が公用語であることを知らなかった。国民の8割が英語を話せるとのこと。ということは英語が話せる話せないでインタヴューの対象を選ぶ必要はないということだ。行き当たりばったりに話を聞いても、あるいは特定の役割を担う人たちに話を聞くにしても、相手は、みなふつうに英語を話すということになる。

基本的に野良ネコStray Catsの世話をする人たちに話を聞いている。ただ近所に居座っているネコに餌をやる人、ネコ村を設けて餌をやっている人からヴォランティアで保護活動をしてキャット・パークを経営している人、あとは巨大なネコの彫刻をつくり彩色しているアーティスト、またネコに餌をやっていて新聞にとりあげられていた少年とか、英国から移住してきて多くのネコたちの世話をしている元女優といった多彩な人たちとネコとのかかわりが語られてゆく。

印象的だったことのひとつは、保護ネコの里親にネコを紹介しても、ネコをネズミ捕りのために倉庫とか閉店後の商店で飼っているという場合には、そのネコを里親から奪い返すことだった。あくまでも家族の一員として扱わなければ、里親の資格はないという理由だった。

あと、怪我をし老いぼれて汚くて元気のないネコの引き取り手を募集したときのこと。さすがに、このネコを引き取る人はいないと思ったのだが、高齢の女性がそのネコを喜んで引き受けていた。若くて元気のいいネコだと、飼い主の自分が高齢で先に死んだら可哀そうだが、この年老いたネコはおそらくほぼ同時期に自分といっしょに死ぬことになろうから、死ぬまでいっしょに暮らすということだった。老いたネコと老いた人間はともに伴侶になる。

もちろんこの映画は感動というよりは考えさせられることのほうが多かった。キャット・フードを決まった場所に置いておくと野良ネコが食べにくるのだが、べつに食い散らかすというわけではないが、街にキャットフードの食べ残しがあふれていると衛生面でどうだろうかという懸念はある。日本でも鳩に餌やりをする人間が絶えることがなく、住民や自治体が頭を悩ませているが、ネコに餌やりをする人々も、日本で鳩への違法な餌やりと同等のことをしているのではないかというのは言い過ぎだろうか。ネコへの不妊治療も、それが保護されたネコが受ける特権的処置であることが前提となっているようだが、また確かに不妊治療をしないと、ほんとうに町中にネコがあふれてしまうと思うのだが、しかし、動物の繁殖に関する干渉というむつかしい問題が残る。

またこの映画から伝わってくるのは、ネコの保護や世話をしている人たちはヴォランティアで、お金も人手も足りないのである。日本人なら誰もが思いつく表現で、実際にこの映画を観た人がネット上でも語っていたのだが、ほんとうにこの映画に登場するヴォランティアの人たちは忙しくて「ネコの手も借りたい」ほどなのだ。ネコとのつきあい、それも野良ネコの保護の未来はけっして明るくはない。

とはいえネコが多いマルタ島の光景には、島そのものが歴史ある風光明媚な観光地でもあることもあって、癒されるし、正月にのんびりとみる映画としては、べつに正月ではなくてもいいのだが、おすすめの一本ということになる。

そしてこれは付け加えておかねばならないのだが、ネコ好きに悪い人はいないために、この映画は、ただそれだけで心温まる映画であることを保証されているのである。現実でもそうだろうが、とりわけ文学的・文化的にも、ネコ好き人間の好感度は常に爆上がりなのである。

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私は文学理論に関心があるのだが、ここでいう文学理論は、読むための理論であって、書くための理論ではない。私に関心のある文学理論をいくら学んでも、小説や詩の一編すら書けないだろうが、ただ、研究者や批評家にはなれる。しかし書くための理論というものもないことはない。アメリカの大学には昔からある創作課程が日本の大学に設けられるようになって久しく、そこでは書くための理論が教えられているだろうし、また小説の書き方のような本はけっこうあって、これらは正直言って、思想・哲学の分野に通ずる文学理論からみると、格下にみられているのだが、書くための理論も、文学理論として考慮すべきであると私は考えている。

そうした書くための理論のなかで、よく取り上げられるのが、作中人物の好感度を上げるための手法として、動物好き(ペット好き)にすることである。たとえどれほど残忍な連続殺人犯でも犬好き・ネコ好きならば、その人物の性格に奥行きができ、読者からの同情も集めるかもしれない。動物好きはキャラクター設定において有効な働きをしてくれる。

東野圭吾『悪意』(講談社文庫2001)は、記録とか語りの真実を虚偽をめぐるメタフィクショナルな仕掛けに満ちた推理小説だが、そのなかで犯人(職業は作家)は、捜査を混乱させるために、ある人物の性格について虚偽の情報を流す。それをつきとめた刑事が、こんなふうに話す―
今回私は少しだけ文芸の世界に触れてみたわけですが、作品を批評する言葉として、こういう表現を覚えましたよ。それはね、「人間を描く」という言葉です。その人物がどういう人間なのかを読者に伝えるということですが、それは説明文ではいけないそうですね。ちょっとしたしぐさや台詞などから、読者が自分でイメージを構築していけるように書くというのが、「人間を描く」ということなんでしょう?(p.354)

かくして犯人は、動物との接し方によって、ある人物の性格を「読者が自分でイメージ」できるようにする。端的にいって、ネコ嫌い、あるいはネコ殺しである。

人物をネコ好きにすることで、その人物の好感度が上がるとすれば、逆のことをすれば好感度は下落する。連続殺人犯が、子供の頃にペットを虐待したり殺したりしていたら、それだけでその人物に救いの手は誰からも差し伸べられないことになる。動物好きにするという性格づくりは、逆に使えば、性格を強力かつ有効に貶める手段となる。

動物、それもネコを使った性格付けの、有名かどうは知らないがとにかく印象的な場面が、エリオット・グールド主演、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1972)の冒頭にある。夜フィリップ・マーロー/エリオット・グールドがネコに起こされる。餌をくれということのようだが、キャット・フードをきらしていることがわかると、マーローはしかたく夜の街に車でキャット・フードを買いに出る。ここで観客はマーローについて自分でイメージをこしらえることができる。わがままなネコのためにキャット・フードを買いに出る!なんていい奴なんだ。

同じようにいい奴だったのは、この私である。私は動物をペットして飼ったことはないが、一時期、ネコと同棲していたことがある。ネコと同棲? なんだ、なにかの比喩かと問いただされそうだが、比喩でも暗号でもなく、ほんとうにネコと同棲していた。いっしょに寝ていた――人間ではなくネコと。(まあ、お前の性格からして男性であれ女性であれ、人間と同棲するのは不可能だろうから、嘘ではなかろうと嘲笑が聞こえてきそうだ)

ある夜、キャット・フードをきらしていることがわかった。ネコがせっついてうるさい。そのため私は深夜、駅前の商店街にキャット・フードを探しに出た。いまとちがって当時は、コンビニなどなかった。スーパーや店も11時頃にはどこも閉まっていた。ただ、かろうじて、小さな雑貨店が開いていて、食料品も売っていたその店でキャット・フードを購入できた。そして帰宅路を急ぎながら、『ロング・グッドパイ』のマーロー/エリオット・グールドになったみたいだと、妙に誇らしげに感じたことを今も鮮明に覚えている。

こんなエピソードを語って、自分の好感度を爆上げしようとするとは、なんと姑息な人間だと軽蔑されるかもしれないが、好感度を上げようとは思っていない。というのも、私はネコ好きどころか、結局、そのネコを捨てた度し難い人間だからだ。引っ越しすることになったが、ネコをいっしょには連れてゆかなかった。私は、人間からは嫌われたりして捨てられてばかりいたが、人間を捨てたことはない。しかしネコは捨てた。これは、いまも悔いてやまない罪である。
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2025年01月05日

