彩の国さいたま芸術劇場で、シェイクスピア『夏の夜の夢』(吉田鋼太郎演出、小田島雄志訳)を観る。今回の公演は、実は数日前に観た新国立劇場中劇場のブルガーコフ『白衛軍』(上村聡史演出、小田島創志訳)と同様に、小田島家の翻訳ということではなく(いやそれも共通点だが)、ともに「文化庁劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業」である。そうした支援事業の意義は大きいと思うし、それによって公演が可能になるのはよいことだが、そのぶん今回のさいたま芸術劇場の公演のように、一般観客の観劇日が減るのはしかたないとあきらめるべきか、どうか。
というのも今回の吉田鋼太郎氏演出の『夏の夜の夢』は、前作の『ハムレット』ともども、これからの日本におけるシェイクスピア演劇のスタンダードを確立したという思いを強くしたからである。この公演は、日本各地を回ったら素晴らしい結果を残すと思うし、たとえすぐにでもなくてもよいが、いつか再演してほしいと願ってやまない公演である。
スタンダードというと、標準版ということで、平均的な出来と思われては困る。むしろこれは規範みたいなもので、これからのシェイクスピア劇上演の真価が、この吉田版を超えているか、あるいはそのレベルに到達しているかによって判断されるということである。けっして平均的ということではない。それだと独創性があまりないと思われがちだが、今回の公演は独創性を事欠くことはけっしてない。そうではなくて、独創性の立ち上げ方の標準あるいはモデルとしても今回の公演が重要な役割をはたすということである。
今回の公演は、高校生を中心とした若い観客に向けてもつくられているので、そこのところがどうかという不安もないわけではなかったが、実際の舞台は、これぞ『夏の世の夢』の、新たなる可能性と、過去の演出・翻案の集大成とでもいうべきものとが合体していて、高校生向けだからということではない、つまり手を抜かないし手を緩めない、見事な演出となっていた。
その最たる例が水を使う演出で、舞台の最初から最後まで、大きな水槽が置かれ、それが最初から最後まで重要な役割を担っていた。ただ水につかっていたり、水槽に投げ込まれたり、水槽の水をかけあったり、水槽のなかでころげまわったりと、これは水が主役の舞台というのは、いいすぎと思うのだが、水が、もう一人の出演者・登場人物である。水が、まちがいなく舞台に豊かな表情をあたえていた。
そしてもうひとつが階段(それに梯子)。まあ、水の使用も、昭和を感じさせる演出でもあるのだが、階段と梯子も、舞台空間を立体的に使うというか、舞台を三次元的に拡張するものである。と同時に、それらは演技を超絶技巧化する重要な装置ともなっていた。超絶技巧? そう、階段を登ったり下りたりしながら台詞を発することは、一度に二つのことをする(階段の上り下りと発声)ため、常人では簡単にできないことであり、演ずる者たちのすぐれた能力なしではなしえない。
そしてそうした技巧性や技術性を前面に出しながら、また舞台空間を余すところ活用しながら、最前列付近の観客に水がかかってもかまわない壮絶な水しぶきをまき散らし、そして水のしたたる裸体を何度も見せる俳優たちによって構成される舞台。演出家の、ある意味、わがままなというか盛りだくさんの要求に見事にこたえている俳優たちの努力に誰もが深い感銘を受けるにちがいない。
これは高校生にぜひ見てほしい舞台だし、高校生だけに見みせるのは惜しい、誰にも見てほしい舞台だった。
『白衛軍』1
新国立劇場中劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を観劇(本日ではない)。
演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。
とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。
今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。
ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。
ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。
【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】
今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。
なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。
【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく
演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。
とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。
今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。
ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。
ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。
【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】
今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。
なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。
【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく
posted by ohashi at 00:18| 演劇
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