将棋は誰に教わる

昨年のことだが、しかし、昨年の12月のことで、まだ1か月はたっていない。昨年12月9日、日本経済新聞のネット・ニュースによれば
第72期将棋王座戦(日本経済新聞社主催、東海東京証券特別協賛)五番勝負を制し、初防衛を果たした藤井聡太王座(22)の就位式が9日、東京都内のホテルで開かれた。
【中略】
今回の五番勝負で藤井王座は永瀬拓矢九段(32)の挑戦を3勝0敗で退け、初めて王座を防衛した。8つあるタイトル戦全てで防衛に成功した初の棋士となった藤井王座は壇上で「初防衛を目指す立場だったが、気持ちのうえでは再び挑戦者として、前期よりよい内容の将棋を指せればと対局に臨んだ」と語った。
 「初防衛の藤井聡太王座が就位式 「再び挑戦する気持ちで」将棋王座戦」2024年12月9日、日本経済新聞の記事より

王座就任式に私はなんの関係もないのだが、この記事によれば、就任に対して祝辞を述べたのが若島正(京都大学名誉教授)氏であった。『日刊スポーツ』の記事によれば、
祝辞は、詰め将棋作家の若島正京大名誉教授【これでは漢字が多すぎて、どこで区切ったらよいかわからないと思うので、区切りを入れると、「若島 正」「京大」「名誉教授」である】が述べた。藤井は詰め将棋が得意で、小さい頃から数多く解いており、それが実戦の終盤力としていかされている。

若島教授は、「詰め将棋は、将棋の中に潜む可能性を引き出す。詰め将棋を通して、子どもの頃から将棋の奥深さを実感されている。さまざまな記録を塗り替えて、新手や藤井手筋を編み出して、将棋を奥深さを訴えてもらいたい」と期待していた。
『日刊スポーツ』2024年12月9日より

この若島 正・京大名誉教授と、12月10日に、ある会議に出席することになった。有名人好きの私としては、それこそサインでも貰おうかとか、いっしょのところを写メに撮ってもよいかと頼もうとも思ったのだが、あいにく、そのチャンスは訪れなかった。

ただ前日のネット記事では、藤井聡太――肩書というかタイトルをたくさんもっている藤井氏に対しては、どうお呼びするのがよいのか、若島先生にお聞きしようかと思ったが、これもその機会を逸したのだが、記事にならって藤井聡太王座としておくと、藤井聡太王座の話とともに、祝辞を述べた若島先生のことも、藤井王座が尊敬する詰め将棋作家として話題になっていた。

若島先生は高名な英文学者なので昔から会えば挨拶するくらいのつき合いはあるのだが、また将棋やチェスに強いということも有名だったが、詰め将棋作家でもあること、藤井王座が尊敬していることは知らなかった。

最近では、リチャード・パワーズの『黄金虫変奏曲』というたいへんな翻訳を上梓されたことは知っていたが、2024年に『詰将棋の誕生 『詰むや詰まざるや』を読み解く』(平凡社)を上梓されたことは知らなかった。したがって2024年12月9日、ネット上にあらわれた若島先生の将棋・チェス関係の功績に関する記事をいくつか興味深く読ませてもらった。記事のなかで、将棋を祖父から習ったということが私の関心をひいた。

祖父から将棋を教わったということを、ずいぶん前に若島先生から直接うかがったことはある。だから新情報ではないのだが、藤井王座も祖父母から将棋を習ったとWikipediaの記事にある。
幼少期
5歳であった2007年の夏、母方の祖父母から将棋の手ほどきを受けた。藤井の祖母は、3人の娘のところに生まれた孫達に囲碁と将棋のルールを順番に教えていた(祖母自身はルールを知る程度)。藤井は瞬く間に将棋のルールを覚え、将棋を指せる祖父が相手をしたが、秋になると、祖父は藤井に歯が立たなくなった。同年の12月には瀬戸市内の将棋教室に入会する。

藤井九段も祖父母から将棋の手ほどきを受けた。これを奇しくもというか、あるいは昔の人は孫に将棋を教えること、将棋の上手い下手は別にして、将棋が基本的教養になっていたのか、そこのところはまったく無知なのだが、ただ、藤井九段、若島正といった将棋の天才のほかにも、祖父母から将棋を習った人間を私は一人知っている。それは私である。

父方の祖父は、私が生まれたときには他界していたのだが、父方の祖母から私は将棋の手ほどきを受けた。祖母は、将棋のルールだけでなく、定石などもいつくも知っていて、実際に子供の私を相手に将棋をさした。残念ながら、私の祖母は人でなしというか人間のクズというべきか、まだ幼い子供を相手に将棋を指すときにも、負けず嫌いで、絶対に負けないのである。時には子供に勝たせて、成功体験を植え付け、将棋や勝負事にも関心を向けさせる、あるいは子供に自信をもたせようなどいう気持ちは皆無で、サディスティックに子供つまり私が負けるのを喜んでいた。祖母との対戦で、いくつかの定石も学んだ。定石が使える局面へと私を追い込み、定石によって完膚なきまでに子供の私はやっつけられたので。鬼婆であった。

定石は学んだが、それは屈辱的な敗北とともに学んだために、むしろ忘れたい記憶としてとどまるしかなかった。当然、子供の頃の私は将棋には興味を失った。一度も勝ったことがないので、将棋には近づかないほうがいいと学んだのである。

私の祖母がもうすこし寛容で子供に勝ちを譲るほどの心が広くてやさしい人間であったらなら、私は、藤井十段とか若島正氏ほどではないとしても、ある程度、将棋をさせる人間になっていたかもしれない。すべては鬼婆、いや私の祖母、ろくでなしの祖母、鬼婆が悪いのである。

将棋にまつわる子供の頃の嫌な思い出がよみがえったので、この正月に、妹に、このことを話してみた。すると妹も祖母から将棋の手ほどきをうけたという。妹は祖母や父と将棋をさして、勝ったことがあるという。

勝った? あの鬼婆と将棋で勝った?

嘘だろう。あの鬼婆は子供頃の私に一度も勝たせてくれなかった。

いや、間違いなく勝ったことがある。父親とも将棋を指して勝ったこともある、と妹。

……

……

私の祖母は鬼婆ではなかったのかもしれない。偏屈で負けず嫌いの祖母のせいで、将棋に勝たせてもらえず、将棋が嫌いになったというか、将棋への関心を失ったのだと、私はこの歳になるまでずっとそう考えていた。だが、そうではなかったのだ。私が将棋に弱かったのだ。祖母は私に勝たせよとしたのかもしれないが、私が勝手に負けていたのだ。つまり私の頭が悪かったのだ。藤井十段、若島正氏と肩をならべていたかもしれないというのは、なんという思いあがった愚かな妄想なのだろう。私は妹よりも頭が悪かった。自分の頭の悪さを棚にあげて、祖母を、人でなし、人間のクズ、鬼婆とののしっていたのだ。私は、なんという恥ずかしい人間なのだ。正月早々めげた。

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2025年01月04日

『白衛軍』2

敵こそわが友

昨年12月新国立劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を自腹で観た。そして自腹でプログラムを購入したのだが、そのプログラムは充実した内容で、いろいろなことを教えてもらったが、同時に、疑問も多くわいてきた。

旧ロシア帝国軍人からなる白衛軍をウクライナ人民共和国軍で率いる将軍パウロー・スコロパードシクィイは、「ウクライナのヘーチマン」に選出されたので、白衛軍は「ヘーチマン軍」でもある。この「ヘーチマン」というのはウクライナ語をもとにしたカタカナ表記なのだが、今回『白衛軍』のシナリオを翻訳した小田島創志氏は「ゲトマン」と表記されている。私は、英語訳(The White Guard, translated by Michael Glenny)でこの作品を読んだから、頭のなかには「ヘトマンHetman」という表記がしみついていたのだが、ロシア語では「ゲトマン」となるのだろうと想像はついた。

岩波文庫で出始めたゲルツィンの回想録だが、私の手元にある英訳本では「ヘルツィン」である。英語読みするとそうなるがロシア語読みすれば「ゲルツィン」となるのだろう。それと同じで英語読みすると「ヘトマン」がロシア語読みでは「ゲトマン」そしてウクライナ語読みでは「ヘーチマン」ということだろうか。

しかしプログラムに「ウクライナの革命とキエフのロシア人」を寄稿されている村田優樹氏は、本文において初出時には「ヘトマン(ゲトマン)」と表記されているが、以後は「ヘトマン」とだけ表記している。いったいどういう表記が原音に近づくのだろうか。あるいはどういう表記でよしとすべきなのだろうか。

あと本題に入る前にもうひとつ。劇の第4幕ではクリスマス・ツリーがトゥルビン家の居間に置かれている。私が読んだ英語訳(今回の上演の英語訳とは異なる訳者によるもの)では、クリスマス・イヴにクリスマス・ツリーの飾りつけをしているとト書きにある。しかし、今回の舞台では、クリスマス・ツリーを片付けている。これも不思議で、どちらが原作に近いのだろうか。飾りつけか後片付けか。

私が読んだ英語訳では、ロシア圏での旧暦のクリスマス・イヴは、新歴では十二夜の前日であると注記してあった。十二夜というのはクリスマス・シーズンの終わりの日である。トゥルビン家の人々はクリスマス・イヴにツリーの飾りつけをしているのだが、新歴では、それはクリスマス休暇の終わりの前の晩なのである。クリスマス休暇の始まりの前夜とクリスマス休暇の終わりの前夜の共存。これは飾りつけと後片付けの2つのヴァージョンが生まれたことと関係しているのかもしれない。そしてトゥルビン家の人々にはクリスマスの始まりだが、新しい時代、新暦の時代にはクリスマスの終わりであって、まさに終わりの始まりという点で、この劇のテーマともひびきあう。そしてもう一度、問いたい。クリスマス・ツリーは飾り付けるの、飾りをとりはらうのか――原作では?

【なお私が読んだ英訳での第4幕のツリーの飾りつけに関する訳注の大意を記しておくと。
「1918年2月までロシアはユリウス暦を使用していた。20世紀において、ユリウス暦は、グレゴリオ暦(ロシア以外の国々で使われていた)よりも13日遅れる。グレゴリオ暦への転換以後もロシア人(ならびにロシア正教会)はユリウス暦で祭日を祝いつづけた。したがって第4幕は、グレゴリオ暦(新暦)では1月5日(十二夜の前夜)であるが、トゥルビン家の人々は、ほかのロシア人と同様に、その日がユリウス暦(旧暦)のクリスマス・イヴ(つまり12月24日)であるかのようにお祝いをしているのである。」】

ただもっと重要な問題というか情報は、スターリンがこの芝居を好み、リピーターであったということである。このことは「アプトン版『白衛軍』の原典としての『トゥルビン家の日々』」という文章のなかで大森雅子氏によって詳しく述べられている。『トゥルビン家の日々』は最初は大成功で作者の華々しいデビュー作品となったのだが、話題になるにつれて、白衛軍に身を投じた軍人と家族を描くことに対する批判が生まれてくる。窮地に陥った作者に救いの手を差し伸べたのは、スターリンだった。

私たちはスターリンのことを誤解しているのかもしれないが、本来だったら、こんな芝居を書いて大当たりした作者は粛清されてもおかしくない。そう私たちは考える。しかしスターリンはこの芝居が好きで少なくとも15回は観ていたとのこと。大森氏の説明を引用させていただく。
スターリンは『トゥルビン家の日々』を観て、「トゥルビン家のような人々までもが、武器を捨てて、民衆の意思に従わざるを得なくなり、自身の戦いが完全な敗北に終わったことを認めるならば、ボリシェヴィキは無敵ということだ。『トゥルビン家の日々』は、すべてを打ち砕くボリシェヴィズムの力を示している」と述べている。実は、『トゥルビン家の日々』では(またアプトン版の『白衛軍』でも)、ボリシェヴィキは戯曲の登場人物のなかにはいない。それでもスターリンは、白衛軍がキーウにおいて敗北する運命にあることを率直に描き出したブルガーコフの筆致の中に、「無敵」のボリシェヴィキの存在を嗅ぎ取り、『トゥルビン家の日々』をボリシェヴィキにとって都合の良い作品と見なしていた。

基本的にここに説明されているようなことだろうと思うのだが、ただスターリンが実は文学好き、芝居通であったとか、革命直後の時期へのノスタルジーに囚われていたというような方向に話題をすすめることなく、もう少し掘り下げてもいいのではないかと思う。

実際、なぜこのような作品が泣く子も黙るスターリン時代に許されたのかと不思議に思ったもうひとつの作品がある。ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』という長編小説である(「静かな」というのはドン川にかかる枕詞のようなもの)。ソ連の社会主義リアリズムの代表的作家のひとりによる大河小説であり、ロシア革命前後の事件を扱う革命の叙事詩でもあるような作品が、なぜ、白軍(白衛軍)に身を投じ、ロシア各地を転戦する主人公の物語なのか。革命の叙事詩であるのなら、なぜ革命側、赤軍の視点から、歴史的大変動を描かないのか。革命軍側の物語が読めると思っていたら、白軍(白衛軍)しか出てこない。【なお小説の後半では、主人公は赤軍にも身を投ずる。とはいえ再び白衛軍に戻り、彼は完全に信用を失うののだが】

プロパガンダ作品に対しては嫌悪感しか持たない私だが、しかし、このようにプロパガンダ性が皆無のような作品に対しては、作者の意図がどのへんにあるのかみえなくて戸惑った。

いまとなっては、この大長編の内容はほぼ忘れてしまったのだが、しかし、中学生だったか高校生だったかも忘れたが、私は学校から帰ると、勉強もせずにこの作品を読みふけっていた記憶があるので、最後まで飽きることなく読み通せたくらいに十分に面白かったのだと思う。

【主人公はウクライナのドン・コサックの青年で、第一次大戦中、ドイツ軍と戦う。その戦いのさなかロシアで革命が起こり、ドイツと停戦してロシア軍は引き上げるのだが、ロシア領内で内戦が勃発する。主人公は白衛軍に身を投ずるという物語。最初、主人公は、馬に乗り槍をもってドイツ軍と戦うので、なんという戦法なのか、日本の戦国時代じゃあるまいしと違和感マックスだった。その違和感がなくなったのは、読んでからずっと後のこと、サム・ペキンパー監督の西部劇『ダンディー大佐』を観たときである。映画の終盤、アメリカの北軍の騎兵たちが、メキシコに進駐してきたフランス軍の騎兵と川のなかで激突する。乱戦になると銃器が使えず槍が実に有効な武器となることがわかった。と、まあそれほどまでに『静かなドン』は記憶には残っていた。】

プロパガンダ性も感じられないことがよかったのかもしれないが、しかし、ふと我に返ると、これは白衛軍に身を投じたドン・コサックの青年の話で、反革命勢力側の物語であって、ほんとうに大丈夫か。大丈夫だったようだが、では、これが許されたのはどうしてなのかと疑問がわいてきた。

あとになって知ったのだが、『静かなドン』はスターリンが大好きな本だったようだ。なぜ、好きだったのか。

『静かなドン』は、第一次大戦からロシア革命、そして内戦という激動の時代における社会の変化を白衛軍の側からみている。革命後の政権がどのようなかたちで改革を行い、国造りを行ったのか、またどのようにして大胆な、ときには過酷な改革を断行したのかについては、白衛軍の中から外をみるにすぎないために、よくわからない。よくわからないまま、白衛軍は赤軍に押され敗退を余儀なくされてゆく。時代の趨勢は革命政権のほうにあり、反革命運動は下火になるか失敗するしかなくなる。かくして年を経るにしたがい革命後の新たな社会主義体制は盤石なものとなり、もう後戻りはできないほど改革はすすんでゆく。

それに抵抗することはもうできない。ロシア革命によってもたらされた新たな生活と社会体制は、太古よりゆうぜんと流れるドン川、静かなドン川の流れをせき止めることができないと同じように、もう押しとどめることはできない段階に入っている。新しい生活は、革命による改革の痕跡を消し去り、いまや自然なものとなる。昔からあったもののように感じられる。ちょうど、悠久のドン川の流れのように。

おそらく社会主義の理念とか唯物史観における段階的変化とかを説くよりも、革命を「自然化」することのほうが、革命を定着するためには効果的なのであろう。そのためにも最初、革命に敵対していた人々が、あきらめて敗北を抱きしめること、みずからすすんで抱きしめることがなんとしても必要なのだ。赤色革命は変えようがない運命であり、唯一の選択肢なのだと、感覚的に納得することが重要なのである。最高最大のプロパガンダとは、プロパガンダなきプロパガンダなのである。このことを『静かなドン』はやってのけた。同じことはブルガーコフの『白衛軍』にもあてはまりはしないか。

まとめると、
1) 敵の側にたって、味方を外からみるようにすること。白軍にいる者の目線で、赤軍の動向を探る。その際、赤軍の詳しい動向はわからない。赤軍は、白軍にとって、遠くにいる不気味な他者として描かれる。これが次の重要な一手につながる。

2) 歴史的事実に即して、負ける側と勝利する側を区別する。白軍は敗退する側であり、赤軍は勝利する側である。赤軍は遠くにいる不気味な他者であるため動向はぼんやりとしかわからない。これは戦いの勝敗の原因が明確につかめないことにもなる。白軍の敗退は、白軍内の内紛とか腐敗によるものと想像できるのだが、赤軍側のどのような動きが勝利につながったのかわからない。ここで赤軍側のイデオロギーなり思想や倫理性が勝利につながったという露骨なプロパガンダは逆効果になるために、それは強調しない。また優位な軍事力による勝利であると、敗北する側を英雄視して利するために、勝敗は人間の意志ではなく思想でもなう善悪でもなくあくまでも運命によって決まるという印象をあたえる。このために勝利者側の赤軍については詳しく語られることはない。

3) 長い時の流れの果てにでもいいし、短いが重要な転機ともいえる事件の結果としてでもいいが、勝者側は運命によって勝者になり、この流れは抑えることのできない自然なものという印象が生まれる。勝利するのは隠れたプロパガンダである。反革命は、英雄的自己犠牲とか旧体制と国体の護持などの思想や美学を大義名分として掲げようとも、流れに取り残されて未来を失っている。そしてそれに反して、革命政権は、まさに革命的な登場、暴力的刷新や流血的改革をともなうものであったにもかかわらず、その斬新さの外貌は消え去り、新たな生活様式を、自然なもの、昔からあったもののようにして人々に受容させるのである。革命はいいも悪いもないう。ただ受け入れるべき民族の宿命となったのである。

ブルガーコフの『白衛軍』の最後に、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは偶然ではないだろう。最後のソーニャのセリフをここで引用するのはやめようと思う。いつも、あのせりふを聞いたり読むたびに泣けてくるので。問題は、革命前の苦しい状況のなかで耐えてゆくことしかできない、耐えに耐えて、シェイクスピアのリア王のいう「あらゆる忍耐の雛型」the pattern of all patienceになるようなチェーホフの人物たちにとって、その苦しみ、その呻吟の原因は革命前のロシアであったとしたら、革命後のロシアでは、単純に考えれば、その苦しみも消えるはずである。『白衛軍』の最後で『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは、革命後あるいは赤軍の勝利の後も事態は好転するどころか、悪化の一途をたどるのではないかという作者の暗い予感と革命批判が原因だとするならば、あろうことか、スターリンは、そこに革命後の人々の望ましい心情をみたのである。

つまりたとえ革命に抵抗があったとしても、我慢して耐えてそれを受け入れるしかないのではないか。そうすればこれまでの苦しみも忘れ、いずれ一息つけるのだろう。こうロシアの人々、それも白衛軍に身を投じた軍人とかその親戚家族が思ってくれれば、革命は成功したも同じである。スターリンがこの芝居を好んだのは理由がないわけではなかった。革命はドン川の流れになろうとしているからである。

これはグラムシのいうヘゲモニーということかと言われればその通りである。ただしブルガーコフの『白衛軍』またそのあとに登場するもうひとつの白衛軍物語『静かなドン』の時代においても、革命を自然なもの抵抗できない運命とみるようなヘゲモニーはまだ十分に確立したわけではなかったと思われる。革命はいつなんどき転覆されるかわからなかった。そのためスターリンは、『白衛軍』のなかに、ヘゲモニーそのものではなく、ヘゲモニー確立の夢をヴィジョンを観たというべきだろう。

私はスターリン時代の粛清の実態について無知なので、とんちんかんなことを述べることになるのかもしれないが、あるいはすでに述べているのかもしれないが――あえて白衛軍物語(ブルガーコフの、また時代をくだってはショーロホフの)を許可したことに対しては、受容者の側に緊張が生まれたことは想像にかたくない。

反革命側の物語を受容することは、受容者が――その政治的立場はなんであれ――反革命側とみなされる危険性もある。だがこれが許されているということは、作品がゲリラ的な反体制的営為ではなく、それどころか革命側の意向に沿ったものだ思うしかない。では、どういう点で意向に沿っているのか。単純に考えれば白軍は負けるということである。白衛軍の歴史的使命は終わったということである。だが滅んでゆくものへの哀惜の念あるいはノスタルジアを作者が抱いていたとしても、なんらかのかたちで監視され粛清の対象となるかもしれない受容者には、それが求められていたとは思えない。

では受容者には何が求められるのか。それは、スターリンのヘゲモニーの成立の夢を、みずからの夢として引き受けることであろう。理屈でもない思想でもない哲学でもない、ただ受け入れること――革命を、ゆるぎない自然現象として受け入れるような心的傾向をもつこと。ヘゲモニーの夢を共有することである。

もし民主的な国家で言論や思想や信教の自由が保障されている場合は、これは反政府的・反体制的なゲリラ的あるいはテロ的な作品上演であろう。しかし統制国家・監視国家においては、一見ゲリラ的公演であっても、それが許可されている以上、政府とのなんらかの共謀が疑われる。そのため観客は舞台のなかにポジティヴなメッセージを読み取ろうとする。それが革命の受け入れである。あるいは革命が受け入れるであろうという想定であり予測である。観客が劇から、みずからが批判されないようなメッセージを見出すとき、観客はスターリンの姿勢と同調したことになる。おそらくこれはブルガーコフが関知しないどころか、夢にも思わなかったかもしれない。しかしスターリンにとっては観客のなかに望ましい心情を形成したことになる。

スターリンにとって、革命の英雄たちは、自身の地位を脅かしかねないために、次々と粛清されたようだが、白衛軍物語をこしらえ革命以前の時代へのノスタルジアにひたるような反革命勢力は敵でありながら同時に敵ではなかったということである。彼ら反革命勢力によって革命のヘゲモニー確立への道が開かれたのだから。

敵こそわが友であった。

エピローグ

『静かなドン』の作者ショーロホフも、スターリンと同じようなことを考えて、白衛軍物語である大河小説を書いたのだろうと私は考えていた。しかし『静かなドン』の分厚い英語訳版のイントロには驚くべきことが書かれていた。

『静かなドン』は1926年(『白衛軍』初演の年)から1940年にかけての雑誌連載を本にしたものである。白衛軍に身を投じた主人公という設定には危険なものがあったが、さらに革命政権の強圧的な改革が赤裸々に描かれている部分があって、これが連載時には検閲にひっかり、連載中止の可能性が出てきた。このときショーロホフ(当時20代前半)はゴーリキーの紹介でスターリンと直談判することになった。ショーロホフとスターリンとの短い会合で何が話し合われたのかわからないが、ただ、その結果、連載再開が認められたのである。

ブルガーコフに寛容な態度を示したスターリンには、同じ白衛軍物語を書きつつあったショーロホフにも寛容な態度を示した。いったいスターリンはどういう人間なのだと言いたくなるが、それは的確な政治的判断だったのかもしれない。

『白衛軍』の上演プログラムには「ブルガーコフの生涯と作品」という短い記事があり(ヴァレリー・グレチュコ/増本浩子訳)、そのなかで若き天才詩人マヤコフスキーが自殺した直後のことで、世間を騒がせるような自殺者がもうひとり出ることをスターリンが嫌ったからではないかと書かれている。

【ちなみに1930年「4月17日の葬儀には15万人の人々が参列し、レーニン、スターリンの葬儀に次ぐ規模となった」とWikipediaは書いているが、このときスターリンはまだ死んでいない】

ショーロホフの場合はどうか。彼は20代になったばかりの頃に『静かなドン』の連載をはじめた天才的作家だったが、その作風は、伝統的なあるいは保守的なリアリズムである。革命政権に批判的なことを書いているようだが、赤軍としても戦ったショーロホフは政権にとっても利用価値の高い作家と判断したようだ。おそらくこの判断には、当時、ロシア・フォルマリズムの流行が影を落としていた。フォルマリズムというわけのわからない、エリート的、前衛的、文学理論は、ショーロホフのリアリズム小説に比べたら大衆受けもしない、大学人がもてあそぶブルジョワ理論としかみなされなかった。事実、ショーロホフに温情が示されたのとは対照的に、この時期、フォルマリズムは弾圧され、やがてフランス構造主義に見出されるまで歴史から消えることになる。

とはいえショーロホフがいくらソヴィエト政権にとって気に入られた作家だったとしても、『静かなドン』を書いたのは、敵を描くことで味方を強化するという文化的ヘゲモニー形成に加担する意図はおそらくなく、たんに社会主義政権が気に入らなかったからだ。それが今にしてみればわかる。『静かなドン』は、端的にいって、反革命の小説である。滅びゆく旧勢力とドン・コサックに捧げられたレクイエムである。前衛的(とまではいえないかもしれないが、また『白衛軍』はチェーホフ的なのだが)・モダニズム的ブルガーコフと、保守的なショーロホフがともに、ロシア革命によって失われた世界のレクイエムを作っていたのである。
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2025年01月03日

わたし失敗するので

昨年(2024年)の夏ごろに公開されていた『インサイドヘッド2』(Inside Out 2, 2024)が、12月に入ってからいくいつかの動画配信でみることができるようになった。そのため、あらためてこのアニメ映画の興味深いところを指摘しておきたい。

とはいえ誰もが気づくところなのだが。

前作『インサイドヘッド』のときから成長して思春期の女の子になったライリー・アンダーセンには、これまでのヨコロビ(Joy)、カナシミ(Sadness)、イカリ(Anger)、ムカムカ(Disgust)、ビビり(Fear)の5つの感情のほかに、新たにシンパイ(Anxiety)、イイナー(Envy)、ハズカシ(Embarrassment)、ダリイ(Ennui)、そしてナツカシ(Nostalgia)の5つの感情が加わる。というか、この新たな5つの感情が、それまでの古い5つの感情(子供っぽいストレートな感情)にとってかわるというか、それまでの感情を周辺に追いやり、主流に収まることになる。脳内における感情の覇権争いが物語のメインになる。

前作において5つの感情のうち、中心となるのがヨコロビ(Joy)だったが、成長をとげたライリーの頭のなかに出現する5つの感情のうち中心となるのがシンパイ(Anxiety)である。これがどういうことになるのか。私にとって、それは予想外の展開となった。

ライリーは、明日、アイスホッケーの練習試合がある。この試合は高校生のチームに、ライリーら中学生が混じって行なう試合で、ここで活躍して、コーチにも、またチームメイトにも認められ、強いアイス・ホッケーチームを擁する高校への進学を有利に進めるというのが、ライリーの願望である。ライリーがアイス・ホッケーの選手というのは前作と同じ設定である。

試合前日の夜、眠っているライリーの頭のなかで何が起こっているのかというと、「わたし失敗するので」と自分に言い聞かせることだった。これには驚いた。

ふつう、重要な試合に臨む場合、過去の成功体験をもとに、脳内で試合をシミュレートして、作戦を練ると同時に「わたし失敗しないので」と自分に言い聞かせてリラックスするのではないかと思う。わたしはアスリートではないのだが、そんなふうに考えた。

ところがライリーの頭のなかでは、たとえば自分が試合の際にしくじって相手チームに大量得点をあたえてしまい、チームメイトからは非難され、コーチからは叱責され、高校生のメンバーや、自分の仲間の中学生メンバーからも後ろ指をさされてチームを追われるというイメージが脳内に定着する。そしてそのような失敗するイメージを可能な限り多くこしらえ蓄積することを脳内で行なうのである。これでは明るい明日どころか、絶望の未来しか頭に浮かんでこない。そんな状態で翌日の試合に臨むのである。

「わたし失敗しないので」ではなく「わたし絶対に失敗するので」がまるで呪文のように頭をよぎり、この呪文で自分自身を追い込み追い詰め、そこで、もうやけくそになって暴れまくる、それが運動能力の爆発的な向上となり、すぐれたパフォーマンスとなってあらわれる。自分は失敗すると思い込んでいる彼女が試合で大活躍するのである。

繰り返すが、「わたし失敗しないので」とポジティヴに考え、成功体験をもとにリラックスして試合に臨んで、もてる能力を発揮する場合と、「わたし失敗するので」とネガティヴに考え、自分を追い詰め不安と緊張によって自分を締め上げ、それが爆発的な能力の向上への引き金となるというのは、どちらもありうることである。ただ一般的には後者の可能性については、日本では、考慮の埒外に置かれていたのかもしれないが、この『インサイドヘッド2』では、それが常態であり、常識化していることに驚いた。

思い当たるふしがないでもない。私は東京大学の教員だったが、東大生の自己評価は低い。優秀な学生であればあるほど自己評価が低いように思われた。それが不思議だった。

実際、こんなに優秀な学生が、どうして自信を喪失するのか、不思議でたまらなかったことがある。見栄でも謙遜でもなんでもなく、ほんとうに自分はダメだと考えている学生が、最終的には誰にもひけをとらない優秀な成績をおさめ、卓越した成果をあげることが、東大ではふつうに起きていた。

その秘密というかからくりは、自己評価を低くするときには徹底して低くして自分を追いつめることであった。「向上心がない奴はだめだ」というとき、たんにただがんばるという気持ちだけで向上できるものではない。自分の未熟さを真摯に受け止め、失敗の必然性を納得し、苦しくて泣きだしそうなるほど絶望して自分を追い込むことではじめて、向上できるのである。そのためには自己評価を下げねばならない。

もちろんこのプロセスには危険がともなう。『インサドヘッド2』では、ヨロコビ(Joy)がシンパイ(Anxiety)に主導権を奪われる。それが子供から大人への成長の証しとして当然されているようだが、しかしシンパイ(Anxiety)が脳内で他の感情をコントロールし、行為の方向性を決定するというのは、それ自体で、心配な面がある。

実際、『インサイドヘッド2』における、このネガティヴな不安と絶望によって能力の爆発的向上をはかるという工程は、不安と焦燥がさらなる不安と焦燥へを招くという負のスパイラルから抜け出せなくなるという危険性を伴うことになる。ダメだと自分に言い聞かせることによって、ほんとにダメになってしまう危険性がある。シンパイ(Anxiety)の暴走によって神経症が引き起こされる可能性がある。

実際『インサイドヘッド2』ではそれが起こる。主導権を握ったシンパイ(Anxiety)が暴走して収拾がつかなくなる。それをとめるのが、かつて感情の主導権を握っていたヨロコビ(Joy)である。おそらくそれは緊張からの解放をめざすこと、ひたすら向上することだけでなく時には休息する必要があることの自覚であり、おそらくこれが最終的に大人へと成長することであるという暗示がある。

古い5つの感情が、新しい5つの感情に追いやられるということが大人への成長ではない。新たに覇権をにぎった新しい5つの感情が、暴走することなく、古い感情とも和解し協力しあえるようになることが、大人へのほんとうの成長だったのである。
posted by ohashi at 23:23| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年01月02日

御器所

以下のネット記事が目についた。
「撫牛子」「御器所」「放出」「十六島」←全部読める? 全国4700人が答えた「他県民には読めない地元の地名」発表 オトナンサー編集部 の意見 • 2025年1月2日

ソニー生命保険(東京都千代田区)が「47都道府県別 生活意識調査2024」を実施。「他の都道府県の県民には読めないと思う地元の地名」についての結果を発表しました。

調査は2024年10月18日から同月28日、全国の20~59歳の男女を対象に、インターネットリサーチで実施。計4700人(各都道府県100人)から有効回答を得ています。

「他の都道府県の県民には読めないと思う地元の地名」について各都道府県の在住者に聞いたところ(自由回答)、北海道では「倶知安(くっちゃん)」、青森県では「撫牛子(ないじょうし)」、千葉県では「匝瑳(そうさ)」、富山県では「石動(いするぎ)」、長野県では「麻績(おみ)」、愛知県では「御器所(ごきそ)」などの回答が。

また、京都府では「間人(たいざ)」、大阪府では「放出(はなてん)」、奈良県では「京終(きょうばて)」、島根県では「十六島(うっぷるい)」、福岡県では「雑餉隈(ざっしょのくま)」、長崎県では「女の都(めのと)」、宮崎県では「都城(みやこのじょう)」といった回答が集まったということです。

あなたの地元にある「他の都道府県の県民には読めないと思う地名」は、どんな名前ですか?

この記事で、愛知県では「御器所(ごきそ)」という回答があったということだが、やはり、これは読めないか。

私には読める。実際、パソコンで「ごきそ」と打つと、「御器所」に変換される。だからPCのデータに入っている地名なのだが、それとはべつになぜ私に読めるのかというと、私は名古屋市の昭和区の御器所(ごきそ)という地名のところに住んでいたからである。子供の頃からずっと成人するまで。だから子供のころから親しんだ、またいまとなってはなつかしい地名なのだが、それがよりにもよって、愛知県のなかの読めない地名の例としてあがるとは。

正月早々、縁起がいいのか悪いのかわからないのだが。
posted by ohashi at 23:13| コメント | 更新情報をチェックする

『正体』

監督:藤井道人。2024年11月29日公開
【冤罪とか警察の捜査方法とか死刑制度などについて、この映画をめぐっていろいろ語られているので、ここでは映画の様式あるは形態に集中して語ることを許していただきたい。】

映画の冒頭近くで、脱獄した死刑囚・鏑木慶一/横浜流星を追ってきた刑事・又貫征吾/山田孝之が、脱獄後の鏑木/横浜流星と接触した数人と対峙する場面がある。左側に刑事/山田、右側に関係者が位置して、対峙するふたりの横顔が画面を占める。鏑木/横浜と接触した数人は、鏑木/横浜が嘘をついていた、あるいは何も語らなかったので、脱獄し指名手配された人間とは気づかなかったと口をそろえて証言する。いらだちを隠せない刑事/山田の顔が、最後に、正面から映し出される。それは取り調べたこの数人の特定の誰かではなく全員に語りかけている、あるいは全員に同じことを語りかけているという印象をあたえるのだが……。あなたたちは、彼の正体を見破れなかったのですか、と。そして次にタイトル「正体」の文字が大きく画面にでる。

私たちと言ってもいいのだが、つまり私と同じような平均的な知力をもつ平均的な観客、私たちは、ここで脱獄囚が、その逃亡生活のなかで、こうした人たちと接触し、彼らをもののみごとに騙しおおせたのだろう、そういう物語の映画にちがいないと予想する。そしてさらに予想する、彼が、その狡知によって、いかに正体を見破られずにすごしたのか、それが映画の醍醐味となるだろう、と。

だが映画の最後になって、刑事と関係者が横向きで対峙するこの冒頭の場面は、最初とは異なる意味合いを帯びることに気づくことになる。

これは私が勝手に、あるいは気まぐれに、冒頭の場面を思い出したということではない。映画の最後のほうでも、この対峙の場面がもう一度出てくるのだ。対峙する右側の人物(つまり彼と接触していた人たち)は同じであり、左側の人物だけが異なる。左側の人物は、刑事ではなく鏑木/横浜流星であり、彼は収監され、いま面会室でガラス越しに対峙しているのである。そして彼と接触している人物たちはみな口をそろえて、彼の無実が立証されることを信じ、彼を励ますのである。

【ここですでにネタバレを一つ。原作では鏑木は最後に殺され、生きているうちに冤罪を晴らすことができなかった。映画では彼は銃で撃たれるものの一命をとりとめ、収監され、裁判に臨むことになる。なお、以下、ネタバレを含む記述となるので注意。】

この最後の場面、正確には裁判で判決が言い渡される前の収監中の鏑木と、関係者が対峙する場面は、冒頭の同じような対峙の場面(おそらくは警察の取調室での)を思い起こさせるものであり、冒頭の対峙場面の再考を観る者に迫るのである。

冒頭で、刑事・又貫征吾/山田孝之は、彼の正体が見抜けなかったのかと咎めるように言い放す。だが、映画を観終わったか、観終わりそうになっている観客にはわかる。彼らは正体を見抜いていた。鏑木慶一/横浜流星が、指名手配されている脱獄囚であることを、そして彼が人殺しなどしない無実の人間であることを。そうこの映画は、狡猾な脱獄囚が出会った人びとを騙して逃げおおせる話ではなかった。彼と出会った人々が、騙されるのではなく、彼の正体を知るようになる話だと。そして彼の正体を知るようになった人びとはみな彼を愛するようになるのだ、と。誰一人としてだまされてはいなかった。誰一人として正体を見失うことはなかった。

この冒頭の場面は、こうして最初の印象とは異なるものとなるのだが、異なるのはそれだけではない。刑事/山田孝之は、彼の正体を見破れなかったのですかと問うのだが、その問いは、刑事自身にもはねかえってくる。刑事は、鏑木/横浜の正体をほんとうにわからなかったのか。いや、ひょっとしたら刑事/山田自身、鏑木/横浜が無実であることを最初からわかっていたのではないか、彼は正体を見破っていたのではなかったか。

かくして冒頭の対峙する場面は、無知をテーマにしているかにみえて、実は、洞察をテーマとした場面へと反転する。

これが冒頭の対峙場面の正体である。

無知を装った洞察、あるいは洞察を語れない沈黙といってもいい。鏑木慶一/横浜流星が逃亡するときの方法が壮絶なのだが、彼は独房でガラスの破片かなにかで自分の口の中を、舌を傷つける。口腔内からおびただしい出血をする。それを吐血と思わせることによって、彼は救急車で刑務所から病院へと運ばれる。その途中で救急車から逃げ出すのである。

この、ある意味、狡猾な、そしてその命がけの脱出方法には感動すら覚えるのだが、同時に、そこにはアレゴリカルな意味も込められている。口を舌を傷つけることは、彼が無実を主張しても聞き入れてもらえなかったこと、声を言葉を失ったも同じ状態であったことを、私たちに強く印象付けるのである。

となると冒頭の対峙場面における彼と接触した人びとの無知(思われるもの)も、彼の無実を主張したい声を封じられていたことのアレゴリーともとれないことはない。実際、彼と接触した人びとは、やがて連帯し、彼の無実を主張する運動を起こすまでになる。声を奪われていた彼に声をあたえる人びとがあらわれてくるのである。

無知から知へ、無音・無声・沈黙から音と声そして主張への変遷は、映画の最後の判決申し渡しの場面でも繰り広げられる。

いま変遷といったが、反転といったほうがいいのかもしれない。冒頭の対峙場面が無知から知へと反転する。この場面の刑事の問いかけが、問いかける者つまり刑事へと反転する。問う者が問われる者になるという反転。

ここで思い出されるのが鏑木慶一/横浜流星が、ジャーナリストの安藤沙耶香/吉岡里帆の住居に隠れていたところ刑事たちに踏み込まれ窓から街路へと飛び降りて逃げ出すシーンである。住宅街か商店街かどちらともつかないところだが、人通りの多い場所を彼は必死で逃走する。ワンテイク・ワンシーンで撮られていたと記憶するが、迫力のあるこの逃亡シーンにおいて、街の人びとは彼の行く手を阻む敵でもある。おそらくは全員エキストラなのだろうが、観ている側からすると、一般人を巻き込むゲリラ撮影をしているとしか思えず、道行く人びとが、彼の逃走経路上の障害物にしかみえず、ごく普通の庶民ともいえる人びとが凶悪な妨害者・通報者・監視者にもみえてくるというパラノイアを観客は主人公と共有できてしまう(なお彼は川に飛び降りて逃げおおせるのだが)。

逃亡者である彼にとって、妨害者・通報者・監視者でしかない人びとの群れは、映画の最後のほうには、反転して、彼を冤罪事件・誤認逮捕の被害者として再捜査を求める声をあげる人びとへと変わってゆく。敵とみえていたものが、味方へと反転する。それは鏑木/横浜流星が事件の真相を追い、自己の無実を証明するために奔走するなかで多くの人と接触してきたことによって、彼の支援者たちをはぐくむことにもなったからである。

その行程は、一方で彼の存在を警察に通報することになっても、他方で、彼の支援者をつくりだした。敵と味方とが、不分明にまざりあり、それが最後には、味方だったとわかる。敵と即断することなく味方であることを見極めよ。あるいは敵が味方となることはある――これが最後の判決言い渡しの場面に劇的なかたちで反復される。

裁判所で判決が言い渡されるとき、傍証席にいる安藤沙耶香/吉岡里帆の顔が大きく映し出されるのだが、判決が言い渡されているとき、音が消える。無音で映像だけとなる(心理的に解釈すれば、判決を聞く前の彼女の極度の緊張状態から、茫然自失となり周囲の音が聴こえなくなったということだろうか)。彼女の周囲の人は判決を聞いて興奮している。なかには拍手している傍聴者もいる。だが無音なので、判決内容がわからない。拍手している人は彼が無罪を勝ち取ったことに対して拍手しているのか、凶悪な死刑囚の逃亡犯にこれでようやく正義の鉄槌がふりおろされ極刑が言い渡された、このことに拍手しているのかわからない。無音のまま、私たちは、傍聴席の人々の顔やふるまいをつぶさに観察することになる。そして彼の支援者が満面の笑みを浮かべて拍手している様をみて、確信する。無罪判決だったのだ、と。と、このとき音が戻る。無罪判決に沸き立つ傍聴席、そして笑顔をみせる横浜流星。エンドクレジットがはじまる。

この判決言い渡しの場面が、映画全体の集約となっていることは詳しく語る必要はないだろう。またそれは奇をてらった演出ではなく、映画のロジックの延長線上に確固たるかたち位置づけれる映像表現であることは、どれほど強調しても強調したりないのであるが。

結局、正体とは、死刑囚の逃亡犯の無実の正体であっただけでなく、彼の正体を見抜き、彼を支援する人たちを集わせる社会のありようでもあったのだ。凶悪な犯罪者の正体は、無実の無垢の高校生だった。誤認逮捕した刑事や警察はまた再捜査を決断する真相究明者でもあった。凶悪殺人犯を糾弾した世論はまた冤罪事件を糾弾する正義の声でもあった。敵の正体は、敵ではなかったかもしれない。あるいは敵の正体が味方であると信ずること。そしてその化学変化を、そのプロセスをみきわめること、それがこの映画の映像表現の賭けだったのだ。
posted by ohashi at 22:58| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年01月01日

『ライオンキング:ムファサ』

I always wanted a brother.

『ライオンキング』は、最初のアニメ版(正確には舞台ミュージカルのアニメ版)しかみていなくて、その後のアニメ版や実写版のスピンオフ篇などなにもみていないのだが、今回、『ライオン・キング:ムファサ』(原題Mufasa: Lion King, 2024)を予備知識なしの吹き替え版実写版でみることに。

ただ正確には実写版ではなくて、実写のようなCGによる映画なのだが、それにしても、予備知識ゼロで観たために、最初は知らない名前のライオンたちが出てきて、物語がつかめなかったが、最後にスカー(アニメ版ではムファサの弟)が誕生し、ムファサがシンバの父親であることもわかり、最初のアニメ版の前日譚であることがはっきりして大団円を迎えることになった。

それはそれでよかったのだが、予備知識ゼロで観たために、監督がバリー・ジェンキンズであることをエンドクレジットではじめて知ることに。バリー・ジェンキンズ、そう、正統派とでもいうべきゲイ映画でアカデミー賞も獲った『ムーンライト』(2016)の監督じゃないか。それがわかると、この映画がにわかにゲイ映画にみえてきた。

最初のアニメ版はシェイクスピアの『ハムレット』の翻案でもあって、兄が邪悪な弟に殺され、その兄の息子が、その兄の弟つまり叔父に復讐する物語だった。シェイクスピアお得意の兄と弟の確執と、弟による兄殺しの世界だが、それは『ハムレット』のなかで言及もされているように、聖書で語られる世界で最初の殺人事件、弟カインによる兄アベル殺しという原型的な兄殺しにもつながる神話的次元をももっていた。アニメ版では、ムファサ(兄)とスカー(弟)の対立である。

ところが今回の『ライオン・キング:ムファサ』(以後、『ムファサ』と表記)では、ムファサとスカーは兄弟ではなくなった。血のつながりはなくなった。アメリカのディズニー・ファンはこの設定の変更を怒っているらしいのだが、ふたりは兄弟ではなく、血のつながりのない他者となった。そしてここにゲイ物語誕生の契機があった。ムファサとスカーは、兄弟未満、友達以上の情愛関係をむすことになるのだから。

ムファサとスカー(スカーは後年の綽名のようなもので、もともとはタカと呼ばれていた)の物語は、川でワニに追われていたムファサをタカが救出するところからはじまる。そう水の物語。

よそ者の流れ者(文字通り「流れ者」なのだが)となったムファサは、タカの父ライオンであるオバシから嫌われ、雌ライオンの群れのなかで暮らすことを命じられる。流れ者になってからのムファサのジェンダーは雄雌の中間に、あるいはトランス的なものとなる。ジェンダー的にも流れ者である。いっぽうタカは父ライオンの後継者として優遇されるが、タカとムファサは、おかれた境遇に関係なく、血のつながった兄弟のように仲が良い幼少期を過ごすことになる【予告編では「兄弟が欲しかった」というセリフが強調されていて、それを語るのがムファサで、新たにできた兄弟は弟のスカーだと思っていた。新しく子供が生まれて弟や妹になる。ところが映画をみると、そう語るのはタカ/スカーのほうであり、これで頭が混乱してしまった】

だがそれも、凶悪なはぐれライオンの襲撃の際にタカが臆病風にふかれたことから、勇気あるムファサに対して優位に立てなくなり、物語が新しい段階に入る。

兄弟のように仲の良い二人は、血のつながった兄弟ではないから兄弟愛というよりも友情関係にあるのだが、おそらくそれを〈兄弟未満・友情以上〉のゲイ的関係とみるのは、こじつけがはなはだしいと批判されるかもしれない。たしかに、映画のなかで幼い二人に明確なゲイ的関係はない。そこには是枝裕和監督の映画『怪物』にあるような小学生どうしの同性愛的関係はない。しかし『怪物』との類似性はある。それが水。つねに諏訪湖のみえる場所で事件は起こり、最後には少年二人が洪水で流されて死ぬという『怪物』の物語は、『ムファサ』とともに水のイメージを共有し、『ムファサ』も『怪物』と同様の同性愛物語であることを暗示してはいないだろうか。水の力で。

実際、『ムファサ』がこれほど水にこだわる映画とは予想だにできなかった。ムファサは洪水によって父・母と別れ、急流に流され滝つぼに落ち、そして救出される。また最後の白いライオン、キロスとの決闘の場面も、水のなかである。これはムファサにとって幼い頃の経験から、水がトラウマになり、水が弱点となっていることによる物語の盛り上げ方とも関係しようが、それにしても水が多い。『ムファサ』の水は、ゲイ的物語を暗示しているのである。

そもそも動物界は、セックスが後背位であることもあって、ゲイの世界である。そしてもうひとつ、アニメ版では声を担当している俳優陣は白人と黒人との混合によって成り立っているが、『ムファサ』では、アフリカのライオンを含むすべての動物がほぼ全員、黒人の俳優が声を担当している。『ムファサ』において強大で邪悪な天敵ともいえるキロスは白いライオンで、その声だけは白人が担当している(マッツ・ミケルセンである)。したがって『ムファサ』における白いライオンとその他のアフリカ・ライオンとの対立は白人と黒人との対立となっている(日本語吹き替え版ではこの関係は再現できない)。

アニメ版から『ムファサ』へと移行する段階で、その世界は、アフリカ系アメリカ人の世界になった。では、セクシュアリティの面で、アニメ版から『ムファサ』への移行において、その世界は、ヘテロからゲイへと変遷ととげたのか。いや、そもそもアニメ版においてもゲイ的要素は濃厚だった。むしろ『ムファサ』ではヘテロ性が強化される――とはいえゲイ的要素は消えることはないのだが。

最初のアニメ版、『ハムレット』の翻案であった『ライオン・キング』では、兄のムファサを殺すスカーは、兄の死後、兄のハーレムを引き継ぐこともなく雌ライオンに興味をしめさず、雄のハイエナたちとの生活を変えようとしない、まあゲイ的要素が濃厚なライオンだった(声はジェレミー・アイアンズが担当)――悪魔化されたゲイ男性というイメージだった。実際、『ハムレット』の場合、兄には大学生になる息子(ハムレットのこと)がいるのに、その兄の弟はずっと独身なのである。そのために考えられることは二つ。ひとつはゲイであること。もうひとつは兄嫁(ハムレットの母)に対する恋慕の情があって、機をみて兄を殺害し、兄嫁と結婚するに至ったという設定。このふたつの設定を『ムファサ』は引き受けているようにも思われる。

『ムファサ』におけるヘテロ化プロジェクトとは、おそらくこうである。ムファサとタカは、子供頃は同性愛のふたりのようにじゃれあっていたのだが(そもそも子供は同性愛者である――フロイト的にいうと子供は多形倒錯期あるいは肛門期にある――要は子供はみんな変態のホモだということである)。やがて、ヘテロの世界へと成長をとげ、子供は大人になる。『ムファサ』において、その契機となるのが、雌ライオン・サラビ(シンバの母)との出会いである。サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係になるのだが、ムファサはつねにタカをたててサラビを譲る格好になるのだが、実はそれがサラビに見抜かれ、サラビとムファサの仲がかえって深まるかたちになる。そしてタカは、ムファサによる盛り上げにもかかわらず、サラビとは結ばれなくなる。

実はこの映画ではタカに差し出される援助の手はどれも悪手となって、彼を不幸な目にあわせてしまう。そのアイロニックな悲劇性が顕著である。そして彼が不幸になるのと反比例してムファサはヒーロー化してゆく。不安定なジェンダーの雄から一人前の王者としての雄ライオンへと変貌をとげる。宿敵の白ライオン・キロスも倒す。そして王者として動物界に君臨する。

しかし、このヘテロ化には裏面がある。雌ライオン・サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係にあったのだろうか。たしかに最終的にタカは、サラビをムファサによって奪われるかっこうになる。その恨みが後年、タカ/スカーによるムファサ殺しとなるように思われる。しかし、ムファサとタカは兄弟のように仲が良かったのであって、そこに旅の友として雌のサラビが入ってくることによって二人の疑似兄弟関係にひびが入りはじめる。ゾウの暴走からサラビをまもったムファサのことに対し、タカは、サラビを恨んでいたのではないか。つまりサラビをめぐっての雄ふたりのライバル関係とみえたものの裏には、ムファサをめぐるサラビとタカのライバル関係があったのではないか。前者はつまり女一人を男二人が奪い合うヘテロの三角関係、後者は男一人を男と女が奪い合う、ヘテロとホモとの競争関係となる。

ムファサは、サラビをタカに譲ることによって、タカとのホモソーシャル関係あるいはホモセクシュアル関係を維持しようとする。ところがそれが裏目にでて、サラビはムファサを愛するようになる。そうなるとムファサとタカとのホモソーシャル関係が分断されることになる。ヘテロ関係はホモ関係と絡まり合っているのである。

要は『ムファサ』において典型的なヘテロ物語とみえたものが、その裏面ではゲイ物語でもあったということである。これをムファサの物語とスカーの物語といってもいい。両者は同じ物語を共有している。だがその意味は異なる。ちょうど絨毯の裏と表が同じ図柄を共有しながらも見た印象が大きく異なるように。したがって『ムファサ』は、ヘテロ物語と読んで全然問題ないのだが、同時に、ゲイ物語と読んでも全然問題ないのである。

タカは、キロスからムファサを助けるために顔面に傷を負う。それがスカーという名前の由来になるのだが、ある意味、それは名誉の負傷でもある。しかし、ムファサにとって、それは裏切り者のタカの忌まわしいしるしでもある。しかも傷をもつ者は、物語においては同性愛者であることが多い(現実に、傷のある人間が同性愛者であることはまずない。あくまでも物語のなかでの常套的設定のことである)。スカーは、ゲイのしるしである。それが名誉の負傷のしるしであることが判明することはあるのだろうか。『ムファサ』の後日譚を知っている私たちは、残念ながら、その日が来ないことを知っている。
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